北原白秋の詩に山田耕筰や今川節が曲を付けた「ペチカ」は、戦前、滿洲の一般家庭における冬の一情景を歌ったものとされる。ペチカとはロシア式の暖炉だが、実際に見たことのある人は今では少ないらしい。当方も、ロシア式は、そうでないものとどのように違うのか想像もできない。言わば、幻の≪ペチカ≫である。
北朝鮮の小村で生まれ、3歳からの約9年、終戦の間近まで幼少期を滿洲で過ごしたという宋文源氏(現在韓国在住)が≪我が家は赤い煉瓦の家で、冬にはペチカ(ロシア式の暖炉)が本当に暖かかったのを今でも覚えています≫と書いている(なつかしい滿洲の平野、紀伊國屋書店季刊誌scripta No.43)。
白秋は当時、満州未経験だったと聞くと、ペチカの歌詞も軽薄に感じられるが、宋氏の実体験記に接すると、生気を帯びてくる。
何十年前のことか定かではないが、満州には狼がいて、疾走中のトラックの荷台に乗っていた人を襲って運び去ったという話を聞いた。滿洲の戦役に騎兵として駆り出された父の昔話だったかもしれない。半信半疑のまま何十年も過ぎたのだが、宋氏の寄稿には狼も登場する:
≪曲がりくねった山道を歩きながら子供達が大きな声で「おーい、狼出てこい!」と叫ぶと、その日に狼が出てくるといううわさがありました。ある日、私はふざけて「おーい、狼出てこーい!」と胸をはって大きな声で叫びました。後で知ったことですが、その日本当に狼が出てきて中国人の少年一人がけがをしたそうです。その日以来、私は冗談でも「狼、出てこい!」と叫んだことはありません≫
狼は今でも出没するかもしれないが、虎はどうだろうか:
≪冬のある日、学校に行く途中で、狩人の家の前に人が大勢集まっているので行ってみたところ、大きな雄のシベリア虎が倒れていて、びっくりしたことがあります。そんなに大きな虎を見たことがなかったのです≫
この書き振りでは、小さい虎は何回か見たことがあるものと推察される。