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Channel: 愛唱会きらくジャーナル
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訪問コンサート~無声練習合格~「高原列車は行く」六十周年

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昨日書いたように、アンサンブル《そのりて》の老健施設訪問コンサートに助っ人で参加した。地下鉄2線、JR2線を乗り継いで1時間強の旅、更に集合駅で約30分の迎え待ちだった。
 
ピアニスト(主宰者)、指揮者(バリトン・ソロ)、コーラス8(うち兼フルート1)、司会(兼口笛)の計11名で乗り込んだ。お客さんは百名近くかと思われた。
 
今回は練習にあまり参加できなかったので、ほぼ自宅での視聴覚練習(つまり無声)で本番に臨んだが、その分、緊張感があり、合格点の付けられる出来だったと思う。
 
気管支炎の病み上がりであることを考慮し、テノールからバスへ急遽パート替えしたので、最低音部は声が出なかったが、どうせ女声に掻き消される運命だから実質影響無しだった。
 
プログラム:
歌の翼に (これだけ暗譜)     
シューベルトの子守歌
モーツァルトの子守歌
江戸子守唄
みかんの花咲く丘
青春サイクリング
からたち日記
高原列車は行く
東京ラプソディー
悲しき口笛(ソロ)    
青春~youth
下町の太陽
   
市川あさひ荘の歌

アンコール:故郷
 
この会場は、比較的に元気な人が多く、自然発生的な手拍子があるなど、演奏に対して反応が良い。「東京ラプソディ」に対する拍手が特に盛大だったとの感想があった。
 
気持ち良い汗をたっぷり掻いて帰宅したが、さすがに疲労感が募った。僅か1時間弱の演奏のためにどれだけの期間と労力を費やしたかと思い返すと、複雑な気持ちになる。他人様に喜ばれることで十分に報われている、という自己満足の世界だ。
 
今年は、「高原列車は行く」の発表六十周年、レコードを吹き込んだ歌手・岡本敦夫の生誕九十周年だ。
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ロシア人バリトン~ヴィタリ・ユシュマノフ~日本で稼ぐ?

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梅雨入りしたような今日、午前中に用事を済ませて、丸の内ランチタイムコンサートに急いだ。珍しく外人さんの歌手が登場するとのことなので、舶来崇拝根性抜け切らず、前々から楽しみにしていた。
 
開催告知には
《迸る知性と深き教養 作品の価値を新たにするロシア人バリトン(クラシック)ヴィタリー・ユシュマノフ(バリトン)  他》
とあった。
 
会場に到着して1分も経たないうちに開演となった。いつもの通り後方での立ち聴きだ。プログラムのチラシは既に払底。曲目は、日本語で歌った3曲(行々子、夏の思い出、見上げてごらん夜の星を)とアンコール曲の「ふぶき」(? ロシア語)の外8~9曲は判らずじまい。
 
モーツァルトのオペラ・アリアを含めてイタリアものが多かったようだが、ドイツ語、ロシア語も少なくとも一つずつは歌ったようだ。 
 
彼は日本語は片言しか喋らないが、歌詞の発音は完璧だった。鼻濁音もマスターしている。プロだから当然と言われるかもしれないが、歌詞を総て暗記しているのには感心する。
 
ロシア人のバリトンと聞くと、凄い迫力の声を想像する悪い癖があるのだが、今日の彼は、それを矯正してくれそうな、端正な歌い方だった。いわゆる抒情歌が得意なのかも知れない。
 
このヴィタリー・ユシュマノフについてネット検索したところ、“オフィシャルブログ”で自己紹介していた:
 
ヴィタリ・ユシュマノフ -バリトン

サンクトペテルブルク生まれ。大学で経済・経営学を専攻した後、リムスキー・コルサコフ音楽院で、~~~。2005年から2008年にかけて、マリインスキー劇場の若い声楽家のためのアカデミーのソリストに抜擢され、ヴァレリー・ゲルギエフやトゥーガン・ソヒエフら一流指揮者のもとで歌うほか、プロコフィエフ『三つのオレンジへの恋』、ロッシーニ『ランスへの旅』、モーツァルト『魔笛』の三演目でロシア国内、スペイン、フィンランド、アメリカ、日本をツアーした。
 その後、ドイツのライプツィヒのフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学に留学、2012年ディプロム課程を卒業し、現在は大学院に在籍する。~~~2014年も日本を含めて演奏活動を展開している。”
 
年齢は不明だが、三十代半ばから後半あたりか、イケメンさんだ。立ち居振る舞いが初々しさを残していて、声援にも丁寧に会釈を返していた。日本人歌手にとっては手強い商売敵かも。
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ヴィタリ・ユシュマノフ補遺~高速「夏の思い出」~ロシア民謡「ふぶき」

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昨日、“梅雨入りしたような”と書いたが、その時既に“梅雨入り”が宣言されていたことをニュースで知った。そして今日は東北地方まで梅雨入りしたそうだ。随分早い。
 
ハヤイというと、昨日のロシア人バリトン、ヴィタリ・ユシュマノフの歌った「夏の思い出」がやたらとハヤ(速)かったことを思い出す。勿論、ピアノの前奏から速かったのだから、彼が勝手にスピード違反をしたのではない。
 
ピアニストは日本人女性だった。この歌は熟知している筈だ。何故大急ぎで歌わせたのだろう。時間が窮屈だったとは思われない。「見上げて~」は、ゆったりと歌っていた。とすると、単調さを避ける為に「夏の~」をスピードアップしたのかもしれない。プロは、そこまでやるのか。
 
彼が盛大な拍手に応えて“アンコールに一つのロシア民謡を歌います。日本語で「ふぶき」という歌~”と日本語で喋ったように聞こえた。しかし、「ふぶき」だったかどうか、自信が持てなかったので、昨日は“?”を付けておいた。
 
気になるのでネット検索した結果、
ВДОЛЬ ПО УЛИЦЕ МЕТЕЛИЦА МЕТЕТ”であると判明した。訳題は色々あるようで、例えば「街は吹雪いている」「通りは吹雪き」などだ。
 
作詞はグレボフ、作曲はヴァルラーモフと判明していて、約二百年前の作品らしい。我が国でも結構歌われているとかで、それこそ知る人ぞ知るロシア民謡だったのだ。その辺りを承知の興行主が彼に歌わせたのだろうか。
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気管支炎快癒~常時発声練習~下り坂グループ

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雨降り止まず、うすら寒い昼ごろ、ボランティア・グループの合唱練習に出掛けた。気管支炎は漸く収まり、声の調子も戻ったので、リハビリの意味もあり、悪天候にも足を引っ張られはしなかった。
 
このグループの練習は、最近、柔軟体操(と言っても、高齢者相手だから、穏やかに腕や首を回したり、腹式呼吸の真似事をしたりする程度)と発声練習を欠かさない所が立派だ。
 
発声練習は、直ぐには成果が目に見えない(耳に聞こえない?)ので、お座なりになりがちだが、真面目に取り組む価値がある。プロのレベルに少しでも近づく事が出来ると信じて努力しよう。
 
実際に歌う時にも発声の要諦を忘れないようにしよう。最初の十分間だけでなく、初めから終わりまで、ずっと“発声練習”なのだ。
 
曲目は、最近、簡単な歌の斉唱が多くなってきているのが気になる。候補曲の三部合唱譜を呈示しても、斉唱譜を採用することが目立つ。指導者の手抜きではないかと思うが、下衆の勘ぐりだろうか。「かもめの水兵さん」はちょっと幼稚すぎたかしら、とのお言葉が漏れていたから、案外、ご本人も気にしてはいるのかもしれない。
 
会の運営における会員の自主性が弱まり、(音楽技術上の)指導者の意向が色濃くなってきているのも気掛かりだ。元気な会員が少なくなってきたことの反映かも知れない。衰亡の一途をたどっているのかもしれない。物事にはすべて寿命があるが、終りの時までは価値のある活動を続けたいものだ。
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お薬手帳~知らない~要らない

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きょう目に付いたウェブニュース:
 
 「お薬手帳を断れば、薬局の支払いが20円安くなる」。医療の値段である診療報酬が4月に改定されたことを受け、インターネットの短文投稿サイト「ツイッター」でそんな情報が広がっている。
 薬剤師などの医療従事者からは「自分の健康を守る手帳なのに、安くするために断るという考え方はなじまない」と戸惑いの声が上がるが、現場では手帳を断る患者が増えている。
 薬局側は「有用性を分かってもらうことが大切」として説明を強化し、理解を広げたい考えだ。(産経新聞 68()755分配信)
 
先頃2週間ばかり苦しんだ気管支炎の処方薬を買いに行った薬局で、“お薬手帳はお持ちですか?”と、確かに質問された。“持っていない”と答えたら、“お薬はあまりお飲みにならないのですね”というように言われた。
 
そもそも、お薬手帳なるものを記憶していなかった。多分、貰ったことが無いのだろう。とにかく、その時の遣り取りの意味が今日のニュースで読み取れた。
 
直観的には、お薬手帳には実用性が乏しいと思われる。手帳の有無に拘わらず、服薬の注意、指導は医師あるいは薬剤師によって必ず行われる筈だからだ。問診の際に、服用中の薬を正確に告げられない患者にとっては役立つかと思われるが、そのような人は手帳の携行を忘れるのではないか。などなど考えると、お薬手帳の役立つケースは、極めて限られるのではないか。
 
しかし、手帳はどの程度頻繁に貰うのだろうか。手帳の記入欄が満杯になったら新たに頂くという仕組みだろうか。であれば、例えば1年に1度ぐらいとして、1年に20円を節約するかどうかというミミッチイ話でしかないのか、今回の話題は。
 
関連して、“スマホでお薬手帳”という新聞記事にもつい最近お目に掛かった。スマホに収まるなら、わざわざ手帳を持ち出し、あるいは持ち歩く面倒さが無い。しかし、そのためにわざわざスマホを買う人もいないだろう。
 
もともとスマホを使っている人を対象にした商品やサービスが世の中には随分多い。スマホ無用の人種はもはや世間から相手にされなくなる日が来るのか。
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第5の「トロイカ」~ネクラーソフ作詞~幻滅のトロイカ?

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ロシア民謡の代名詞のような「トロイカ」には複数の同名異曲があることについて、先に話題にした(ヴォルガのトロイカ~モスクワのトロイカ~ハイダ・トロイカ 2014/2/27())。
 
その時は、松本明子さんの解説に拠り、標記3種と「ペテルブルグのトロイカ」の計4種を挙げた。その伝で「第5のトロイカ」とも言うべき曲が某サイトに最近紹介された。
 
Тройка ("Что ты жадно глядишь на дорогу...") Тройка («Что ты жадно глядишь на дорогу...»)トロイカ(「何を熱心に道を見ている···」)”という。作詞は有名なネクラーソフ、作曲者は不明だそうだ。歌詞と和訳を、これまた某サイトから孫引きすれば次の如し:
 
Что ты жадно глядишь на дорогу
なにをおまえは貪るように道を眺めているのか
В стороне от весёлых подруг?
陽気な女友達たちから少し離れて?
Знать, забило сердечко тревогу -
きっと心臓が胸騒ぎを起こしはじめたのだ、
Всё лицо твоё вспыхнуло вдруг.
おまえの顔は満面ぱっと赤くなった。
И зачем ты бежишь торопливо
なぜおまえは急いで走っていくのか
За промчавшейся тройкой вослед?..
疾走して通りすぎたトローイカのあとを追って?
На тебя, подбоченясь красиво,
おまえに、麗しく身を反らして両手を腰にあてながら、
Загляделся проезжий корнет.
通過する騎兵少尉が見惚れた。
 
~                   ~
 
歌詞は7番ぐらいまであるようだ。若くて格好いい軍人が疾走するトロイカの上から道端の乙女に見惚れるような眼差しを向ける。目ざとく気付いた娘があわよくばと、視線を返す。しかし、通り過ぎるトロイカのように、娘の夢多き青春も忽ちに過ぎ去り、思いもよらなかった、地を這うような一生を送ることになるだろうよ、、、、。
 
曲はゆったりとした抒情歌の趣で、日本人好みと言える。それにしても、よくまあ、無限の宝庫のようなロシア民謡の世界を極め(ようとす)る(日本)人が居るものだなあ。
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晴れ間コンサート~杣友 惠子(メゾソプラノ)~馬場 崇(テノール)

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梅雨の晴れ間に副都心のランチタイムコンサートを聴いてきた。
 
杣友惠子(メゾソプラノ)/馬場(テノール)/篠宮久徳(ピアノ)
 
Aプログラム12:05
1.    夏は来ぬ                二重唱
2.    雨降りお月~雲の蔭           杣友
3.    ゴンドラの唄              杣友
4.    太陽と愛(朝の歌)プッチーニ 詞・曲  馬場
5.    禁じられた音楽 フロック/ガスタルドン 馬場    
 
メゾソプラノのメリットの一つに、低音域もよく聴き取れるということがあると思った。素敵なソプラノさんの歌でも、低音域が弱くてがっかりすることがある。杣友は、その点、申しぶん無い。高音もラ♯ぐらいを出していたと思うが、違うかな。
 
馬場も、初めて聴いたのだが、立派なテノールだ。もっと沢山聴きたいものだ。イタリアものがぴったりする声だ。二重唱の際には、パートナーの声を掻き消さないよう、気を遣っていたように見えた。余裕の為せる業か。
 
Bプログラム(12:35~)は次の用事に支障があるので残念ながら聴けなかった。
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藤紅葉~楠紅葉~楢紅葉

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近所の小さな公立図書館の不似合いなほど立派な藤棚を何気なく見遣ってびっくりしたのは数日前のこと。平らな樹冠が斑に紅葉しているではないか。
 
近視なので、見間違えているかもしれないと、近寄ってよく見ると、どうも若枝が赤っぽく見えているようだった。フジの若芽、若枝が透き通るような薄紅色だとは知らなかった。フジの花の色にばかり目が行っており、葉の色には無頓着だった。
 
それにしても、フジの芽吹き、開花は疾うに過ぎており、今頃、若葉が伸びてくるのは普通ではなさそうだが、どうなのか。生垣によく使われるカナメモチは、ベニカナメの別名のように、新しい葉は鮮やかな赤色で、その季節は特に限られていない。
 
フジも春に限らず若芽を出すのだろうか。あるいは、初夏の風物詩であって、知らないのは当管理人ばかりなのか。
 
フジにとっては普通の生理現象だとすると、“藤紅葉”なる季語があっても不思議ではないな。以前取り上げた“楠紅葉”の例もあることだし。
 
関連して、たまたま見付けたのだが、“楢紅葉”は定着しているらしい。こちらは楢の紅葉を指す単純な季語だそうだ。“冬紅葉”も単に、冬になっても残っている紅葉のことだというから、“春紅葉”とは造語感覚が違う。
 
“おもちゃ図書館”はおもちゃを貸し出す施設らしいが、“こども図書館”は子供を貸し出すのではない。
 

藤紅葉~楠紅葉~楢紅葉

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近所の小さな公立図書館の不似合いなほど立派な藤棚を何気なく見遣ってびっくりしたのは数日前のこと。平らな樹冠が斑に紅葉しているではないか。
 
近視なので、見間違えているかもしれないと、近寄ってよく見ると、どうも若枝が赤っぽく見えているようだった。フジの若芽、若枝が透き通るような薄紅色だとは知らなかった。フジの花の色にばかり目が行っており、葉の色には無頓着だった。
 
それにしても、フジの芽吹き、開花は疾うに過ぎており、今頃、若葉が伸びてくるのは普通ではなさそうだが、どうなのか。生垣によく使われるカナメモチは、ベニカナメの別名のように、新しい葉は鮮やかな赤色で、その季節は特に限られていない。
 
フジも春に限らず若芽を出すのだろうか。あるいは、初夏の風物詩であって、知らないのは当管理人ばかりなのか。
 
フジにとっては普通の生理現象だとすると、“藤紅葉”なる季語があっても不思議ではないな。以前取り上げた“楠紅葉”の例もあることだし。
 
関連して、たまたま見付けたのだが、“楢紅葉”は定着しているらしい。こちらは楢の紅葉を指す単純な季語だそうだ。“冬紅葉”も単に、冬になっても残っている紅葉のことだというから、“春紅葉”とは造語感覚が違う。
 
“おもちゃ図書館”はおもちゃを貸し出す施設らしいが、“こども図書館”は子供を貸し出すのではない。
 
P.S. 最近Yahooサイトの作動が狂っている。今日は写真の貼り付けを拒否している。
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今度は画像を受け付けてくれた。気まぐれなYahooさんだ。

お薬手帳②~スマートカード~反スマフォ派用

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先日“お薬手帳”を話題にして、その有用性に疑問を呈した(お薬手帳~知らない~要らない 2014/6/8())。今朝の朝日新聞にその“回答”のような記事が載っていた。科学蘭(p.33)で、「探求人」という連載物、今回の見出しは“薬飲んだ時間自動で記録”というもの。勝手に要約すると:
 
“粉薬や錠剤をパッケージからうまく出せない患者、飲んだ時間の記憶の曖昧な高齢者がいる。包装の素材やデザインを改良し、薬をゼリーで包み込むと、飲み易くなる。その薬を取り出すと、時間がカードに記録される。医師、薬剤師はそのカードから服薬の履歴を辿る事が出来る。試作段階で、患者は「言わなくても医師に伝わるので安心」と言っている。
 
糖尿病、リウマチの患者用に、摂食、痛み、日常の様子を記録するカードも作成した。スマートフォンの苦手な年寄りでも、紙製のカードのボタンを押すと、健康管理ができる。「応用法はいろいろ」で、普及に期待が掛る。”
 
とのことで、お薬手帳への記入の手間を無くすることの効果は顕著であると思われる。カードへの記録の自動化がどんな仕掛けなのかこの記事では不明だが、コストは問題無いのか気になるところだ。
 
また、患者自身がその記録を見られるのか、それによって服薬を自己管理できるのか、も訊きたいところだ。その手順がお薬手帳を繰って見ることよりも簡単であれば大いに期待が持てる。
 
スマートフォンに慣れない年寄りでも自分で健康管理できるカードというのも、その仕掛けが不明だが、勿論スマフォ操作よりも簡単であるに違いない。
 
お薬手帳の機能のあるスマフォについても前回触れたが、多機能のスマフォに対して単機能のカードであれば、コストもそれ相応に低く抑える必要がある。
 
反スマフォ派にも救いの手を差し伸べる神様がいらっしゃるのだ。今日の神様は、定本清美さま(医師・薬剤師)と紹介されていた。
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ヴァイオリン・コンサート~周防亮介~声も非凡

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自称声楽ファンの当管理人は、器楽鑑賞のためにわざわざ出掛けることは無いのだが、昨日は例外で近所のホールのヴァイオリン・コンサートを聴きに行った。
 
北国へ出張の時間調整に丁度良いランチタイム・コンサートだったのだ。それと、演奏者がちょっとした有名人だったため、野次馬根性が頭をもたげたという訳だ。同類項の人士が多いと見えて、定員371席のホールが満席となった。
 
 
ランチタイムのひとときー 文京シビックホール小ホール
 
次世代を担うヴァイオリニスト周防亮介が奏でる流麗な響き
【ヴァイオリン】周防亮介(すほうりょうすけ)
【ピアノ】三又瑛子(みまたあきこ)
 
クライスラー/プニャーニの様式による前奏曲とアレグロ
ミルシテイン/パガニーニアーナ
R.
シュトラウス/ヴァイオリンソナタ変ホ長調 Op.18より2楽章
クライスラー/レチタティーヴォとスケルツォ・カプリース Op.6
サラサーテ/カルメン幻想曲 Op.25
 
(アンコール)クライスラー/シンコペーション
 
我々素人合唱団のチャチなコンサートと違って、ナレーション皆無のうちに始まり、終わった。盛大な声援と拍手の後は、ご挨拶、宣伝、そしてアンコール曲表明があった。
 
驚いたのは、彼の声が女声としか聞こえないことだった。立派な体格の若者だったから、驚きもひとしおだ。ネット検索でプロフィールを見ると、1995年うまれとあるので、19歳、これから声変わりするのだろうか。
 
プログラムの5曲は、それぞれ10分前後の演奏時間なので、ランチタイムに合わせた選曲であることは明らかだ。つまり、短めの曲を揃えたと思われるが、弾き始めは耳を傾けていても、いつの間にか全く無関係の何かを連想、妄想してしまう。うつらうつらしなかったのは幸いだった。
 
気管支炎の後遺症もあったのか、途中で喉がムズムズし出したのには困った。その気配を早目に察知したので、発作が起きないよう、落ち着いて唾液を少しずつ流し落とし、喉を湿らせて、何とか危機を凌いだ。予めこのことあるを想定して対策を講じておくべきだった。
 
という訳で、とても名演奏を鑑賞したとは言えないが、ステージでの振る舞いを勉強させて貰ったので、何がしか得るところがあったコンサートだった。
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アカシヤの花~類想曲?~サンチャゴの鐘

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昨日の北国さくらの会の練習例会で、某メンバーが“「アカシヤの花」(松坂直美/橋本國彦 1948)は「サンチャゴの鐘」(横井弘/船村徹 1973)に(感じが)似ているね”と、呟いた。
 
全く共感しなかったうえ、「サンチャゴの鐘」は大した歌じゃないなどと言わずもがなの憎まれ口を叩いてしまった。他の誰も反応しなかった。
 
しかし、何か心に引っかかりが残り、時々反芻するうちに、両者に通じる印象が出来てきた。丸一日経って、二つの歌から受ける印象には共通するものがあると確信するに至った。某メンバーの音楽的な直観に些か畏敬の念を抱くとともに、己の鈍感さに失望した。
 
「サンチャゴの鐘」は2年前に合唱した(サンチャゴの鐘~サンティアゴ伝説・巡礼~天草四郎 2012/10/6())のだが、内心つまらない歌だと思っていたため、直ぐに意識から遠のいてしまい、突然持ち出された時に、その歌の感じがピンと来なかったのだ。
 
逆に某メンバーは、その歌を気に入っていたに違いない。その、お気に入りの歌を貶す発言をしたのは失策だった。ピンと来ない時には、拙速を慎み、少し追憶の間を取ってから発言するべきなのだ。
 
改めて二つの歌のメロディー譜を見比べた。どちらもイ短調でミから始まっている。最初の2~4小節の音列も、問題意識を持って眺めると、確かに似ている。
 
楽曲分析の能力は無いのでこの辺で止めておくが、「アカシヤの花」は後半がイ長調に転調し、印象もガラリと変わるので、“似ている”のは前半部分と思ってよいだろう。
 
音楽は芸術であり、知識の世界ではなく、感覚の世界であることを再認識させられた一件だった。
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タウン・ウォッチング~タウン・ハンティング~タウン・ハーヴェスティング

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梅雨が小休止で爽やかな午後、図書館へ返却・借用に出掛けた。往きには近所のお寺の境内で落梅を拾った。虫食いの無さそうなものを選ぶ。大体6~7個止まりだが、これって、厳密には、窃盗罪に問われる可能性があるのだろうな。
 
その筋から目を着けられている場合には、格好の口実を与えることになるから、自制しなければならない。幸か不幸か、それほどの大物でもない身、いつも公然と、かつ、平穏に拾わせて貰っている。
 
その梅の実をどうするかと言えば、一部は齧って味見をし、残りはジャムにする。その手の保存食品が家内のあちこちに死蔵されているのが実態だ。作ったことで満足し、忘れることが多い。
 
図書館で青島広志/編曲甦った歌 女声合唱版日本の愛唱歌」を受け取っての帰り道、とあるマンション前に通りかかると、犬の吠え声が聞え、何気なく見遣ると、2階の手すりに大きなカラスが一羽止まっている。珍しくも無い光景だが、殺気を感じた。
 
立ち止まって眺めると、小さな飛行物体がフラフラと離れていくのが目に入った。カラスの視線はそれを追っているようだった。蝶のような飛び方だが、大きさからして、小鳥、恐らくはスズメほどの大きさの小鳥だと思われた。カラスに襲われて既にダメージを受けているものと想像された。
 
カラスは落ち着いて獲物の行先を見定めているのだろう。その、小鳥らしき獲物が広い車道の分離帯の樹木の方に飛び始めると、カラスはすかさず追い掛け、難なくそれを捕獲した。近くの高い電柱の上で獲物を啄み始めた。小鳥の羽が風に舞い、流れて行った。
 
同じ大通りに、非正規植栽の果樹があり、梅か桃の類いと思われる1本が今年も順調に実を着けていた。北国へ出張する直前には、間もなく収穫適期という風情に色づいていた。
 
今日通りすがりに眺めると、果実はすっかり無くなっていた。路上に一つも落ちていないので、風雨で落ちたのではなく、人手で収穫されたことは明らかだった。しっかり目を着けている同好の士がいるのだ。それでも、下からは見えにくい所に、2,3個お目こぼしのように残されていた。
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FLOWERS WILL BLOOM ~ WHERE I ~ WH’I

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NHK制作の復興支援ソング「花は咲く」の英語版を三部合唱譜に落とす作業について書いたのは、ちょうど3か月前だった(2014/3/12()2014/3/15()2014/3/19())。漸く今月から練習に取り掛かることになったが、改めて IL DIVO の音源を聴いていたら、気になる所が出てきた。
 
“真っ白な雪道に春風香る
わたしはなつかしいあの街を思い出す
 
叶えたい夢もあった 変わりたい自分もいた
今はただなつかしいあの人を思い出す”
 
に対応する英訳詞は、
 
My heart goes out to you
When the winter snows give way to spring
My heart is longing now
Longing for the town where the happiness had been.

Been a place of hope and of dreaming too
Been a home where my heart always went back to you
But for now I only dream
Of the people who I loved and knew.
 
となっている。
 
このうち、“But for now I only dream”の“I”が、IL DIVO の音源では、“wh’I”のように聞こえたのだ。単なる雑音、息遣いの類いかも知れない。仮に、“wh’I”と歌っているとすると、“wh’”は何か。歌詞に戻って愚考を廻らすならば、“where”の略であるとして理屈が通る。つまり、
 
Been a home where my heart always went back to you
But for now (a home) where I only dream
 ~”
 
という構文であると見做せば辻褄が合うわけだ。ただ、“where I”の2語を八分音符1個に押し込めたため、もともと省略可能な“where”が退縮して、“wh’I”(why)のような発音になった、というのが回りくどい結論だ。
 
考え過ぎかも知れない。本当のところはIL DIVO に訊いて見なければ判らない。折角エネルギーを費やして到達した結論だから、今度歌う時には“But for now wh’I only dream”としよう。
 
なお、3か月前に“この翻訳は日本人の仕事だろうか。もしネイティヴの作文だとしたら、当方は恥じ入るしかないのだが、学校英文法の知識に基づけば、疑問のある英文だ”と書いた。
 
英詞の作者は、NHKサイトに、“English Lyrics: Roger Pulvers”と表記されていることを知っても、疑問は捨てられない。学校英文法の呪縛は恐ろしい。
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藤田 彩歌(メゾソプラノ)~ 喜納 響(テノール)~ 圓谷 俊貴(ピアノ)

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先週に続き、今日もメゾソプラノとテノールのランチタイムコンサートを聴いた。

354回 雨ニモマケズ
藤田彩歌(メゾソプラノ)/喜納響(テノール)/圓谷俊貴(ピアノ)
 
Aプログラム12:05
 
恋とはどんなものかしら モーツァルト《フィガロの結婚》 [藤田]
魔王          ゲーテ/シューベルト      [喜納]
ロメオのアリア                     [藤田]   
あれかこれか      ヴェルディ《リゴレット》    [喜納]
唇は語らずとも     レハール《メリーウィドウ》   [二重唱]
 
十分に楽しませて頂いた。強いて言えば、ピアノが少し強過ぎたかもしれない。張り切って弾いていらっしゃったのだと思うが、やはり主役は歌なのだ。歌手のお二人は人間が出来ていて、ピアニストにも花を持たせるトークをしていたので、その影響があったかも知れない。
 
「ロメオのアリア」は、プログラムでは「幸せであるための秘密を教えましょう」(ドニゼッティ 《ルクレツィア・ボルジア》)とあるのを変更しての演奏であった。どういう事情あるいは理由によるのだろうか。どちらにしようか、始めから迷っていたのだろうか。
 
Bプログラム(12:35~)は、次の用事のため、聴けなかった。その代償に、というわけではないが、ニワウメの実が美しく色付いてきたのを少し収穫して来た。一粒齧って見たら、渋みがあった。やはり完熟を待った方が、美味しく頂けるのだろう。
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梅の実の色~熟梅賞味~梅ヴィールス

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今更の感はあるが、紅梅の実は紅くなるのか。近所のお寺の紅白一対の梅から拾ってくる実の中に、ほんのり紅く色付いたものが混じるようになって、そんな

梅の実の色~熟梅賞味~梅ヴィールス

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今更の感はあるが、紅梅の実は紅くなるのか。近所のお寺の紅白一対の梅から拾ってくる実の中に、ほんのり紅く色付いたものが混じるようになって、そんな疑問が湧いた。
 
意識して見たことは無かったから、今までは、梅の実というと青梅、赤い梅干、熟した黄色い梅しか記憶に無かった。安直にネット検索で調べてみたが、そのような情報はヒットしなかった。
 
多分、花の色は実の色に反映されないのだろうと思いながら、今朝、現地調査した。タイミング悪く、紅梅は剪定直後だったが、白梅には未だ実が着いていたので観察する事が出来た。白梅の実も紅く色付いていた。何となく拍子外れの、順当な結果だった。
 
きょうは熟した梅の実を2個入手し、うち1個を思い切って食べてみた。果肉はゼリー状で、果皮はそれを保持できるくらいに丈夫だが、頬張ると、所々ピンホウルがあるらしく、果肉あるいは果汁が膨らみ出てくる。味は、やはり酸っぱく、生食いに適しているとは言えない。不味くとも、栄養価は高いと評判の果実だと思えば、2,3個食べるぐらいは苦ではない。
 
そう言えば、梅の名所にして産地である青梅の梅が全滅したことが、ひとしきり話題になった。ヴィールスに侵されたのだそうだが、その実は食べても無害だというから、梅の木を全株伐採、跡を消毒したと聞くと、勿体無い気がする。食べられるかどうかが問題ではなく、商品価値の有無が判断基準なのだから是非も無い。
 
そのヴィールス、プラムポックスウイルス(PPV)は外来性であるとのことで、それまで日本に存在しなかったとすると、少し不思議な気がする。ヴィールス自体が新しく出現したのだろうか。全木伐採後、ヴィールスの消滅を確認してから、新たに梅を植栽するそうだが、また同じ災害が起きないという保証は無いだろう。予防などの方策はあるのだろうか。
 
昨日は当愛唱会の練習例会で「ウメボシジンセイ」と「梅雨の頃」を久し振りに歌った。どちらにも梅の実が登場する。
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ひめゆりの合唱~ひめゆりの塔~ひめゆり部隊神話

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沖縄陥落の日(1945624日)に因んで、東映映画「ひめゆりの塔」(1953)の同名の主題歌(西條八十/古関裕而)を北国の“さくらの会”で歌ったことがある。合唱譜は無いので、斉唱であった。
 
その後は歌う機会も無いが、これは名曲だと今でも思う。芸術歌曲の範疇には入らないが、詞・曲とも、人の心を打つものがある。勿論、「ひめゆり部隊」の悲劇が頭にあるからだ。
 
この「ひめゆり部隊」の悲劇を“神話”と形容して、一味違う鋭い批評を加える人たちのいることを最近になって知った。PR20146月号』(No.559)に川村湊氏が《ひめゆりの合唱》と題して、純真な乙女たちを残酷な運命に導いた“教育者”たちがいたことを冷徹に論じている。
 
歴史的事情から、本土以上に皇民教育に熱心な教育者の存在した沖縄の悲劇という観点は、衝撃的だ。乙女たちの悲劇という神話によって隠された沖縄の教育史の暗部に光が当てられている。映画の大成功によって、罪悪感から逃れる事が出来て秘かに安堵した人たちがいたことは想像できる。
 
それにしても、ものの見方には様々な角度があることを改めて認識した次第だ。老齢化とともに単線思考に嵌りがちな当方、他人様の考えを積極的に聴く必要を感じる。
 
ひめゆりの歌に戻るが、詞・曲とも別の「ひめゆりの塔」(矢野克子/金井喜久子)四部合唱譜を以前から持っていて、未だに歌う機会を得ない。今年も間もなく適期を過ぎようとしている。来年(以降)までお預けだ。残り時間は?
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田崎姉妹ソプラノ~虎ノ門・環二~音楽業界しきたり

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このところランチタイム・コンサートに声楽家の登場が多く、愛好家として結構忙しい思いをしている。きょうは虎ノ門のオフィスビルのロビーが会場であった。何回か通ったことがある。以前は、いわゆる環二(マッカーサー道路)の工事中であった。
 
環二が完成したことによって、街が大きく分断された。南北方向の往来がかなり制限を受ける形だ。マスコミでは、道路の上にビルを建てる新手法を称賛しているが、事業者の視点を刷り込まれているのだろう。
 
《フィレンツェの調べとイタリアの名曲  
Sop. 田崎美香、Sop. 田崎尚美、Pf. 松田祐輔
 
ヴェネチアの競艇/ロッシーニ         二重唱
フィレンツェの花売り娘/ロッシーニ      美香
私の偶像である美しい人よ/ベッリーニ     尚美
限りなく優雅な絵姿/ドナウディ        美香
アヴェ・マリア/マスカーニ          尚美
口づけ/アルディーティ            美香
リゴレット・パラフレーズ/リスト       松田
慕わしい人の名は/ヴェルディ《リゴレット》  美香
ある晴れた日に/プッチーニ《蝶々夫人》    尚美
鼻の二重唱/プッチーニ《蝶々夫人》      二重唱
 
見掛けはあまり似ていない姉妹ソプラノ、いずれ劣らぬ美声と技量の持ち主だ。喉の丈夫さは確かなようだし、特に姉・尚美の強力な声は印象に残る。対して、妹・美香は、高音を得意とするようだ。
 
今日初めて聴く人達だと思っていたが、段々とデジャヴュ―が湧いてきた。帰宅してパソコンの記録を調べると、田崎美香を過去に2度聴いていると判明した。最初は5年前のことで、これは忘れていても恥ずかしくないが、2度目は昨年、しかも同じ会場に於いてであった。まあ、デジャヴュ―が湧いただけでも良しとしよう。
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信時潔版「沙羅の木」②~音源CD発見~手書き楽譜の謎

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以前、信時潔作曲の「沙羅の木」の楽譜について書いた(信時潔版「沙羅の木」~手書き譜陰影版~「ガザの木」 2013/4/29())。最近漸く手書き譜のボヤけた画像の声部の判読を終え、五線をなぞったりして、何とか歌唱用の楽譜を作った。
 
残るは伴奏部で、こちらは音符が細かく記入されているので、最初から諦めている。ただし、ピアニストには判読も容易なのではないかと想像する。旋律と伴奏との間には、専門家ならばごく自然に想定する法則性が在る筈だから。
 
素人には無理だが、音源を聴いて伴奏譜を書き起こす方法もある。しかし、楽譜が出版されていないのだから、その演奏の録音など在る筈が無い、と思い込んでいたところ、何と身近の図書館でCDを見付けた。
 
十年以上前に発売されていた。思い込みに捕われず、愚直に検索していればとっくに、信時版「沙羅の木」の演奏に接することが出来たのだと、またまた反省を噛み締める。
 
とにかくしっかりとした音源を入手したのだから、先に作った歌唱用の楽譜をチェックする事が出来る。近いうちに取り掛かろう。
 
ところで、信時は「沙羅の木」を作曲して、どうする積りだったのだろう。なぜ出版されなかったのだろう。手書き楽譜がなぜ森鷗外記念館の所蔵となっているのだろう。
 
推測すれば、信時が鷗外に楽譜を見せ、そのまま鷗外の許に留め置かれることになったものか。そもそも、両者は交友していたのか。鷗外が60歳で没した時、信時は満34歳だった。
 
鷗外(1862217 - 192279日)
信時潔(18871229 - 196581日)(ウィキペディア)
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