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Channel: 愛唱会きらくジャーナル
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異調併唱 ~ 童謡「うさぎ」 ~ 1音差並行唱

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某≪歌う会≫での」“異調並行唱”について記したのはちょうど2箇月前であった小学唱歌「みなと」異調並行唱原調収束...  2018/7/25()、 異調並行唱②童謡「シャボン玉」~ 直感的...   2018/7/26())。
 
“異調並行唱”は稍ぎこちない語感があるので、以後“異調併唱”と呼び変えることにしよう。
 
今日、その異調併唱第3幕を経験した。歌は童謡「うさぎ」(うさぎうさぎ なにみて はねる ~)であった。楽譜無しで、ピアニストは会場から聞こえる試唱を参考にしてメロディーを弾き始める。
 
不思議なことに会場は2派に分れた。当方の属する高音派と、もう一方の低音派である。前回は当方孤独の高音派であったが、今回は人数は不明ながら同志がいた。これにはピアニストも司会者も問題意識を喚起されたらしく、暫く意見交換していた。
 
その“異調”だが、録音で確認したところ、高音派は変ロ長調(ト短調)、低音派は変イ長調(ヘ短調)であった。ただし、今回の聴き取りはかなり難儀した。一方の調に同調した後、他の調に聴覚を合わせて記憶するのが何故か難しかった。ピッチ差が小さいからだろうか。
 
因みに、正統な調は、ハ長調(イ短調)らしい。高音派より1音、低音派より2音高い。
 
楽譜を見て、聞き覚えのメロディーは出だしが間違っていることに気付いた。

大森房吉 ~ 関東大地震予知 ~ 今村明恒

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上山明博地震学をつくった男・大森房吉 幻の地震予知と関東大震災の真実」(青土社 2018.7)を読んだ。資料の引用が結構多く、適当に飛ばし読みだったので、厳密に全容を掴んだとは言えないが、忘れられた地震学者・大森房吉の偉大な業績を再確認し、正当な評価を与えようとの意図に基づく評伝である。

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大森が“忘れられた”原因は、関東大地震(1923.9.1)を警告しなかったことで世の尊敬を失ったと言われることと同根である。彼の後輩格の今村明恒が世間に警告を発したのに、彼がそれを徒に人心を惑わすものであるかの如く批判したことが祟ったのだ。このことは地震学の歴史に興味を持つ向きには常識となっている。
 
上山氏は、大森が地震学者として無能なるが故に東京には当分大地震は起きないと太鼓判を押したのではないことを論証しようとした。それどころか、実は、正確にその到来を予知していたと述べている。
 
これは驚くべき新所見である。本当であるなら、学会のみならず、世間が相当大きな反応を示すはずだ。
 
氏の述べるには、大森は関東大地震発生より前に、≪関東で次に大地震が起きるのは相模灘である≫と発表、明言していたのである。学術誌及び信頼すべき学者の言を引用している。
 
しかし、これは贔屓の引き倒しというものだ。予知というなら、場所だけでなく、時を明示しなければならない。いつ(頃)発生するのかの情報が伴わなければ、殆ど無価値である。
 
その“時”については、大森自身が関東大地震発生直後に、≪およそ60年後だろうと想定していた≫と語ったとある。その通りであるなら、今の常識に照らせば、大森は、大地震の危険が迫っていると声を大にして警告するべきであった。≪およそ60年後≫ならば、今直ぐであっても不思議は無いからだ。
 
それとも、大森には60年という数字に相当確かな根拠を見出していたのか。その辺については上山氏も解らなかったようだ。
 
いずれにしろ、大森が当時世界随一の地震学者であったこと、実際に多大の業績を上げていたことは本書に示されている。関東大地震を警告しなかったことだけで以って無能な地震学者に貶められたのは不運としか言いようがない。
 
ただし、警告を発していた今村を牽制するのでなく、彼と共に、地震への備えを世に説いていたならと惜しまれる。この点は今一つ納得いかないのであるが、やはり、当分大地震は起きないと思っていたことの表れではないかとも想像される。
 
本書によれば、大森は1916年のノーベル賞候補に挙げられていたそうだ。ノーベル賞委員会からの書簡が残されていると言う。しかし、大森は、その書簡に対して応答しなかったらしい。その理由は不明であるが、当時同賞も今ほど極端な栄誉とは思われていなかったのではないかとの上山氏の推測である。同年は、結局ノーベル賞該当者無しだったそうだ。
 
大森とは対照的に、関東大地震を“予告した”として名を上げた今村だが、彼もその後はあまり華々しいキャリアを積んだと思えない。当方が知らないだけなのか、とにかく彼の伝記も数年前に公刊されていたと記憶する。バランス上、近いうちに読んでみよう。

準備不足 ~ 出前コンサート ~ 元気なお客さん方

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ボランティア・グループで老人施設へ歌のコンサートの出前をした。数年前まではかなり頻繁に訪問していた施設だが、意思の疎通に齟齬があって、最近は年1回だけになっているらしい。本日の参加者は総勢二十名を上回った。
 
お客さんは五十名前後、特養と違って、車いすの方は少なく、元気な方が多かった。楽器班は始めピアノとチェロで、途中からヴァイオリンが加わった。弦楽器が2丁になると急に賑やかな雰囲気が醸される。
 
来月から本格的に秋のプログラムで演奏することになっており、今日は準備不足と判っているので、演目の半分は夏プログラムから引き継いだ。来週も本番の予定が入っており、事情は同じなので、やはり夏秋混成プログラムとなる。
 
   虫のこえ
   小さな木の実
   埴生の宿
   菩提樹            男声三重唱 日・独
   花は咲く
   君を乗せて
   秋桜(コスモス)
   モルダウの流れ
   メリー・ウィドウ・ワルツ   ソプラノ・ソロ
   紅葉
 
   アンコール 小さな木の実
 
アンコール曲の用意はしていなかったので、お客さんからリクエストを募ったところ、「小さな木の実」となった。当方の予想は、皆さんが揃って歌える「虫のこえ」「紅葉」あたりだったので、意外だった。
 
秋と冬のプログラムは意欲的な編成になっているので、来月以降の練習はかなりハードになりそうだ。そんなときは、大所帯のグループが頼もしい。

秋の小さな音楽会 ~ ウィーン・オペレッタ ~ 高齢合唱団

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嵐前の雨の中、コーラス仲間Fさんの属するグループが出演する≪第14回 秋の小さな音楽会≫を鑑賞して来た。当方が十年以上前に数回(その他大勢の一員として)登壇した高輪区民センター区民ホールが会場であった。
 
彼のグループは、男声7名、女声15名ほどで、男女それぞれお揃いの衣装、いかにもしっかりした合唱団の風情であった。これほどの勢力であれば、常任の指揮者とピアニストを抱えることが出来るのだなあと複雑な心境であった。
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団自己紹介メッセージによれば、メンバーの高齢化が進んでいるが、歌のお蔭でまだまだ元気な声を維持しているとのことである。
 
聴いたところでは、確かに声は出ている。ソプラノの最高音は、瞬間風速で二点ラだったと思う。男声は遠慮がちだったようで、まさに脇役の印象であった。女声陣が男声の引き立つところを意識して歌えば、全体としてよく調和した混声合唱になったのではないかと思う。
 
ただ、女声陣の声は、当方の好みではなかった。高齢とあれば無理もない。己自身の声も、他人が聞けばとても美しいとは言えないシロモノなのだろう。元気さを売り物にして声を張り上げると、美しくは聞こえないのではないか。
 
演し物は、ウィーンのオペレッタからの選曲であった。全部日本語訳での演奏なので、特にウィーン風なのかどうかは解らなかった。そもそも、当方は歌詞を聴いていない。専ら声の響きを楽しむ癖がある。要するに、美声を期待しているのだ。無い物ねだりと判って居ながら鑑賞する時ぐらい、しっかり歌詞を聴くべきだと反省した。

童謡「七つの子」 ~ 七羽か七歳か ~ 子ガラスか人の子か

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このところ、なぜか、童謡「七つの子」を歌う機会が多かった。
 
   七つの子       野口雨情/本居長世 1921(大正10)
 (からす) なぜ ( な )くの   ( からす ) ( やま )  可愛 ( かわい ) ( なな )つの   ()があるからよ


 可愛 ( かわい ) 可愛 ( かわい )   ( からす ) ( な )くの   可愛 ( かわい ) 可愛 ( かわい )   ()くんだよ


  ( やま )古巣 ( ふるす )   ( い )って ( み )御覧 ( ごらん )    ( まる ) ( め )をした  いい ( こ )だよ

 
“七つの子”が“七羽の子ガラス”か、“七歳の子ガラス”かの議論は、“七歳”が正しいと決着がついているらしく、当欄でも≪童謡「七つの子」(作詞:野口雨情、作曲:本居長世)の七つは、七羽ではなく、七歳が作詞者の意図したところであると、藍川由美さんが文献に基づいて論証している≫と記したことがある(七草セット~七つ星~七つの子 2011/1/7())。
 
ただし、“七歳”の数字に拘る必要は無いとの意見も、作詞者自身を含めて、大勢を占めているようだ(ウェッブ『池田小百合なっとく童謡・唱歌』による)。
 
残る論点は、“子ガラス”か“人の子”かである。
 
歌詞を素直に読めば、“子ガラス”としか考えられないが、“七歳のカラス”は成鳥であって“子ガラス”とは言えないとの鳥類学的見解に鑑みて“七歳の人の子”説の生まれる余地があるらしい。
 
しかし、カラスの古巣に人の子がいるというのは余りに非現実的だから、よほど持って回った解説をしなければならない。
 
作詞者は面倒な理屈を踏まえて「七つの子」としたのではなく、口調の良さを多としたのだろうと想像される。“七羽”か“七歳”か、“カラス”か“人”かなどと詮索するのは脳トレの一種と心得よう。
 
そこで、当方が脳トレに励んだ結果、この童謡の大意は、≪カラスの古巣には、人で言えば七歳のかわいい子ガラスがいるのだよ≫との意味に違いないとの結論に達した。
 
先人が同趣旨の説を唱えているかも知れない。

出前コンサート ~ 不完全燃焼 ~ 音楽サロン

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またまた台風の影響で蒸し暑くなった今日、蝶ネクタイを着けて老人施設への出前コンサートに参加した。演し物は前回(別施設)と同じ(再掲):
 
   虫のこえ
   小さな木の実
   埴生の宿
   菩提樹            男声三重唱 日・独
   花は咲く
   君を乗せて
   秋桜(コスモス)
   モルダウの流れ
   メリー・ウィドウ・ワルツ   ソプラノ・ソロ
   紅葉
 
秋桜」はパート譜が込み入っていて見づらい上、言葉割りが極めて不自然なので、気乗りせず、小さな声で皆さんの陰に隠れるようにして歌った。この作曲者の持ち味らしい。素人の合唱には向かないように思う。
 
モルダウの流れ」は、先だって記したように(モールダーウモルダウモルーーーダウ 2018/8/19())、やはり言葉割りが不自然なので歌いながら興醒めするのを止められない。小さな声で自己流に矯正して歌う。
 
選りによって、この「モルダウの流れ」を今月下旬の某施設文化祭の演目に加えて、暗譜で歌うのだと指揮者が張り切っている。当方は気が乗らないため、全く暗譜できていない。皆さんにぶら下がって一呼吸遅れでついて行く状況だ。練習の度に指揮者にからかわれる当方、あと3週間のうちに覚えなければ。
 
リハ、本番合せて2時間のお勤めの後、大急ぎで某氏邸の音楽サロン(いわゆるワンコイン制)に向かった。参加者が思い思いに歌ったり、弾いたりして、最後に本日の人気者を(投票でなく偶然的に)決定する趣向であるので、あまり遅れると急行する意味が無くなる。
 
吝嗇な性格にも拘わらず、タクシーを飛ばして、辛うじて最終局面に間に合った。
 
この日のために特別に練習する機会が無かったので、次の2曲を歌った:
 
   Der Lindenbaum
 
        山小舎の灯
 
サロン主宰者が好意でピアノ伴奏をしてくれたが、共通の楽譜の無いぶっつけ本番であるから、上手く行く筈がない。結局、中途半端な、あるいは荒唐無稽な、歌唱に終わった。
 
しかし、人前でソロで歌を披露する機会は滅多に無いので、このサロンは大事にしなければならないと秘かに再確認する。

歌 原曲版Der Lindenbaum ~ 破綻 ~ 伴奏 訳詞版「菩提樹」

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昨日の音楽サロンで、シューベルト作曲“DerLindenbaum”を当方が荒唐無稽に歌う羽目に陥ったのは、好意でピアノ伴奏を引き受けた主宰者が近藤朔風訳詞による簡約楽譜を用いたのに対し、当方は原曲版に拠ったためであることは記した通りである。


 


危惧しつつも、主宰者の強い勧めに応じたのは、打合せ無しでも何とか歌えるだろうと安易に考えたからである。実際にはそうは問屋が卸さなかった事情をこの際確認しておきたい。簡約版楽譜は今手許に無いが、両者の歌詞を対応させて掲げれば次のようになる筈である:


 


Der Lindenbaum  Wilhelm Müller

菩提樹  訳近藤朔風
1
Am Brunnen vor dem Tore,
泉にそひて、繁る菩提樹、
Da steht ein Lindenbaum.
慕ひ往きては、美し夢みつ、
Ich träumt´ in seinem Schatten,
So manchen süßen Traum.
Ich schnitt in seine Rinde
幹には彫りぬ、ゆかし言葉、
So manches liebe Wort
嬉し悲しに、訪ひしそのかげ。
Es zog in Freud und Leide
Zu ihm mich immer fort.
(長い間奏)
2
Ich musst` auch heute wandern
今日も過ぎりぬ、暗き小夜なか、
Vorbei in tiefer Nacht,
眞闇に立ちて、眼とづれば、
Da hab ich noch im Dunkeln
Die Augen zugemacht,
 
Und seine Zweige rauschten,
枝は戦ぎて、語るごとし、
Als riefen sie mir zu;
来よ愛し侶、こゝに幸あり。
Komm her zu mir Geselle,
Hier findst du deine Ruh.
(短い間奏)
3
Die kalten Winde bliesen
面をかすめて、吹く風寒く、
Mir grad ins Ansgesicht,
笠は飛べども、棄てゝ急ぎぬ、
Der Hut flog mir vom Kopfe
Ich wendete mich nicht.
(長い間奏)
Nun bin ich manche Stunde
遙か離りて、佇まへば、
Entfernt von jenem Ort,
なほも聴こゆる、こゝに幸あり。
Und immer hör ich rauschen:
こゝに幸あり。
Du fändest Ruhe dort!
Nun bin ich manche Stunde
Entfernt von jenem Ort
Und immer hör ich's rauschen:
Du fändest Ruhe dort!


 


両者の大きな違いは、簡約版では1番のメロディーを23番にもそのまま適用することだ。それは無論承知の上だった。


 


原曲では間奏が入ることも大きな違いだ。簡約版では間奏は無かったのではないかと思う。はっきりとは覚えていない。


 


この間奏の違いが曲者だった。恐らく(楽譜上)3番の前の間奏が極く短く、中間の間奏が長いことに惑わされてメロディーの開始を間違えたようだ。これは致命的で以後はメタメタになってしまったというのが実態だろう。


 


最後、3番の歌詞の繰り返しが原曲と訳詞とで異なることで止どめを刺された。


 


形式的には全部歌い終わった後で言い訳をする当方に、聴いていた皆さんは≪そんな歌だと思った≫と口々に慰めてくれた。社交辞令半分、本音半分かも知れない。


 

いい加減に歌う癖を付けないよう、気持ちを引き締めなければならない。




すばる望遠鏡停止その後 ~ 部分的再開 ~ 停止原因解明遠し

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ハワイ・マウナケア山頂のすばる望遠鏡が停電で運用停止となっていることについての同観測所発表(第1報)を取り上げて半月経った(すばる望遠鏡大規模停電無停電電源 (... 2018/9/23())ことに気付き、所管する国立天文台のサイトをチェックした:
 
マウナケア山頂域の大規模な停電による共同利用観測への影響について (第二報) 2018927 (ハワイ現地時間)

   ハワイ観測所では現在、緊急対策を実施しており、作業にはなお 10 日間程度の日数を要する見込みです。これを受けて、少なくとも現段階ではハワイ時間107日までのすばる望遠鏡共同利用観測を中止することにしました。その上で108日から、その時点で運用可能な観測装置を用いて共同利用観測を暫定的に再開することを目指しています。   国立天文台ハワイ観測所長吉田道利

マウナケア山頂域の大規模な停電による共同利用観測への影響について(第三報) 2018103 (ハワイ現地時間)

 その後、UPS に関する仮復旧作業が迅速に進められ、望遠鏡を部分的に運用できる状態になったため、102日の夜から、高分散分光器 HDS を用いて共同利用観測を暫定的に再開しました。

  ただし、UPS は本格的に復旧していないため、一部の観測装置交換に制限があります。本格的な復旧にはなお時間を要する見込みです。   国立天文台ハワイ観測所長吉田道利

 
1報で、“101日までの共同利用観測を中止することにしました”と次段階のめどを示していたので、2日から“高分散分光器 HDS を用いて共同利用観測を暫定的に再開”したのは同慶の至りである。
 
暫定再開が“高分散分光器 HDS を用い”てと、具体的細部の情報を明記しているのに対し、運用停止の原因とされる“停電に伴い、すばる望遠鏡本体に電源を供給する無停電電源 (UPS) が正常に機能せず~”の調査結果などには一切触れていない。公衆向けの報告にはそのような情報は必要無いとの意識があるのだろう。
 
3報は“UPS は本格的に復旧していないため、一部の観測装置交換に制限があります。本格的な復旧にはなお時間を要する見込みです”と結ばれている。後段の“本格的な復旧”がUPSを指すのか、観測装置本体を指すのか不明だが、とにかく観測の全面的再開が先送りとなった事が判る。
 
2報で示された“108日から、その時点で運用可能な観測装置を用いて共同利用観測を暫定的に再開することを目指し”との見込みは取り消されたと思われる。
 
それにしても、停電に備えての非常用設備である筈の「無停電電源 (UPS)」が“停電に伴い機能せず”の意味とか、停電前(当然UPSは作動していなかったと想定される)には観測装置本体が運用されていたのに停電解消後に運用できないのは何故かなどの疑問が消えない。
 
論理的に思いつく事として、UPSは常時何等かの機能を働かせていて、観測装置本体の運用を支えているところ、停電により当該機能が損なわれるという想定外の事態となったのかも知れない。
 
停電時に常用電源を代替するべきUPSの機能が停電で損なわれるなどということがあるとすれば、設計の根本的な瑕疵と言わなければならない。
 

いずれにしても、公表情報だけでは、雲を掴む感がある。

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癒しの528音楽 ~ 528ヘルツの謎 ~ 実は純正律のド

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数字と音楽を趣味とする閑人にとって≪猫に鰹節≫のような新聞記事があった:
 
≪好奇心くすぐる「528の謎」 遠みち近みち 2018106 日経夕刊 p.10
 
~ピアニストのスティーヴ・レイマンのCD~副題は「癒(いや)しの周波数528Hz」。ヒーリング音楽として~発売している。~今や国内外で様々な528ヘルツ音楽が作られているのだ。
 
音の高さは周波数で表される。528ヘルツの音にヒーリング効果があるのだろうか。時報のピッピッピッが440ヘルツだ。ピアノなどの楽器はA(ハ長調のラ)音を440ヘルツに調律するのが一般的だが、それでラシドレと弾いても528ヘルツは出てこない。惜しいのはC(ド)音の523ヘルツ。
 
A=444ヘルツにするとC528ヘルツになる。「528の謎」を解くカギはこれだ。~海外の自然療法の医師がグレゴリオ聖歌を分析して発見したという周波数で「愛の周波数」などと呼ばれ~研究の結果、副交感神経に作用することが分かり~
 
効果については専門家の研究の進展を待ちたいが、~527529ヘルツではダメなのか。813ヘルツならどうだろう~528の謎を考えていくと楽しい。これもヒーリング効果だろうか。≫
 

記事の筆者は整数528に拘っている。“ピアノなどの楽器はA(ハ長調のラ)音を440ヘルツに調律するのが一般的だが、それでラシドレと弾いても528ヘルツは出てこない”とした上で、“惜しいのはC(ド)音の523ヘルツ”と述べる。

 
この議論は平均律を前提としていることは明らかだから、前段は問題無いが、後段はやや曖昧な印象である。基準音A(ハ長調のラ)を440ヘルツとする平均律では、A以外の音の周波数は整数にはならず、無限小数で表わされるからだ。
 
ちなみに、C(ド)音の“523ヘルツ”としているところ、正確には“523.25…,ヘルツ”である。
 
癒し、あるいは、ヒーリングの観点から議論するなら、平均律ではなく純正律を前提とするべきではないだろうか。純正律は、聴いて心地よい、良くハモる音階を生み出すのだから。
 
そこで、純正律の音階の周波数の表を見ると次のようになっている(ウィキペディア):
 
Name
C
D
E
F
G
A
B
C
Ratio
1/1
9/8
5/4
4/3
3/2
5/3
15/8
2/1
 

このAの周波数を440ヘルツとして、Cの周波数を計算すると、440 / (5 / 3) x 2 = 528とピタリ整数の528 が得られる。要するに基準周波数440での純正律ハ長調の(高い)ドの周波数が528なのだ。

 
そう思えば、528 は謎でも何でもない、と言ってしまうと身も蓋も無いか。
 
ところで、A = 440ヘルツをドとするイ長調のシGis 825 (440 x 15 / 8) ヘルツとなるのだが、謎の528 をひっくり返した数字だ。

基準音A ~ 上昇傾向 ~ 聴覚の精度

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器楽における基準音A(ラ)の周波数(ピッチ)が時代と共に高くなってきているという話はよく耳にするところだ。古くは415Hz、430Hzなどが標準であったのが、現代では440Hzにほぼ統一されたが、実際の演奏会では444Hzなど、更に高めに設定されることが多いとも聞く。
 
一般的に、同じ曲でも、高いピッチで聴くと好感度も高まることは日頃経験する通りだ。我々の歌の場合は、最小限の半音程度の上方移調で基準音A(ラ)が25Hzほど上がるので素人の耳にも直ぐに判る。
 
それに対し、基準音A(ラ)が数Hz変化したくらいで聴いた音楽の印象が変わるものなのか、気になるところだ。
 
試みに、某サイトで(ピアノで)440Hzと442Hzを聴き比べてみたが、全く差異が判らなかった。実際にはピッチ差があることは、両者同時に鳴らしてうなりが生じることで明らかにされる。
 
ちなみに、可聴域判定も試みたところ、高音は8500Hz辺りが限界であった。人によっては20000Hz超を聴き取ることが出来るそうだが、人口の何パーセントぐらい居るのだろう。絶対音感よりも希少のような気がする。
 
ところで、録音機材や周波数測定装置の無かった古い時代のピッチは何で判定できるのだろう。電子機器が無くとも音の周波数は測定できたのかな。音叉が利用されていたのかな。

蛙の合唱 ~ アリストパネス「蛙」 ~ コアクスィ コアクス

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他人様から自費出版の歌集、句集をたまに頂くことがある。いずれも立派な装幀、製本で、意気込みの程も感じられ、有難く拝読する。
 
蔵書スペースが無いので、読後は、残念ながら廃棄処分とせざるを得ない。
 
最近拝読した歌集の中に、アリストパネスの喜劇「蛙」を題材とした一首を見た。古代ギリシャの喜劇作品は、その題名さえも知らなかった。このばあい、蛙は“かわず”と読む習わしらしい。
 
詠者は、喜劇「蛙 (Βάτραχοι)」の中に、“蛙の合唱”の場面があることに興趣を覚え、擬音語を盛り込んだものである。
 
ギリシャ語の和訳カタカナ表記で≪ブレケケケクスィ コアクスィ コアクス≫などとなるらしい。
 
某英語サイトによれば、現代ギリシャ語でのカエルの鳴き声は≪quak-quak≫だそうで、カタカナでは≪クワッククワック≫だろうか。
 
日本で有名な輪唱曲「蛙の合唱」では≪クヮ クヮ≫と表記されるようだが、上記と同じといってよいだろう。この≪クヮ クヮ≫の元はドイツ語の≪quak quak≫(クヴァック クヴァック)であると推察される。
 
古典ギリシャ語の蛙の鳴き声は≪βρεκεκεκξκοξκοάξ≫のように綴るらしいが、≪κοξκοάξ≫は現代語の≪クワッククワック≫と明らかに繋がっている。
 
蛙の合唱の擬音語が(少なくとも)古典ギリシャ語にまで遡ることを教えてくれた歌集作者に謝意を表したい。

十月素数日 ~ 本日素数特異日 ~ 「3010…013」型素数生産性 

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今月も早や中旬、忘れないうちに素数日をチェックしておこう。
 
西暦  20181019  
 
皇紀  26781017 26781019 26781031 2678101 
 
和暦  301013 301027 30103 30109
 
本日が和暦で素数日に当たるので、この数字で遊んでみた。百の位の「0」に累桁法を適用し(つまり 0 を増減し)て、3010….013 型の数の素数成りをみた。結果は次のような具合:
 
素数 (5)30113, (6)301013, (7)3010013,(9)301000013, (10)3010000013, (12)301000000013, (14)30100000000013, (15)301000000000013,(20)30100000000000000013, (38)30100000000000000000000000000000000013
 
非素数 (8)30100013=17×1770589, (11)30100000013=19×227×6978901,(13)3010000000013=103×29223300971, (16)3010000000000013=190507×15799944359, (17)30100000000000013=7327181×4107991873
 
( )内は桁数
改めて素数と成る桁数を並べると 5, 6, 7, 9, 10, 12, 14, 15, 20, 38,,,,,, となる。この素数出現率は、経験に照らして、極めて高いというのが実感である。
 
比較の意味で、301013 万の位の「0」で累桁法を試してみると、30….01013 型の数で、31013, 301013の後は、12桁、18桁が素数と成る程度である。
 
ちなみに、113, 1013 は素数だが、それ以降は18桁が次の素数である。
 
計算した範囲では、3010….013 型の数は素数を生み易い特殊な数であると言える。偶然に見出したことであって、何も理屈の無いことに一抹の寂しさを覚えるが、それにしても面白いので、この遊びはやめられない。

思い込み ~ 男声女声 ~ 聴覚欺罔

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週末、某合唱団のソプラノ・パートの練習中、講師が「男性は歌うな」と注意した。その時、男声メンバーは3人だけだった。他パートの練習時だから当方は(感心しないことだが)聴いていなかった。男性は歌っていない筈だったが、誰かこっそり歌ったのかと思った。
 
ソプラノ陣が再度歌い始めると、低い声が聞こえて来た。講師が咎めた声に違いない。当然、再度中断されて同じご注意が下された。今度は当方も気を付けて聴いていたので、男声は誰も歌っていないと解っていた、と思った。
 
そこで、親切心から、「女性の誰かが1オクターブ低く歌ったのだ」と、お節介にも説明した。実際、当方にはそれが真相だとしか考えられなかった。
 
犯人扱いされた当の女声陣からの反応は無く、講師も訝しげだったが、とにかくやり直しで三度目の部分練習が始まると、皆の注意がその点に集まっているからだろう、問題の低い声が、ますます明瞭に聞こえるではないか。
 
騒ぎが大きくなった時、誰かが「○○さんが歌っている」と告げた。○○さんは男声3人のうちの一人だ。当方の斜め前に着席しており、1メートルほどしか離れていない。その隣には女性が着席している。
 
驚愕の真相だった。講師は、男声が混じっていると始めから正しく認識していたのに、当方は錯覚に支配されていたのだ。
 
男性は歌っていないという思い込みに支配されていると、男性の声であっても、女声の低い声だと認識してしまう浅はかさに我ながら呆れるばかりだった。
 
斜め前で歌う男性の声を、側方からの女声と認識したのも、思い込みの為せる業としか考えられない。
 
感覚とはそれほど当てにならないものかと痛感した。
 
欺罔されたのは当方だけではなかった。隣に着席していたもう一人の貴重な男声氏も、○○さんが彼の真ん前に着席していたのに、真相には気付かなかったのだから。
 
○○さんはふざけていた訳ではない。彼は主旋律を女声陣に交じって歌ってもよいと普段から公認されていたのだった。読譜が苦手であることへの配慮である。その特殊事情を講師はじめ誰もが失念していたのだった。
 
皆が騒ぐ中、超然と無表情を貫いた○○さんの心理も謎だ。

この世をば ~ わが世とぞ思ふ ~ 望月の 千年

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16日、この時刻、空は雲で覆われていて、月は見えない(晴れていても沈みかけで、やはり見ることは難しい)が、月齢は7.4 くらい、ほぼ上弦の月(暦の上では明17日)となっている。旧暦で16日ならば、ほぼ満月(望月)である。
 
義務教育で教わった和歌
 
≪この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 虧(かけ)たることも なしと思へば≫(藤原道長)
 
は、寛仁2年1016に道長邸の宴会で詠まれたのだそうだ。新暦〈グレゴリオ暦〉に換算すると10181126日に当たる。
 
新旧暦の違いはあるが、道長の絶頂期の得意満面な様を髣髴させる、この有名な和歌の誕生から今日でちょうど千年となる計算だ。
 
この和歌が、道長自身の日記とされる『御堂関白記』でなく、彼に批判的だったとされる藤原実資の日記『小右記』で後世に伝えられたというのも面白い。

まさか実資の捏造ではないだろうな。宴会に連なった他の人たちは書き残さなかったのだろうか。

蛇足:この千年を日数に換算すると

ユリウス通日による経過日数計算
20181126日  2458448.5
10181126日  2093205.5
経過日数        365243  
20181016
による経過日数     365222

童謡「カリガネ」 ~ ナントデムシガ ~ ツキサスセトノ

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某施設の童謡を歌う会で、“今年が童謡雑誌「赤い鳥」発刊百周年の節目に当たることにちなんで、忘れられた童謡を歌いましょう”と、吉田一穂/中山晋平「かりがね」の楽譜が配られた。
 
当方も初見であった。メロディーは癖が無く歌い易いように見えた。歌詞はカタカナで楽譜に書き込まれていた。楽譜は回収されたが、歌詞を復元すれば次のようであった:
 
≪オチルコノミノ ヨヲココメテ ナントデムシガ ナキアカス
 ワタルノワキノ サラサラト ツキサスセトノ ススキハラ
 ガンガンガン カリガネサン ワタルツキヨノ カリガネサン
 スイクヮヌスット ミツケタラ ガンガンガント カネナラセ≫
 
≪ナントデムシガ≫と≪ツキサスセトノ≫の2箇所の意味が通じなかった。
 
取り敢えず、前者は≪何と 出虫が≫と、後者は≪月射す 瀬戸の≫と読んだ。どちらも苦し紛れの無理な読み方であることは明らかで、依然、意味不明に近い。
 
皆んながカナをそのまま発音するのを聞いた講師が、≪ナンドデムシガ≫、≪ツキサスセドノ≫と助け舟を出した。古い楽譜の薄いコピーで、濁点が飛んでしまったのであった。
 
総ての濁点が飛んでいれば、状況は違っていたかも知れない。≪デ≫と≪ガ≫の濁点は健在であったから、≪ト≫を≪ド≫と読む機転は利かなかった。歌詞を漢字かな交じり文で記せば次のようになるか:
 
落ちる木の実の 夜を込めて 納戸で虫が 鳴き明かす
渡る野分きの さらさらと 月射す背戸の 薄原
がんがんがん 雁がねさん 渡る月夜の 雁がねさん
西瓜盗っ人 見付けたら がんがんがんと 鐘鳴らせ
 
雁(かり)の渡りを詠んだ風流な歌詞かと思ったら、雁(がん)に引っ掛けて、西瓜盗っ人を見付けたら≪がんがんがんと 鐘鳴らせ≫と俗っぽい頼みごとで結ばれる。タイトルの「カリガネ」は「雁がね」→「雁鐘」→「雁が音」の連想を見越したものか。

童謡「かりがね」② ~ 「に」が「の」に誤植 ~ 「かなりや」の影

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前回の童謡「かりがね」の歌詞に些か引っ掛かるところがあった。“渡る野分きの さらさらと”が何とも落ち着かない。“野分き”とは端的には台風である。“さらさらと”の優しい響きにそぐわない。
 
原詩に当たってみることにした。作詞者・吉田一穂は意外にも(失礼)一廉の詩人であった。当方が知らなかっただけだ。立派な『定本吉田一穂全集』全3巻・別巻1巻(小沢書店、1992.61993.4、金子光晴,西脇順三郎監)が多数の図書館に蔵されていた。
 
その第1巻に目当ての「かりがね」が載っていた:
 
     かりがね
 
おちる木の實の夜をこめて
納戸で蟲がなきあかす。
 
わたる野分にさらさらと
月さす背戸のすゝき原。
 
がんがんがん、かりがねさん
わたる月夜の、かりがねさん。
 
西瓜ぬすっとみつけたら
がんがんがんと、鐘ならせ。
 
“わたる野分に”となっている。これなら、“さらさらと”は“月さす”に掛るだろうから違和感は無い。イメージ 1
 













そうなると、楽譜の“野分の”はなにゆえか、気になるので、これも調べざるを得ない。こちらは厄介だった。なにしろ“忘れられた”童謡だ。
 
ネット検索の結果、2種類の楽譜集に収載されていることが判り、うち一つが幸いにも手近で閲覧できた。
 

≪中山晋平作曲全集 童謡篇上  全音楽譜出版社/1954≫には、平仮名の歌詞で載っており、楽譜に付記の方は“のわきの”であるが、歌詞一括の部では“野分に”であった。

イメージ 2イメージ 3

 

したがって、“のわきの”は誤植であると判断された。

 

多分、楽譜初出時に“ノワキノ”と記され、そのまま引き継がれたのだろう。

 

ところで、この歌の出だし部分のメロディーは、西條八十/成田為三「かなりや」にそっくりである。「かなりや」が「かりがね」に先行すること約3年である。

すばる望遠鏡停止事故最終報 ~ 原因未公表 ~ 本復旧未済

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ハワイ・マウナケア山頂のすばる望遠鏡が停電で運用できなくなった件(ハワイ時間2018913日)について、当局による第4報(最終報)が公示された:
 
マウナケア山頂域の大規模な停電による共同利用観測への影響について (最終報)
20181017 (ハワイ現地時間
~マウナケア山頂域全体で発生した大規模な停電に際して~すばる望遠鏡は観測を一時中止しました。その後の仮復旧作業により、102日の夜から一部の観測装置を用いて共同利用観測を暫定的に再開し~  また、1016日からは~観測を実施できるようになりました。
  ただし~仮復旧の状態で~完全な復旧にはなお時間を要する見込みであり、すばる望遠鏡の安全な運用に向けて、ハワイ観測所では引き続き対策を講じます。          

国立天文台ハワイ観測所長吉田道利

 
仮復旧とは言え、予定していた観測を実施できるようになったのは同慶の至りである。
 
しかし、以前にも指摘したように(2018/10/8()2018/9/23())、停電時にも観測が中断されないよう設置されている無停電電源 (UPS)が停電時に機能しなかったのは何故か、また、その復旧に手間取っているのは何故かなどについて、一切言及されていないのは不思議である。
 
素人衆に説明するには技術的に過ぎるとの判断があるのかも知れないが、常識人なら誰もが抱く筈の疑問点について、情報提供を行う姿勢が見受けられない状況では、何か当局にとって不都合な事態を隠しているのではないかと疑われても仕方がないだろう。
 
電源喪失と言えば、2011年の3.11原発事故を連想するのは自然である。望遠鏡が動かなくなっても外部に災害をもたらす恐れは無いので、原発ほど神経質に捉える必要は無いだろう。
 
しかし、重要な観測事業が一時的にもせよ滞ることで、大きな成果を逃す可能性は無視できない。多大の事業費の投資効果が損なわれるだけの経済的問題と軽く考えてはいけない。
 
今回の最終報を以って文字通りの幕引きとせず、UPSの完全復旧が成って、故障の原因解明も為された暁に、明解な報告が公表されることを期待したい。
 
蛇足:日付数字遊び 本日の西暦8桁表示から出発して、素数との出会いを楽しんだ:
 

20181020,2018102, 1028201, 128201, 12821, 102821=229×449, 10282001,100282001=23×23×163×1163, 1000282001,1002820001, 1000028200001, 1000000282000001,1000000282000001,

 

太字が素数を示す。数字列12821が素数産生力に富むように見える。

素数ではないものの、因数分解で面白い形になるものもある:
 

102821 =229 × 449

100282001= 23 × 23 × 163 × 1163

市場祭り~栗無し柿有り~栗名月

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本日は、素数に関しては月日の「1021」を除くほか、年月日で素数に該当する表記は無いので、風雅の境地へと舵を切るべく、栗の買い出しに出かけた。いわゆる≪栗名月≫の旧暦九月十三夜に当たることを思い出してのことだ。
 
たまたま巣鴨で年中行事の豊島市場祭りがあるので、良質の栗を割安で買えるものと信じていたのだが、栗の影も形も無かった。
 
市場祭りと言えば、身動きもままならないほどの混雑が当たり前だったのに、今回は出店が少なく、会場に余裕があった。人出も少ないようだった。
 
中央市場の豊洲移転の影響だろうか。築地から豊洲へ、市場が遠くなったことを実感した。手ぶらで帰るのも寂しいので、柿を箱買いした。一日1個でひと月と十日食べ続けられる。
 
それにしても、栗が一粒も見当たらないとはどうしたことか。まさか、栗名月を意識した人が殺到した訳でもないだろう。
 
数日前、よく利用する青果店に、栗が1ネットだけ寂しそうに陳列されていたことを思い出した。栗の出盛りは過ぎたのだろうか。
 
意地になってスーパーも覗いてみたが、やはり栗は無かった。自分の季節感に自信を失いそうだ。
 
冷え込む夜空に栗名月が皓々と照っている。

平安遷都の日 ~ 延暦13年10月22日 ~ 辛酉革命の日

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よくお世話になる暦のページによれば、今日は「平安遷都の日」だそうで、簡単な説明が付されている:
 
794(延暦13)年、桓武天皇が長岡京から山背国葛城郡宇太村の新京に移りました。「平安京」と命名されたのは、その年の118日でした。 平安遷都1100年を記念して1895(明治28)年に創建された平安神宮の例祭・時代祭はこの日に開催されます。≫ 
 
時代祭の名は知っていたが、このような謂れがあるとは知らなかった。祭そのものは平安神宮と共に、未だ新しいということか。
 
ところで、古い事績の記念日は、当時の暦(つまり旧暦)に拠っているのか、現今の新暦に移し替えているのか、いつも気になる。単純に、当時の暦の日付けをそのまま新暦に落として記念日としているのが普通だろうとは思うが、一応確認したくなる性分なのだ。
 
ネット検索であちこち当たった結果、≪延暦13年十月二十二日≫であることが判った。史料的には≪甲戌年、乙亥月、辛酉日≫とあるのを年号と数字日付けに換算するらしい。その延暦13年が西暦794年に該当するということで、めでたし、めでたし。
 
そうすると、今度は、(延暦13年)十月二十二日が(遡及適用した)新暦の何月何日になるのか知りたくなる。暦のページにより、AD 7941122日と判る。偶然、ひと月遅れの同日となるのが面白い。これなら、1122日を≪平安遷都記念日≫としても悪くはない。
 
遷都実行の日の干支が≪辛酉≫というのも気になる。昔、≪辛酉革命≫の思想があると教わった。遷都の日もその思想に基づいて決定されたものか。
 
本日の干支は≪丁亥≫である。

月一合唱練習 ~ メンバー故障 ~ 相対音感頼り

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昨日は月一の練習日、久し振りに5名集まるかと期待していたが、一人は体調不良、もう一人は手許不如意で欠席、結局3人でお浚いをした。
 
伴奏無し、音源無しの、自分たちの音感を頼りにしての危なっかしい音合わせであった。今月の予定演目十数曲のうち、問題ありなのは千代女/成田為三「朝顔や」である。
 
ソプラノ役にはキツイ高音域があるので、その部分は勝手に音を下げて歌おうなどと気楽に考えていたところ、実際に試演してみると簡単ではないことが解った。相対音感には自信を持っていた筈なのに、理屈通りの高さの音が簡単に出て来ない。日頃の訓練不足が祟ったのか、老化現象か。
 
女声三部輪唱形式で、各声部に共通あるいは類似のメロディーが多用されているのは有難いが、声部間の受け渡しには気を遣う。
 
時々経験することだが、特定の音程をなかなか取れないことがある。今回はドからラに飛び上がるのに苦労した。階名でドラと上がるのは何も問題無い。歌詞を乗せて歌おうとすると外れてしまう。

何故こんなことが起こるのだろう。何回も失敗して、最後はうやむやのうちに良いことにした。本番ではピアノが鳴るから、ということで。
 
その本番は来週の火曜日だ。ピアノとの合せは三十分ほどしかないだろう。ピアニストに楽譜を渡していない2曲を急遽プログラムに入れることにしたのも、童謡・唱歌の類いとは言え、気が引ける。
 
段々と手抜き傾向が強まっているような気がする。いつまで続くのかな。
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