またまた日経新聞に貴重な題材を見付けた。個人的な回想に浸ることになるが、当方の母校たる小学校の60~70年も昔の写真が載っていた:
谷口吉生(3) 疎開小1金沢の祖父母宅に
空襲警報、暗闇の中を避難
2017/6/3付 日本経済新聞 朝刊
子供のころ、東京から金沢までは夜行列車で一晩かかる長旅だった。
上野駅を出発すると寝台車は群馬県、長野県境の難所、碓氷峠にさしかかる。横川駅で停車し、急勾配を登るためのアプト式の機関車を最後尾に取り付けて軽井沢まで押し上げる。早朝に富山駅に着くと列車を降り、すすで真っ黒の顔を洗った。
1944年、小学1年の私は母と姉、生まれたばかりの妹とともに金沢の祖父母の家に疎開した。長男である父が東京で建築…
谷口氏が疎開先の金沢市で転入したのが「金沢市十一屋町国民学校」だったそうで、戦後に「金沢市立十一屋小学校」と改称され、当方はそこに入学した。記事中の校舎前面写真は我が記憶に整合した。
同校のHPを開き、学校概要を見ると、型通り校歌が紹介されていた。当時の校長先生の作詞した歌詞であった。この戦後の民主社会に相応しい校歌が出来る前に、忠君愛国調の古い校歌も一旦教えられていた。新旧両方の校歌を覚えている卒業生は3~4年次分くらいではないだろうか。
谷口氏は間もなく「金沢市立三馬国民学校」(現金沢市立三馬小学校)に転校したそうだが、同校は奇しくも我が母の母校(当時は尋常小学校と呼ばれていた筈)だ。