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Channel: 愛唱会きらくジャーナル
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サツマイモ②~鍋湯煎~湯沸しポット

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先日紹介した“サツマイモ~甘味増進~“新”調理法”(2014/3/29())のフォローアップの結果を報告しよう。
 
  自宅での実験:鍋に浅く水を張り、深皿を置き、サツマイモを入れて、ガス火でチロチロ湯煎した。圧力鍋ではないので、イモに熱がスムーズに伝わらないようで、時間が長くかかった。水嵩を増して加熱すれば早く蒸せる。どちらにしても、イモが甘くなるのは同じことだが、旅先での印象に較べると感激は薄い。
 
  旅先での再実験:湯沸しポットと、これに収まる程度のコップを使った。イモはビニール袋に入れず、コップで湯煎した。前回と同様に、水(熱湯)に浸かったため、甘い汁が多く出来た。イモも当然水分の多い柔か仕上げとなった。気の所為か、自宅での蒸かしイモよりも甘いようだ。水分が多いと、甘味を感じ易いのだろうか。
 
比較論を展開するほどの実験回数ではないし、実験条件も厳密に設定していないから、そもそも考察するに値しないレベルにとどまっている。
 
小保方さんのSTAPと同列に扱うのは失礼だが、つい連想してしまう。あちらの話題は、とっくに科学の土俵を外れていて、近頃は面白くない。
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老人ホーム慰問コンサート~転調嫌い~自主ハモリ

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ボランティア・グループで老人ホームにコンサートの出前をしてきた。歌い手10名前後、弦楽器3(ヴァイオリン、チェロ、プサルター)、管楽器1(フルート)、指揮(兼 司会・ソロ)、ピアノ、の大部隊であった。
 
ここは年3~4回訪問するお得意先で、お客さんが多い(約70名?)。歌詞カードが配付され、会場の皆さんも自由に歌うことを勧められる。
 
1.おぼろ月夜    二部
 2.さくらさくら   二部
 3.春がきた     斉唱
 4.春の小川     斉唱
 5.春の唄      斉唱
 6.金婚式(弦楽演奏)
 7.さびしいカシの木 二部
 8.涙そうそう    斉唱
 9.いい日旅立ち   斉唱
10.モーツァルトのメヌエット(弦楽演奏)
11.オペラ「蝶々夫人」より  ある晴れた日に(独唱)
12.ふるさと     ア・カペラ 三部
番外 今月の誕生日会で、“Happy Birthday to You
 
歌は斉唱が多く、つい気が緩むが、7,8,9あたりは意外と難しい。「さびしいカシの木」の低音パートには、木下牧子好みの転調が散りばめられており、未だ確実に体得できない音程がある。
 
「涙そうそう」と「いい日旅立ち」は、音程は楽だが、リズムと歌詞譜割りに難(?)がある。斉唱であるのを幸い、面倒な部分は口パクでやり過ごした。
 
代償として、「ふるさと」と“Happy Birthday to You”ではオリジナルのハモリを付けた。代償どころか、お叱りを受けてもおかしくはないところだが、衆寡敵せず(歌い手中、黒一点)で、埋没しているから安全だ。
 
今月はもう一回出番がある。
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深井史朗~残菊物語~東海林太郎

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「東海林太郎歌のすべて(東海林太郎吹込歌謡全集)」(2014/4/9())の暦年作品一覧データの中に、“残菊物語(ポリドール 昭和1412月)藤田まさと/長津義司”の一項がある。
 
知らない歌だが、タイトルの「残菊物語」に呆けた脳が反応した。つまり、過去に見たか、聞いたかしたタイトルだと思われた。
 
その後、偶然に己がノートにメモを見付けた。“残菊物語 佐伯/深井 楠繁夫 ビクター”とある。何のことは無い、つい最近その古い録音を聴いたばかりだったのだ。多数の曲を一度に聞いたので、明瞭に思い出せなかったようだ。
 
深井史朗は作曲家、東海林は歌手、同郷にして知人の間柄であり、デビューする前の東海林に深井が合唱団の仕事を紹介したというエピソードが伝えられている。
 
両者が活躍した時期は重なるが、その組み合わせでのレコードは見当たらない。所属会社が異なるなどの事情があったのかどうか、些か気になる。
 
二つの「残菊物語」があるとなると、その関係を知りたくなるのは当然だ。手っ取り早くネット検索したところ、「残菊物語」なる小説(村松梢風作)を基にした映画やTVドラマが複数あり、それらに肖った音楽作品もかなりの数あることが判った。
 
例えば、上記の外、“橋 掬太郎/大村 能章[作曲],三門 順子 キングレコード”“西條 八十/佐々 紅華,藤本 二三吉,夏川 佳子,甲斐 百合子コロムビア”などがある。
 
あるサイトには、“「残菊物語」(1939年)は、「浪花女」(1940年)「芸道一代男」(1941年)とともに、溝口健二の「芸道三部作」と呼ばれている”と解説されている。この溝口映画の音楽を担当したのが深井だった。
 
“残菊物語 佐伯/深井 楠繁夫 ビクター”は当然その映画の主題歌だったのだろうな。
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春愁払拭~伊藤 光(ソプラノ)~矢口 智恵(メゾソプラノ)

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春だからというわけでもないだろうが、自分が間抜けで、口惜しい思いをすることが多い。悧巧に振る舞ったつもりが、実はそうでもなかったと後で判り、自己嫌悪に陥るのだ。鬱にならないよう、精々歌の世界に嵌っていよう。
 
というわけで、今週も副都心のランチタイムコンサートを楽しんできた:
 
348回 私の絶望を彩る光と華
伊藤光(ソプラノ)/矢口智恵(メゾソプラノ)/豊田華子(ピアノ)
 
Aプログラム12:05
 
花の二重唱 ドリーヴ《ラクメ》から
市の花屋 深尾須磨子/高田三郎 歌曲集《パリの旅情》から 矢口
さくら横ちょう 加藤周一/別宮貞雄 歌曲集《二つのロンデル》から 伊藤
アヴェ・マリア ヴェルディ《オテロ》から 矢口
空深くかかる月よ ドヴォルザーク《ルサルカ》から 伊藤
 
Bプログラム12:35
 
二重唱 オペラ《ヘンゼルとグレーテル》抜粋 フンパーディンク
 
歌手お二人のお歳は判らないが、多分若手に属するのだろう。大した実力をお持ちだ。何と言っても、声量豊かで、高音域にも余裕の感じられるところが良い。矢口も、メゾとは言いながら、並みのソプラノが真っ青になりそうな声域の広さだ。
 
別宮貞雄の「さくら横ちょう」は初めて聞いたような気がする。中田喜直の作曲した方は度々聴いた。別宮版は、聞いた印象ではとても難しそうだ。難しくて長い。だから普段のコンサートではあまり取り上げられないのかな。裏返せば、伊藤の実力と、今日の意気込みを汲み取れるということか。
 
後半の《ヘンゼルとグレーテル》は、ちょっとしたミュージカルだった。突っ立って歌うだけでなく、動き回って多様な演技をするのだから、体力勝負だ。実際、中間に息を整える場面を用意していた。やはり、身軽な若手でなければこなせないプログラムだ。
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島崎藤村「春やいづこに」~作曲・平岡均之~作曲・三島喜代造

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当ブログで何回か取り上げた作曲家・平岡均之の作品に「春やいづこに」という三部合唱曲(変ロ長調 2♭、6/8拍子、21小節)がある。島崎藤村の第2詩集「一葉舟」(18986月、春陽堂)に発表され、後に藤村詩集(19049月、春陽堂)に再録された詩「春やいづこに」に作曲したものだ。
 
かすみのかげにもえいでし
糸の柳にくらぶれば
いまは小暗き木下闇 ( コシタヤミ )
  あゝ一時 ( ヒトトキ )
      春やいづこに
色をほこりしあさみどり
わかきむかしもありけるを
今はしげれる夏の草
  あゝ一時 ( ヒトトキ )
      春やいづこに
梅も櫻もかはりはて
枝は ( ミドリ )の酒のごと
醉うてくづるゝ夏の夢
  あゝ一時 ( ヒトトキ )
      春やいづこに
 
藤村26歳の時のロマン主義溢れるこの詩に、平岡がいつ曲を付けたかは不明だが、1932年の出版物に収録されているので、多分その少し前、30歳頃の作品ではないか。
 
この曲を来月、北国の“さくらの会”のコンサートで歌いたいと画策中、他の音楽家もこの詩に作曲していることが判った。三島喜代造の作曲で「春やいづこに」が1934年の出版物に掲載されている(ニ長調 2♯、3/4拍子、28小節)。この人のプロフィールは未見だが、鹿児島所縁の人であるらしい。
 
二人の音楽家がほぼ同時期に同じ詩に作曲したことに、何か意味があるのか、気になるところだ。その頃、この詩が注目されるようなことがあったのか、単なる偶然か。「藤村詩集」は1927年に「藤村詩抄」として改めて出版されている。その後、版を重ねているようだから、話題になったのかも知れない
 
なお、平岡、三島の両者に先立って、成田為三が「春やいづこに」を作曲しているらしい確かな情報が有るが、現物未見。
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出前コンサート~都心に蛙の声~世間の変化

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「高齢者サービスセンター」という名称は正式には存在しないらしいが、ボランティア・グループの出前コンサートに参加して来た。
 
当てにならないバスを利用するため、充分の時間的余裕をもって出掛けたところ、目的地に早く着きすぎたので、散歩で時間調整をした。以前から噂に聞いていた大名屋敷跡の公園を見付けて入ってみると、都心には珍しい高低差のある小公園で、中心にある池からは蛙の声まで聞こえてきた。
 
ご近所の塀に見慣れない花が咲いていた。近付いてみると、アケビのようであったが、乾涸びた果実が残っていたので、ムベだろうと見当を付けた。
 
コンサートは先日と同じ内容で、緊張感が無かった。ソロで「ある晴れた日に」を歌う指揮者先生が一人張り切っていた。お客さんは40名くらいで、出演者の倍以上だったのは良かった。
 
夕方には“アンサンブルそのりて”の練習に2回目の参加を果たした。あと、本番直前の練習に出るだけなので、できるだけ注意深く歌ったが、数か所あやふやだった。何とかなるだろう。今回は歌い甲斐のある曲が多いので楽しみだ。
 
消費増税後、初めて山手線に載った。初乗り運賃が10円上がっていた。ICカードで乗ると何円安いのかな。いわゆるホームドアも山手線では初めて見たような気がする。健忘症かな。
 
きょうは寒かった。昨日に較べると最高気温で10度ほども差があったようだ。
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連日ボランティアグループ~リンゴの花咲く頃~男声(蛮声)オブリガート

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昨日に引き続き、ボランティア・グループのお付き合いで、定例練習会に出た。昨日の今日だから、出席者が少ないのは無理も無い。しかし、グループとしては、新しいプログラムに本格的に取り組む初日だから、大事な練習日なのだ。実際、新曲3曲の仕上げが急ピッチで進み、皆さん、“いい具合だ”と満足そうだった。
 
このグループは、二人の先生を委嘱しており、一人は指揮と声楽指導、もう一人はピアノ伴奏及び器楽指導と一応分担している。二人そろわない練習日には、分担に拘わらず、お一人で全部引き受ける。
 
指揮の先生は、合唱団の出来栄えにはそれほど御執心ではなく、施設のお年寄りに満足して貰えれば良い、という程度の気持ちのようだ。器楽担当の先生の方が、むしろ合唱のレベルの向上に御熱心だ。
 
今日は器楽の先生に、随分きめ細かくご指導頂いた成果が現れたという次第だ。実は、楽譜をしっかり読み込めば解る筈の事柄をご注意頂いている面もある。無気力な団員の意識の切り替えが本当は必要なのだ。というわけで、今日はしっかりシゴカレて、冷涼なお天気にも拘わらず、汗を掻いた。
 
新曲の一つ、「リンゴの花咲く頃」を持ち込んだのは、テンポ良く、明るい曲で、季節にも合うことの外、ソプラノのオブリガートが魅力的だからだった。
 
ところが、ソプラノ陣が全然オブリガートを歌おうとしないので、非常手段として、当方が蛮声を張り上げることにした。「いいね」と好意的な人もいるが、多数派とは言えないだろう。
 
今日の器楽の先生は団員の自発的な試みを尊重する姿勢のようで、結局、男声陣がオブリガート(二部)を受け持つことになった。
 
そこまでは問題無いのだが、やるからには満足できるレベルに仕上げなければならないという、至極当然の理屈で、繰り返し、オブリガートを練習させられた。
 
高音部は“ミーファー”で、テノールにとって特に高い音ではないが、何回も絶叫するのは大変だ。そろそろ限界、と思ったところで打ち止めになり、ホッとした。昔聞いたソットヴォーチェを真面目にトレーニングしておけばよかった、と今頃後悔している。
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古関裕而~海を呼ぶ~無調歌曲

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古関裕而の作曲で「海を呼ぶ」(詞 薮田義雄)という歌が「日本作曲年鑑 1934年」に載っていた。
 
楽譜を見ても曲のイメージが湧かない。五線冒頭に調号が無いので、愛しのハ調かと思いきや、♯や♭などの臨時記号がふんだんに置かれており、変拍子でもある。親しみ易い“古関メロディー”の面影は無い。
 
彼が既に歌謡曲の世界で売れっ子になっている時期に、このような難解な現代音楽を作っていたとは意外だ。二十歳の頃に国際作曲コンクール(イギリス)に入賞したというから、元々はクラシックの曲を作っていた訳で、現代音楽を目指していたのだろうか。流行歌を作曲しながらも、クラシック畑の現代音楽も捨ててはいなかったのか。
 
歌詞は次の通り:
 
   潮幽く 星はかくれて   綰曲なす波のうねり
   堪へがたくして 海を呼ぶ   應へなき 海を呼ぶ。
   面やつれ 髪おひしげり   腐りゆく 鞏音のまへに、
   海を呼ぶ、 ひたすらに海を呼ぶ。
 
漢字は総て訓読みするのだが、「綰曲」と「鞏音」は、ルビ無しでは読めない。「鞏」は「」だったかもしれない。詞意は、凡そ察しが付くが、間違っても楽しいものではない。古関の演奏指示も“おそくなく、陰惨に”となっている。どんな歌か、一度聴いてみたい。
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諸行無常~仏教の基本的教義~仏教も諸行無常

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出版社のPR誌『春秋 20144月号』(No.557)が“特集いま仏教的なものをめぐって”を組んでいる。巻頭論文は「立ち向かう仏教 - 上田紀行」で、現代の(日本)仏教に対するネガティヴなイメージにめげず、人々の新しい支えとなる仏教を構築しようと熱く語っている。
 
その中に、ダライ・ラマの「仏教も諸行無常を逃れられない」という言葉が引用されている。
 
「諸行無常」とは、仏教の基本的教義である三法印の一。この世の中のあらゆるものは変化・生滅してとどまらないこと。この世のすべてがはかないことだそうだ(大辞林第三版)。
 
単純に考えると、「諸行無常」(という教義)は仏教の一部分を成すのだから、それ自体も「諸行無常を逃れられない」と推論できる。
 
つまり、「諸行無常」(という教義)も不変ではありえない、場合によっては滅することもあり得ると考えられる。これでは自己矛盾に陥ってしまう。仏教の基本的教義が成り立たなくなる。これは、まずいのではないか。
 
この困難は、「諸行」の定義が明確でないことに起因する。ダライ・ラマも不用意に、この曖昧な概念を拡大適用したのだ。最近の某国総理大臣の憲法関連の暴論もこれに類似した論理上の逸脱かと思われる。と、これは筆、ならぬ指先が滑ってしまったか。
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花名~歌名~捨てる神あれば

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梅、桜、躑躅、藤、、、と次々に花の咲く季節に合わせて、歌の方も引っ換え取っ換えしている。「湯島の白梅」、「東風吹かば」、「さくらさくら」の時期は過ぎた。
 
今は、愛唱会で「アカシヤの花」を、そのりてで「みかんの花咲く丘」、「夏は来ぬ」、「からたち日記」を、ボランティア・グループで「リンゴの花咲く頃」、「花の街」を歌っている。
 
そして、北国のさくらの会では、「朝顔に」と、すべて包括するかの如く年間通して「花は咲く」を歌っている。
 
この後は、「野ばら」、「すずらん」、「エーデルワイス」、「沙羅の木」、「桔梗」、「菊」などが控えている。
 
花は歌の主題として恋愛、風、水(雨、川、海、涙)、空(光、星)などと共に、昔から上位に在る。「愛国の花」、「花売り~」、「花街の~」などという応用もある。
 
歌にならない花名もあるだろうか。ヘクソカズラ、ビンボウカズラ、ママコノシリヌグイ、ブタクサ、ブタナなどが先ず考えられる。
 
ノウゼンカズラは如何か。アイゼンカズラがあるから大丈夫とも言えないか。イヌフグリは、意味はともかく、響きが悪くないので、案外歌になりそうな名だ。
 
ナナカマドは、ロシアの歌の翻訳の際にグミに取って代わられてしまったが、歌名になった実績がある。捨てる神あれば、拾う神あり。
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歌名~動物名~何でもあり

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歌曲における植物名の選別は、かなり明瞭なようだが、動物名はどうだろうか。直観的に、植物ほどには差別が行われていないような気がする。
 
悪役の代表、オオカミなど、童謡に登場する。鬼や悪魔も歌になっているようだ。ハイエナ、ハゲタカの歌は知らないが、有りそうな気がする。
 
動物も、脊椎動物から離れて、節足動物を見渡すと、昆虫類は人気種だ。害虫なのに、ノミの歌は有名だ。ゴキブリは、「ラ・クカラーチャ」だ。
 
ただし、似たものでも、チョウはあるが、ガは無さそうだ。イメージが良くないということだろう。とにかく、虫の歌は枚挙に暇が無い。
 
カニ、エビは当然歌われる。軟体動物のタコも食生活に於けると同様に人気がある。空に上がるのもいる。貝類も思い浮かぶ。
 
歌われそうにないのは、気持ちの悪い種類だろうか。ヒル(ヤマビルなどの蛭)の歌は、やはり無いだろうな。ミミズはどうか。あっても、あまり楽しくなさそうだな。
 
下って、寄生虫の類となると、さすがに歌にはならないだろう。サナダムシ、ジュウニシチョウチュウ、ベンチュウなどではとても歌えそうにない。
 
しかし、カイチュウの歌などはあっても良さそうな気がする。「笑うカイチュウ」などという本が一時期話題になったことで、言わば親近感が醸成されたのかも知れない。
 
生物の分類は、近年、大幅に新展開を見せているようなので、老人にとっては、体系的な考察は無理だが、(動物・植物の範疇には含まれないらしい)カビの類は歌えそうだ。悪役ばかりでなく、善玉が多いことでもあるし。
 
キノコ類はどうか。可愛いイメージだから、毒キノコは別として、沢山あるだろう。
 
昔、ばい菌の歌なんてのを聴いたような気がして検索した。どうも「バイキンマン」だったらしい。
 
生物か無生物か、議論のあるウィルスも歌には不向きだと思うが、念のため検索すると、今流行のアイドルグループ名にくっついて出てくるではないか。どんな歌か判らないが、世の中、何でもあり、ということか。
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河北新報~東北振興歌~報知新聞

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「東海林太郎歌のすべて(東海林太郎吹込歌謡全集)」(2014/4/9())によると、仙台の新聞、河北新報が懸賞募集して、選定したという「東北振興歌」を東海林太郎が1936(昭和11)年にレコードに吹き込んでいる。
 
作詞は渋田進、作曲は阿部武雄となっている。探索しても、そのレコード音源や楽譜は勿論、歌詞さえ見つからなかった。
 
ところが、思いがけず、昭和時代初期の雑誌「日曜報知」(報知新聞社)の目次に“東北振興歌歌曲”とあるのを発見した。幸運にも、その雑誌の現物を閲覧する事が出来た。確かに、“東北振興歌”の楽譜と歌詞が掲載されていた。
 
しかし、紙質老朽の貴重資料であるため、セルフコピーが許されず、古文書専門業者に依頼することとなった。僅か1枚のB4コピーを入手するのに、十日ほどの時間と五百数十円の料金支払いを要した。そこまでして手に入れなければならない資料なのかと、我ながら疑問に思わないでもないが、これが“蓼食う虫も~”の世界なのだろう。
 
さて、高価なコピーを改めて眺めてみると、タイトルは“東北振興歌”に間違いないものの、報知新聞社選で、作詞は武重守、作曲は東京音楽学校となっている。雑誌を手にした時にはそこまで確認せず、てっきり河北新報選の“東北振興歌”だと思い込んでしまった。
 
要するに、ほぼ同じ時期(1935年頃)に、中央と地方の新聞社がそれぞれに“東北振興歌”を選定していたのだ。
 
当時は、1929年に始まった世界恐慌の只中で、日本全体が“振興”を必要としていたと思われるが、特に東北について見れば、度重なる冷害・飢饉のほか、193333日の「昭和三陸地震・津波」が想起される。
 
政府による震災復旧事業は災害発生直後から始まっているが、その後数年掛けて様々な復興事業が実施されている筈で、その名も「東北振興調査会」という政府機関が設置されたのは1934年(昭和9年)12月だそうである。1935年(昭和10年)5月には内閣に東北振興事務局が設置され、東北振興の恒久対策を目指した(ウィキペディア)。
 
ということで、二つの“東北振興歌”が競作された事情が判ったような気がする。
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音楽情報処理~自動理解~能動的音楽鑑賞サービス

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かなりの旧聞に属するが、日本学士院の次のような“お知らせ”があった:
 
日本学士院は、優れた研究成果をあげ、今後の活躍が特に期待される若手研究者6名に対して、第10回(平成25年度)日本学士院学術奨励賞を授与することを決定しましたので、お知らせいたします。
氏名
後藤 真孝 (ごとう まさたか)
生年月
昭和455月(43歳)
現職
産業技術総合研究所情報技術研究部門首席研究員
専門分野
音楽情報処理
研究課題
計算機による音楽・音声の自動理解とそのインタフェース応用に関する先駆的研究
選考理由
 後藤真孝氏は、コンピューターによる「音楽の自動理解技術」という困難な課題に挑み、その成果によって世界的なインパクトを及ぼした音楽情報処理分野の第一人者です。コンピューターが、音楽を音響信号として膨大に蓄積し、再生することは容易でしたが、音楽として混ざり合った複数の音が持つ複雑な時間構造・周波数構造を自動理解することは困難でした。その自動理解のためには、人間が音楽を聴くときに無意識に行う処理を工学的に計算可能にする必要があります。後藤氏は、音楽に対する鋭い洞察と卓抜な数理的操作を通じて、複雑な実世界の音楽音響信号から(1)ビート(拍)の位置を推定し、(2)メロディを抽出し、さらには(3)曲がいちばん盛り上がる「サビ」の区間を同定するための画期的な技術を確立しました。同氏はこの技術にもとづく応用研究として、一般ユーザーの参加・貢献によって利便性が向上する能動的音楽鑑賞サービスをインターネット上で実現し、また学術利用可能な研究用音楽データベースを構築して、音楽情報処理分野全体が発展する基盤を築きました。加えて同氏は、音声言語情報処理の分野でも新たな発想で優れた成果を挙げました。
音楽が数学や物理学など自然科学と密接に係わっていることは明らかだし、現代の音楽技術はITを駆使して能率を飛躍的に向上させただけでなく、音楽の素質や素養とは無縁の者でも作曲できる領域を開拓した。
 
そして、後藤真孝氏は“音楽音響信号から(1)ビート(拍)の位置を推定し、(2)メロディを抽出し、さらには(3)曲がいちばん盛り上がる「サビ」の区間を同定するための画期的な技術を確立”したわけだ。
 
その応用としての“能動的音楽鑑賞サービス”とは何か。ひょっとして、曖昧、不完全な楽曲記憶から原曲を検索するシステムなどか。或いは、個人の好みに合う楽曲を拾い出すシステムか。それらが、人の口ずさむメロディを認識し、情報処理する技術を組み込んでいるのか。無限の可能性を秘める人智に、驚異の念を新たにした。
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琵琶湖周航の歌~タケオジマ~音大生中心

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「琵琶湖周航の歌」を、偶々ヒットしたYoutube(音楽大学に在籍する学生を中心にして結成された合唱演奏を追求する混声室内合唱団)で聴いた。
 
さすがに我々爺婆コーラスとは段違いの上手さだと感心しながらコメント欄を見ると、“竹生島は残念ですね、言葉をおろそかにしては歌としての基本点から間違っています、”とあった。
 
一瞬、何のことかと訝ったが、間もなくピンと来た。“竹生島”を読み誤っているのだろうと。終節まで聴いていくと“タケオジマ”と発音していた。
 
コメントを遡って見ていくと、案の定“タケオジマ”が槍玉に挙がっていた。“「たけおじま」:× 「ちくぶじま」:× 「ちくぶしま」:です。”と丁寧な解説も入っている。当方は、これまで“ちくぶじま”派だった。
 
演奏レベルの高さもさることながら、この読み間違いが話題になったのだろうか、演奏回数が1年足らずの間に52千余に上っていた。怪我の功名とはよく言ったものだ。
 
発音の揺れは自然現象とも言える。“シマ”と“ジマ”との違いは問題視することもないが、固有名詞の単なる読み間違いは、常識の有無を疑われる。“竹生”は、それほど珍しいとも思われない。
 
追い討ちをかけるように、 歌詞の中で「滋賀の都」とありますが「志賀の都」が正解ですね”とも書かれている。当分ヒットが続くことだろう。
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石井露月~去つて栗留まつて酒~俳句作法

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月刊誌「俳星」4月号(2014年)巻頭に、伊藤整が『硯友社と一葉の時代』で石井露月について書いた部分が転載されている。
 
露月(2013/7/11() など)が明治29年の秋、医師前期試験に通り、十月の末、郷里秋田に戻る際に、正岡子規を中心とする送別句会を開いて貰った。その席で露月が詠んだ2句が紹介されている:
 
少年の紅葉に狂すときかばわれ
去つて栗留まつて酒いづれ秋   
 
概して露月の句は難解だ。“少年の~”の句も直ぐには理解できない。暫く頭を捻って、“年端の行かない子供のくせに、紅葉を愛でる風狂な奴、と噂があれば、それは私のことだ”と自虐しているのだろうと推測した。そのように理解すると、なかなか洒落た句だと思われてくる。
 
“去つて栗~”の句は一層難解だ。句単独では殆ど意味を成さない。郷里に戻る直前の作という予備知識に縋って解釈すれば、“今頃田舎に行けば栗が実っていて、それを食べるだろうが、ここ(東京)に留まれば酒を嗜む日々となるだろう。どちらが秋らしい生活か(言うまでも無く、栗の方だ)”となる。
 
両句の我が解釈にあまり自信は無いが、一応、理屈は通るだろう。理屈を捏ねるまでも無く直観的に理解するところに俳句の面白味がある、と思うと、些か自己嫌悪に陥る。
 
ところで、“去つて栗~”の句は、教わっているところの俳句作法に照らすと、問題がある。先ず、季語が多過ぎるのではないか。「栗」と「秋」が重なっていると思ったのだが、《俳人石井露月を顕彰するホームページ》の解説によれば、「栗」と「酒」が季題で、季節が「秋」となっている。
 
季題は季語と同義と解するとしても、「秋」はその範疇に入らないというわけだ。季節名そのものだから季語とは言えないということか。この辺は俳句を嗜む者の常識なのかな。
 
「酒」が季語だということも知らなかったので検索すると、冬の季語だとある。「栗」は勿論、秋だろう。“行く秋や 手をひろげたる 栗のいが”(芭蕉)というのもあるそうだから、季語と季節名は重なっても構わないようだ。
 
もう一つの問題は、“去つて栗・留まつて酒・いづれ秋”と、上中下3部分に切れることだ。こういう上中下三分は悪い形(何と称するのか知らない。)だと教わったのだが、流派によって考え方が違うのかな。
 
しかし、子規の高弟と評価の高かった露月ほどの手練れが、初心者から問題点を指摘されるような駄句を作る筈が無い、と考える方が妥当であるとも考えられる。
 
愚説が文字通り愚劣、錯誤である可能性もあり、芸術の世界には絶対のルールは無いことの一例かも知れず、先達の教示を頂きたいところだ。
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露月俳句~季重なり~軽重自明

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昨日、月刊誌「俳星」4月号(2014年)の記事を基に石井露月の俳句について初歩的な疑問をアップした後、同5月号が届いた。
 
めくると、巻頭言は同じく露月論である。実は連載『露月折々』で、今号は第44回となっている。随分と永続きだ。それだけ材料に事欠かない、事績豊富な俳祖と言える。
 
さて、今号は、のっけから露月句を表題とする小論の引用である。
 
棒鱈(ぼうだら)の荷(に)も片(かた)づきぬ初燕(はつつばめ)
  ~   福田甲子雄『忘れられない名句』(毎日新聞社 平成16年)
 
以下、巻頭言を書いている俳星主幹・石田冲秋氏の寸評から:
 
“~掲句には「棒鱈」と「初燕」と共に春の季題が用いられているが、著者が解説の中で述べているように「初燕」の句である。この句ばかりでなく露月句には、こうした一見季重なりの句が見られるが、しっかりと軽重を踏まえている。”
 
当管理人の如き初心者の抱くであろう疑問を見透かしたかのような今号のフォローアップだ。
 
同主幹によれば、季題(季語)が重複していても、いずれが主であるか明瞭であれば季重なりとは見做さないというわけだ。
 
だとすれば、その判断は当然、俳句を鑑賞する人ごとに異なる可能性がある。一つの俳句でも、受け止め方は、その人の人生経歴により様々だからだ。勿論、詠み人の気持ちは一つに定まっているのだが、発表された俳句は独り歩きする。自明の理、書き記すまでも無さそうだな。
 
とにかく、季重なりは、あまり神経質に避ける必要は無いと考えていいのだろう。
 
同主幹には、フォローアップ序に、“切れ過剰”の問題についても解説して頂けると有難い。イメージ 1イメージ 2
 

フタアツ/まど・みちを~山口保治~ないしょ話/結城みちを

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古色蒼然たる「日本名歌五〇〇曲集」(奥田 良三/山本 芳樹/共編 新興音楽出版社 1942)の目次を眺めていて、想定外の作詞者名に遭遇した。
 
60 フタアツ・・・(まど・みちを作歌・山口保治作曲)”  
 
カタカナの“フタアツ”も不思議な題ながら、“まど・みちを”とは、今の人ではないか、と思った。念のため検索すると、つい2か月ほど前に亡くなっていると判った。
 
2014/02/28 - 童謡「ぞうさん」や「やぎさんゆうびん」などで知られ、やさしく深い言葉で命の貴さをうたいあげた詩人のまど・みちお(本名石田道雄〈いしだ・みちお〉)さんが、228日午前99分、老衰で亡くなった。104歳だった。”(www.asahi.com/articles/ASG2V54F3G2VUCLV00B.html)
 
楽譜をなぞってみると、気の所為か、歌詞もメロディーも聞き覚えがあるようだった。聞いたことが、あるいは歌ったことがあるとすれば、六十年ほども前のことだろうか。
 
歌詞第3番に至って目を見張ることになる。
 
   ふたあつ ふたあつ なんでしょね
   お目目がいちに ふたつでしょ
   お耳もほらね ふたつでしょ
  
   ふたあつ ふたあつ まだあって
   お手手がいちに ふたつでしょ
   あんよもほらね ふたつでしょ
  
   まだまだいいもの なんでしょか
   まあるいあれよ かあさんの
   おっぱいほらね ふたつでしょ
 
こんな歌詞が七十年以上も前の日本で公然と罷り通っていたのか、と驚くのは、己の品格が下劣であることを証明するのかも知れない。就学前の幼児か小学校低学年の児童であれば、平然と歌えるのだろう。邪念とは無縁の、清らかな心の子供に帰りたい?
 
この歌のメロディーが別の歌を連想させるのも気になった。“ないしょ ないしょ ないしょの話は あのねのね ~”と、こちらの歌詞はすっかり身に沁みこんでいる。検索すると、「ないしょ話」で、作詞は結城みちを、作曲は山口保治、つまり、「フタアツ」と同じ作曲者だった。「フタアツ」の3年ほどあとの作らしい。
 
なお、こちらの作詞者・結城みちをは、まど・みちをとは対蹠的に、24年の短い人生だった。実に80年もの差がある。それでも、作詞家として世に与えるインパクトは、今となっては対等なのだ(尤も、受け止める人によるが)。イメージ 1イメージ 2

国民歌謡~母の歌~国民学校唱歌

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無数と言っていいほど沢山の歌が溢れていて、歌の主題として特定の事物、事象が好まれるからには、同名異曲の出現は必然である。
 
間もなくやってくる“母の日”とやらに因んで、“母”関連の歌を渉猟したところ、例えば、次の二つの「母の歌」が目に付いた。
 
母の歌     板谷 節子/橋本 国彦 /国民歌謡
 
ごらんよ坊や あの海を 
沖は朝風 お陽さまよ
坊や海の子すくすくと 
潮の息吹で 育つわね

ごらんよ坊や あの山を 
峯は白雪 あおぞらよ
坊や山の子 手を振って 
今にあの峰 登るわね

ごらんよ坊や あの旗を 
風はそよ風 日の丸よ
坊やも起って 高らかに 
今に「君が代」 歌うわね
 
母の歌  野上弥生子/下総皖一/文部省唱歌
母こそは 命のいずみ 
いとし子を 胸にいだきて
ほほ笑めり 若やかに 
うるわしきかな 母の姿
 
母こそは み国の力 
おの子らを いくさの庭に 
遠くやり 心勇む 
雄々しきかな 母の姿
 
母こそは 千年の光 
人の世の あらんかぎり
地にはゆる 天つ日なり 
大いなるかな 母の姿
 
個人的に知る限り、橋本版「母の歌」の方が有名だ。昔の国民歌謡でラジオから流れたからだろうか。レコード音源を聴き比べると、下総版の方が心に沁みる。短調っぽいからかも知れない。
 
歌詞の深みが違うとも言える。板谷の詞は、母の子に対する期待を具象的に表現している。
 
野上の詞は、社会・国家における母親の役割を美的に表現し、大地を照らす太陽になぞらえている。母も子も、総てを鳥瞰する歌となっている。
 
優劣を論じるべきものでもないが、聴く人に与えるインパクトには違いが出ても不思議は無い。
 
両詞に共通する点も目につく。どちらも、軍国主義への迎合は覆うべくも無い。その結果として、今はどちらの歌も、3節ある内の1節が、通常歌われないそうだ。逆に、現代の風潮に迎合せず、3節全部歌うという硬骨の氏もいらっしゃるらしいが。
 
当管理人も、歴史的事実は正確に伝えるべきだと思うから、現代の思潮に合わせてのつまみ食いは、神経質すぎると思う。
 
他にも諸大家の「母の歌」がある。集めて歌い較べるのも一興。
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単語回生~五十音スキャン法~頭の体操

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初夏にも珍しいほどの爽やかな一日だった。ゴールデンウィークとかで、いろいろお楽しみの方々もいらっしゃるようだが、当方は普段と変わりなく、街中で雑用を足し、ついでに新聞のまとめ読みをした。
 
日本経済新聞2014/5/2付夕刊の記事に心が共鳴した。「頭の体操」と題する作家・出久根達郎氏の随筆の冒頭:
  
“寄る年波で、物忘れがひどくなった。特に固有名詞が出てこない。そんな時は五十音をゆっくり頭の中で唱える。それでも浮かばなければ、隣の行と二語組み合わせる。”
 
この、言わば「五十音スキャン法」は、当方も六十年近く実践している単語回生の手段だ。もともとは、受験対策で思い付いた。
 
“寄る年波で、物忘れがひどくなる”前から、理屈抜きで機械的に詰め込んだ知識を呼び戻すのは容易ではなかった。
 
言葉を思い出したいときに、ただ脳みそを絞る動作をするより、アイウエオ順に音の組み合わせを試すと、運が良ければ、目的を達する事が出来た。若い頃は成功率は高かった。
 
齢と共に、この原始的コンピュータの如き検索術は効率が低下した。最近は出番も少なくなっている。脳の基本性能が落ちているからであることは明らかだ。
 
そこで、出久根氏の言う「頭の体操」が必要だと思うのだが、肝腎のその部分は読まずに帰宅した。どんな妙法をご教示されているのだろう。
 
ところで、対象が言葉(単語)であれば、言わばディジタル・データだから、五十音スキャンという機械的検索法が有効だが、歌のメロディーが相手の場合には、応用が利くだろうか。
 
後藤真孝先生(音楽情報処理~自動理解~能動的音楽鑑賞サービス 2014/4/27())の手に掛れば、たちどころに解決できそうだな。
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中西進~聖徳太子暦~和の精神

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學士會会報No.906(平成265月発行)に、中西進氏(日本文学研究者)が「~随 想四つの聖徳太子暦」を寄せている。タイトルも本文も些か解りにくかったが、結構面白い。内容を独断で整理すれば次のようになる。
 
聖徳太子が十七条憲法を制定した推古12年(604AD)を紀元とする。ここから四つの暦を数える事が出来る。
 
   十七条憲法の和の精神を継承しようと、勅撰集の撰進が相次いだ。先ず、150年後、753ADに最初の試みが始まった。これは完成しなかったが、更に150年後、905ADに『古今集』勅撰が成った。序文の和歌の力の記述は有名である。ここまで300年で、さらに300年後、1205ADに『新古今集』の一往の完成を見た。また、順徳天皇は『禁秘抄』によって和歌と天皇との深い関係を北条氏に説き、後水尾院は古典、和歌の尊重をサロンの形で徳川幕府に示し、明治天皇は歌会始に国民から和歌を詠進させた。これらは、歌人政治の体制を目指したともいえる。
 
   戦乱にあって平和を願う祈りが十七条憲法に鑑みて行われた。藤原頼長は四天王寺に参詣して聖徳太子の像を拝み、「もし天下を摂録せん時には、願はくは十七条の憲法に任せて之を行はん」と誓った(1143AD)。徳川家康も、全国平定後の国家の安定に向けて諸法度を作る中で、1615ADに、十七条よりなる「禁中並公家諸法度」を制定した。そして、第二次世界大戦のあと、1946ADに、武力の放棄を謳う今日の平和憲法が制定された。
 
   太子は、十七条憲法の制定の前後に、対新羅戦の停戦を決断し(603AD)、遣隋使を派遣した(607AD)。憲法の第1条「和をもって貴しとなす」は、抽象的な人倫の和にとどまらず、具体的な停戦の反映だった。遣隋使の派遣は、新羅から隋への外交政策の転換である。このように、太子は半島との抗争を避け、文明の中心地、中国へと向きを変えたのだが、以後の日本はこの精神に学ばなかった。つまり、反面継承の暦となってはいるが、太子暦の本質がうかがわれる。
 
   十七条憲法には「等しく三宝を敬え」と規定され、仏教の受容が宣言された。在来のモノ信仰、カミ信仰に加えて、いち早くホトケ信仰を取り入れて、過激な宗教戦争を未然に抑えた。その成功が民衆の上に及ぶ大きな暦を作っている。
 
以上四つの暦、枢要な時系列が、すべて太子の十七条憲法の制定に源泉を持つという着想は実にユニークである。太子や十七条憲法については、後世の脚色が疑われることを十分に承知の上で、中西先生は“和の精神”が日本史上、連綿と受け継がれていると述べるのであるが、それは願望であるかも知れない。推測するに、最近の政府首脳の軍事力重視、好戦性を憂慮しての寄稿なのではないか。
 
当管理人的には、十七条憲法(604AD)、勅撰集の試み(753AD)、『古今集』勅撰(905AD)、藤原頼長の誓い(1143AD)、『新古今集』(1205AD)、「禁中並公家諸法度」(1615AD)、平和憲法(1946AD)といった関係事項の生起周期性、区切りの良さが面白い。事項選定に中西先生の意図が反映されているとしても、充分に興味深い事実である。
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