先人の顰に倣い、インドの古典「バガヴァッド・ギーター」(上村勝彦/訳 岩波文庫版)を勇んで読み始めたものの、日本文の読みにくさに早くも挫折感を味わっていることは既に記した(物理学と哲学の接近~バガヴァッド・ギーター ... 2017/6/5(月))。
そこで、直ぐ借りられる鎧淳/訳の講談社学術文庫版を並行して読むことにした。少しは読解容易になるだろうとの期待を持って:
上村勝彦/訳 バガヴァッド・ギーター 岩波文庫 1992.3 270p
鎧淳/訳 バガヴァッド・ギーター講談社学術文庫 2008.3 275p
後者の原本は1998年4月の刊行(中央公論社)であると巻末に注記されている。とにかく、こちらの方が新しいから少しは読み易いのではないかと期待したのだが、五十歩百歩だった。
古代インドの大叙事詩『マハーバーラタ』中の挿話(鎧)あるいはインド古典のうちで最も有名な書であり、ヒンドゥー教が世界に誇る珠玉の聖典(上村)であり、インドの人達に崇め尊ばれ、広く知られ、愛好された「ギーター」は、気軽に読み流せるものではなかった。
文中にカタカナ書きの人名(似通ったものが多い)が頻出して状況が把握できないとか、禅問答風の対話が多くて話者の真意が汲み取れないとかで、読者には特別に明晰な頭脳が求められる思想書のようだ。
今回手にした両訳書の訳文にはかなりの違いがあるが、併せ読むと確かに理解は進む。試みに、第6章41行(鎧版では41頌)を対比してみよう:
≪ヨーガから脱落した者は、善行者の世界に達し、無限の歳月そこに住んだ後、清浄で栄光ある人々の家に再生する≫(上村)
≪ヨーガより逸脱せるものは、浄業者の世界にいたり、数多の星霜、(そこに)住み留まりし後、浄く高貴なる人びとの家に生まる。≫(鎧)
≪無限の歳月そこに住んだ後~再生する≫とは些か無理な話に思われるが、≪数多の星霜~≫ならば納得できる。この行(頌)は逆説的に響くが、ヨーガの修行は、最高レベルまで達しなくとも、それなりの功徳があると慰めているのだろうか。
「ギータ」最終行(第18章78行、通番700行)の両訳は次の通り:
≪ヨーガの主であるクリシュナがいる所、弓を執るアルジュナがいる所、そこには幸運があり、勝利があり、繁栄があり、確固たる政策がある。私はそう確信する≫(上村)
≪不可思議(ヨーガ)力の主クリシュナの在すところ、プリター夫人の御子、(無双の)弓取りあるところ、そこには、幸運、勝利、繁栄と、確たる正しきご政道ありとは、わが信ずるところです≫(鎧)
ここは、上村訳が解り易い。鎧訳は直訳に近いのか。人は、もって生まれた定めに従い、誠実に務めを果たすならば極楽往生できるという教えの結語も、要するに、信ずることに尽きるという訳か。
両訳書には、懇切丁寧な注および解説が付されているので、精読すればそれなりの理解域に達すると思われるが、それはまた次の機会を待つことにしよう。
原文(サンスクリット)は韻文であり、詩として鑑賞するに値するとのこと、訳文だけを観念的に追いかけても、「ギータ」の真価を感得出来ないと思うと、熱意が失せる。