「大礼奉祝唱歌」の作曲公募で第1位、賞金千円を得たのは平岡均之であった。最終的に最優秀5曲が選定され、第2位・賞金二百円を交付されたのは、次の4人であった:
怒田清光
井上武士
田村藤兵衛
今川 節
大家・井上武士の名がある。当時は34歳、横浜で小学校音楽教育の指導に当たっていたと思われる。
末席の今川節については、次の興味深いウェブサイト「今川節の部屋」を発見した:(http://www.city.fukui-sakai.lg.jp/tosyo/bunko/tosyojyouhou/ijin/imagawa.html)
“今川節は明治41年福井県に生まれた。銀行の給仕になり、同時に好きな音楽の道をめざして児童文学雑誌「赤い鳥」の音楽通信講習で作曲の勉強を始めた。
北原白秋の詩「ちょうちょう」に作曲して応募したところ、大正14年の「赤い鳥」8月号に成田為三氏の推奨作品として掲載された。16歳の時のことである。翌年には、「雪の降る夜はたのしいペチカ」で始まる白秋の詩に複合7拍子という稀に見る技法で作曲した「ペチカ」が誕生。
~「大礼奉祝唱歌」~2等入選~賞金200円で手に入れたオルガンは彼の生涯の佳き伴侶となった。昭和7年5月~第1回全国音楽コンクール~「ローレライの主題による交響変奏曲」を作曲し応募したが、力量至らず落選。
しかし、才能を認めた山田耕筰氏の手厚い激励を受け~次回コンクール~交響組曲「四季」は~作曲部門の第1位に輝いた~
日頃患っていた肺結核~昭和9年5月~作曲歴10年、25歳の生涯をとじた。代表作「ペチカ」は、この年の12月にキングレコードから東海林太郎氏の歌で「ペチカ燃えろよ」として全国にレコード発売された。”
「大礼奉祝唱歌」第2位に入選したのは、ちょうど二十歳の時ということになる。三人並べれば、平岡26歳、井上34歳、今川20歳だ。
「今川節の部屋」によると、“白秋は「今川君のペチカの方が好きだ」と称賛した”そうだ。