折り目正しい日本歌曲「椰子の実」(島崎藤村/大中寅二)は、我が愛唱歌の一つだと思い込んでいるが、このところ歌う機会に恵まれない。時々頭の中でメロディーを鳴らす程度だ。
この歌にまつわるエピソードとして、≪この詩は、伊良湖岬に流れ着いた椰子の実の話を柳田国男から聞いた藤村が発想した≫とか≪その話を誰にも話さないでくれと藤村が柳田に口止めした≫とか言われている。
そのため、名曲「椰子の実」は、民俗学者・柳田が偶々体験談を藤村に語ったことから生まれたのだと永年信じていた。
ところが、それは勘違いらしいと思わせる一文に遭遇した。岩波書店PR誌『図書』2017.3号所載、柄谷行人氏の「柳田国男と島崎藤村」である。![イメージ 1]()
それによれば、≪大学生の柳田国男は~海岸で南洋から流れ着いた椰子の実を見つけた。~東京へ帰ってから、そのころ島崎藤村が近所に住んでいたものだから~直ぐ~その話をした≫という。
つまり、柳田はその時、未だ民俗学者ではなく、一介の大学生だった。また、彼は、偶々ではなく、積極的に藤村に椰子の実の話をしたのだ。
柳田の学生時代の出来事だったことは、年譜などに注意深く目を通せば判るだろうが、≪東京に帰ると直ぐに近所の藤村に話に行った≫という点は重要である。
柄谷氏の所論を当方が誤解していないとすれば、柳田は、一詩人としての思いを込めて椰子の実の話を藤村にしたのだ。藤村はそれに感銘を受けるとともに、キャリアを積みだした詩人としての欲望から、その詩題を己が物にしたく、柳田に、≪君、その話を僕にくれ給えよ、誰にも言わずにくれ給え≫と頼んだのだ。
この背景の事情として、柳田が早くから詩作に手を染めていたこと、藤村とも文学誌を通じて親交があった事などを柄谷氏は記している。
「椰子の実」の詩は、確かに藤村の作であるが、その詩想の淵源を辿れば、若い詩人柳田国男に行き着くように思われてくる。認識を改めなくてはならない。
名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の實一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて
汝(なれ)はそも波に幾月
舊(もと)の樹は生ひや茂れる
枝はなほ影をやなせる
われもまた渚を枕
孤身(ひとりみ)の浮寢の旅ぞ
實をとりて胸にあつれば
新(あらた)なり流離の憂(うれひ)
海の日の沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙
思ひやる八重の汐々(しほじほ)
いづれの日にか國に歸らむ