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Channel: 愛唱会きらくジャーナル
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大礼奉祝唱歌~平岡均之~賞金千円

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先日、図書館から「軍歌歳時記」(八巻明彦著、ヒューマンドキュメント社戦誌刊行会 , 星雲社(発売)1986)なる本を取り寄せて読んだ。例によって、何故取り寄せる気になったのか思い出せなかったが、関心の無くも無い歌が幾つか取り上げられていた。
 
「大礼奉祝唱歌」(高田精一/平岡均)という歌が目に付いた。タイトルからは“軍歌”と思われない。大日本帝国軍の統帥者である天皇の即位を祝う歌だから、広い意味の軍歌と見做したのだろうか。
 
作曲者名が問題だ。本当は“平岡均之”だ。
 
一  三種(みくさ)の神器(たから)うけつぎて
   天津日嗣(あまつひつぎ)の御位(みくらゐ)に
   我(わ)が大君(おほきみ)の即(つ)きたまふ
   かしこき今日(けふ)の大御典(おほみのり)
   祝(いは)へ、祝(いは)へ、いざ祝(いは)へ
二  悠紀主基(ゆきすき)の田の新稲(にひしね)を
      ~
 
難解な古語を散りばめた歌詞は、それだけ厳かに、有難く響いたことだろう。曲は、ニ長調(2♯)、4/4拍子、M.M.♩=96、20小節で、素直な明るいメロディーだ。前後奏は無いが、伴奏譜は楽しげに見える。
 
この歌は、以前、平岡均之について調べていた過程で見付けた資料から、文部省が昭和3年に歌詞及び曲を一般公募し、選定したものであることを承知していた。
 
上掲書においては、その時「明治節唱歌」と共に公募されたことが記されている。記述は「明治節唱歌」が主体で、「大礼奉祝唱歌」は付けたしである。前者が帝国の存続する限り歌い継がれるのに対し、後者は一回限りで用済みになる運命であることを本書も述べている。
 
しかし、応募第1位当選者への賞金は、両方平等に1千円(詞曲とも)だったそうだ。当時の1千円は(上掲書執筆時の)数千万円~1億円に相当するように述べているが、これは些か大げさではないか。
 
いくら、お国の歴史的記念行事とは言え、そのような大金を公募唱歌のために大蔵省が認めるはずが無い。我が推定では、100万~200万円くらいである。それにしても、大奮発であることは確かだ。
 
さて、その一回限りの消費で忘れ去られた「大礼奉祝唱歌」の音源が残されているらしい。聴くのが楽しみだ。
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平岡均之~井上武士~今川 節

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「大礼奉祝唱歌」の作曲公募で第1位、賞金千円を得たのは平岡均之であった。最終的に最優秀5曲が選定され、第2位・賞金二百円を交付されたのは、次の4人であった:
 
怒田清光
井上武士
田村藤兵衛
今川 節
 
大家・井上武士の名がある。当時は34歳、横浜で小学校音楽教育の指導に当たっていたと思われる。
 
末席の今川節については、次の興味深いウェブサイト「今川節の部屋」を発見した:http://www.city.fukui-sakai.lg.jp/tosyo/bunko/tosyojyouhou/ijin/imagawa.html
 
今川節は明治41年福井県に生まれた。銀行の給仕になり、同時に好きな音楽の道をめざして児童文学雑誌「赤い鳥」の音楽通信講習で作曲の勉強を始めた。
 北原白秋の詩「ちょうちょう」に作曲して応募したところ、大正14年の「赤い鳥」8月号に成田為三氏の推奨作品として掲載された。16歳の時のことである。翌年には、「雪の降る夜はたのしいペチカ」で始まる白秋の詩に複合7拍子という稀に見る技法で作曲した「ペチカ」が誕生。
 
~「大礼奉祝唱歌」~2等入選~賞金200円で手に入れたオルガンは彼の生涯の佳き伴侶となった。昭和7年5月~第1回全国音楽コンクール~「ローレライの主題による交響変奏曲」を作曲し応募したが、力量至らず落選。
 
しかし、才能を認めた山田耕筰氏の手厚い激励を受け~次回コンクール~交響組曲「四季」は~作曲部門の第1位に輝いた~
 
日頃患っていた肺結核~昭和9年5月~作曲歴10年、25歳の生涯をとじた。代表作「ペチカ」は、この年の12月にキングレコードから東海林太郎氏の歌で「ペチカ燃えろよ」として全国にレコード発売された。
 
「大礼奉祝唱歌」第2位に入選したのは、ちょうど二十歳の時ということになる。三人並べれば、平岡26歳、井上34歳、今川20歳だ。
 
「今川節の部屋」によると、“白秋は「今川君のペチカの方が好きだ」と称賛した”そうだ。
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北原白秋「ペチカ」~山田耕筰~今川節

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昨日引用したウェブサイト「今川節の部屋」中、“~複合7拍子という稀に見る技法で作曲した「ペチカ」が誕生~とあるが、楽譜を見ると、4/4拍子と3/4拍子とが交互に連なっている形なので、通例の用語法では“混合拍子”と呼ぶのではないだろうか。定義の問題ではあるが。
 
その北原白秋/今川節「ペチカ」を聴くと、有名な北原白秋/山田耕筰「ペチカ」の雰囲気が漂ってくる。余りにも深く脳髄に沁み込んだ名曲だからということもあるだろう。
 
メロディー譜を追いながら聴いていると、上昇、下降やリズムが良く似ていることが判る。音域もほぼ同じようだ。山田がこれを作曲したのは1923年12月、翌1924年の「滿洲唱歌集」が詞・曲とも初出だそうだ。
 
少し遅れて本土の唱歌集にも掲載されたので、今川も山田版「ペチカ」の影響の下に作曲した(1926年)ものと想像される。
 
山田版「ペチカ」の初出譜は変ホ長調(3♭)のようだが、偶々手許にある楽譜を見るとニ長調(2♯)で、今川版も同じだ。両者組み合わせて演奏しても違和感は無さそうな気がする。どこかで実験してみたい誘惑に駆られる。
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画像は池田小百合氏サイト「なっとく童謡・唱歌」から拝借。

ペチカ燃えろよ~東海林太郎~もう ぢき はるよ

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ウェブサイト「今川節の部屋」中、“今川節~代表作「ペチカ」は、この年の12月にキングレコードから東海林太郎氏の歌で「ペチカ燃えろよ」として全国にレコード発売されたとある。
 
その音源の所在を探ったところ、レコードが国会図書館に所蔵され、しかもディジタル化されていることが判った。キングレコードから1935年1月に発売と記録されている。
 
東海林太郎は井田一郎の編曲で、原調より1音低いハ長調で歌っている。最高音ファ♯は、彼にはキツかったのだろう。録音容量の制約の為か、原詩が5番まであるところ、4番までで終わる。
 
なお、昨日掲載した原詩3番の“もう ぢき はるよ”の個所を“ぢき はる きます”と歌っている。詩の異本があるのだろうか。
 
井田一郎については、サイト http://www.geocities.jp/nipp17734/ida.htmに、“昭和8年の終わりから11年にかけてはキングで作曲・編曲・指揮をした”とある。 
 
ところで、いわゆるロシア民謡の一つに、邦題「燃えろよペチカ」というのが有ったなあ。
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政府専用機②~新機種調達~米欧激突

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朝日新聞夕刊が政府専用機の更新をトップに取り上げている。ほぼ3年前に当ブログでも取り上げた(2011/1/28())。その頃から検討されて、いよいよ本決まりになるらしい。新年度予算に手付金でも計上されたのだろうか。
 
記事によれば、2機購入で千三百億円余りと見積もられているとのこと、消費税増税のお蔭で、この程度の金は簡単に捻り出せるというわけだ。
 
記事の焦点は、専用機の要否ではなく、金額でもなく、機種であった。アメリカのボーイング社とEUのエアバス社との一騎打ちは既に始まっている。常識的には、ボーイングの当選が確実であると見てよいだろう。エアバス社が余程おいしい条件でも提示しない限りは。
 
納税者としての当管理人の考えは、前回と変わるところは無い。政府専用機を保持するのは税金の無駄遣いだ。必要の都度、航空会社からチャーターすればよい。会社に余裕機材を持たせるための金銭的対価を支払っても、専用機より遥かに経済的だろう。
 
尤も、この点はしっかり比較計算をする必要がある。新聞社の力でやって貰いたい。そもそも、政府内では、とっくに計算済みでなければならない。それを報道するだけでよい。経済比較の計算など、鉛筆を舐めればどのようにでも結果を細工できるとしても、議論の出発点として必要なのだ。
 
そのような問題意識を持っているのは、世の中に一人だけなのかな。一般の旅客機とは機体、装備の仕様が違うのだという主張もあるだろう。専用機は必要なのだ、経済性とは次元が違うのだと、誰もが信じて疑わない時代なのだろうか。
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不思議体験~テレパシー?~警告Eメール

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神秘主義とは無縁の科学的合理主義者と自認しているので、些か気恥ずかしいことだが、先日、不思議なことがあった。
 
その日、ある月例の催しに出席する積りでいた。出掛ける直前に何気なくEメールの着信をチェックしたところ、その月例会が“今日ではありません、来週です”との連絡が入っているではないか。
 
偶々気が向いてメールチェックをしたから良かったものの、そのまま出掛けていれば、ほぼ一日を棒に振るところだった。改めて手帖で予定を確かめると、まさに警告通り、一週間後の開催となっていた。
 
それにしても、何故(当方の思い込んでいる)開催当日に“今日ではありません、来週です”の連絡が来たのか、暫くは狐に抓まれたような気分だった。
 
そのEメールは、会員全員に送信されているので、当方の勘違いがテレパシーで察知されたのではないかと恐怖する事態でないことに安堵する。冷静に振り返って見れば、何故開催日を取り違えていたか、心当たりが無くも無い。
 
先月、2月の開催日が未だ記憶に在り、それを再生していたのだ。その根っこには、2月と3月は日付・曜日が一致するという意識がある。メモなどを確認せず、老けてぼんやりした頭だけで行動すると、このような誤りを冒す危険がある。
 
当日の朝、会員の誰かが、当方と同様の勘違いに気付き、不安になって主宰者に問い合わせたに違いない。これは危ないと思ったのだろう、警告の同報メールを発した機敏な主催者にも感心する。
 
神秘主義を排して推理すれば以上のような筋書きとなる。真相は次の例会のお楽しみだ。
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日本の母を頌ふ②~軍国の母~日本のおかあさま

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弘田(龍太郎)が佐藤(春夫)とのコンビで作曲した「日本の母を頌ふ」を2014/3/17()に簡単に紹介した。改めて歌詞を記載する:
 
毅くやさしき日の本の   母の教を身にしみて
ますら男の子ら生ひ立ちぬ  日の本の母ぞ尊き
 
君と國とに捧げんと   子等をはぐくみはげまして
老の至るを知らぬなり   日の本の母ぞ畏き
 
言はず語らずその勲   深く秘むれど愛子らは
戦の庭に證せり   日の本の母ぞゆかしき
 
まさに軍国の母の理想の姿を表現している。佐藤春夫全集の解説に拠れば、1942年10月1日発行の「日本学芸新聞」第140号に、続いて翌2日「読売報知」に掲載され、詩集「大東亜戦争」(昭和18年2月20日 龍吟社、装幀 藤田嗣治)に収録された。
 
この歌の“レコード音源の所在は把握した”と書いたが、当方の勘違いで、楽譜しか見つからなかった。資料によれば、テイチクレコード昭和18年1月8日発行(T3400)で、東海林太郎と日本合唱団、帝国管弦楽団の演奏である。
 
裏面に百田宗治/杉山長谷雄「日本のおかあさま」が、千葉静子・東京子供合唱隊の演奏で収録されているという。こちらは“少国民歌”と冠されている。
 
一 ネンネンオコロリカアサンノ ヤサシイウタヲキキナガラ
  オホキクナッタボクラデス  ワタクシタチデスオカアサン
  ホントニホントニアリガタウ
二 いえいえみんなはおくにの子 とうあのそらになりひびく
  とうさんがたのくつのおと みんなでしっかりうけついで
  つよい子よい子になるのです
三 サウデスカアサンボクタチハ ワタクシタチハニッポンノ
  ゲンキナツヨイコドモデス  ミンナデオクニノヤクニタチ
  カアサンダイジニマモリマス
四 うみよりふかくやまよりも  たかいめぐみのおかあさん
  たふといをしえわすれずに  わたくしたちはすすみます
  ほんとにほんとにありがたう
 
軍国の母の教を守り、子供たちは“オクニノヤクニタツ”決意を表明する内容で、“とうあのそらになりひびく  とうさんがたのくつのおと”が恐ろしい響きを持つ。
 
しかし、曲はハ短調(3♭)のおとなしい童謡調だ。“元気にしっかりと、然し愛らしく”歌うようにと複雑な指示がなされている。
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浅虫附近のわらべうた~子守唄~花折りの唄

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「東北温泉風土記」(2014/3/10(月)から、浅虫附近のわらべうたとされる長い子守歌を一つ:
 
“子守唄
 
友達な友達な 花折るに行がぬがア
なんの花 折るね
牡丹芍薬 芥子の花 折るね
一本折って腰に差し
二本折って腰に差し
三本目に日暮れて 何處さ宿取らうか
山毀して家建でだ
朝間にもつくと起ぎて 西の方を見たれば
綺麗だ綺麗だ姉様銀の銚子コ手に下げて
吟の盃手に持つて
てゝごにてゝごに酒三杯
あつぱこにあつぱこに酒三杯
肴なくてのまれねえ
おちほちの山に
高いどこ竹の子 低いどこ蕗の子
鰊コ 鰯コ 沢山だ沢山だ”
 
一応、物語の体裁を成しているが、繋がり具合が粗っぽくて、筋を完成させるには、相当の空想力を要する。筋の無いナンセンス歌と見ることも出来そうだ。子供を寝かしつけるのに、話の筋など必要ない。何でもいいから、優しい言葉でゆったりと歌い続ければ目的を達する。
 
とは言え、歌う方にとっては、やはり筋のある方が覚えやすいし、歌い易いだろう。各人適当に肉付けして、具体的なイメージを膨らませながら歌うのだろうか。歌の内容は、地元の人には明瞭なのだろうか。
 
念のため少々検索してみたら、ほぼ同じ文句で「花折りの唄」として記録されていた。(http://www7a.biglobe.ne.jp/~amusic/un0408-3.html
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サツマイモ~甘味増進~“新”調理法

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サツマイモは英語で sweet potato(甘いジャガイモ)と言うように、(ジャガイモに較べれば)甘いに決まっているのだろうが、甘さのレベルは様々だ。
 
収穫後に熟成させて蜜入りにする品種も有るらしい。調理の仕方でも甘さは変わるだろう。
 
旅先でおやつ代わりにと、くずイモを買ってホテルの湯沸しポットで蒸かしたサツマイモが驚くほど甘くなったことがある。
 
実は、蒸かすつもりが、器も無いので、ビニール袋に入れて湯煎したのだった。密封できていたかどうかは判らない。袋にたまった汁を飲んで、その甘さに驚き、イモ本体を食べて更に驚いた。
 
こんなことは、料理をする人には常識なのだろうか。それまでの我が乏しい経験の中には、同じような調理イモは無かった。
 
折角の発見だから、もう少し実験して、再現性があるかどうか確かめよう。小保方さんのSTAP細胞の例もあることだし、発表は慎重でなければならない。
 
そう言えば、あちらの方の真相は遠からず明らかになりそうだが、どうも、卑説(2014/3/6() )の“実験管理の不備による試料の汚染(他からの混入)による誤認定”に該当するのではないかと思われる。
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日本語二題~○○に圧倒~○○○ジー 

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1.最近、全国紙上で続けて“○○に圧倒”という表現を見た。“圧倒される”の動詞部分“される”を省略したものであることは一目瞭然だが、それまではお目に掛った記憶が無い。“○○を圧倒”であれば全く違和感は無い。
 
どちらにしても、主語は明示されているか、自明である。“○○××される”と“○○××する”との、助詞-動詞 の対応があるから、理屈の上では、“される”あるいは“する”を省略しても意味を汲み取るのに支障はない。
 
ただ、慣用の問題だ。“に”でも“を”でも、後に来る動詞は、能動形しか考えられなかった。“○○に圧倒”のように、受動形を想定した省略表現はいつ頃から使われているのだろう。当方が気付かなかっただけで、昔から使われていたのか。
 
2.「日本教育」2月号No.431で金沢方言“○○○ジー”が紹介されている(井上優:研究対象としての「言語」の魅力 pp.30-31)。金沢の地元新聞の記事(2008年)「なぞの文末詞、かっこいいジー」に触発されての論考である。
 
例示されている方言は、“課長、かっこいいジー”“おまえのうちに寝小便の布団、干してあったジー”のふたつである。
 
これらの“ジー”は、地元で暮らした者でなければ理解できないと思われる。直前の部分に比べてやや高めの発音(平板な)をするから、耳にすれば疑問や感嘆のニュアンスが伝わるかもしれない。
 
地元紙は、“金沢の人はなぜ文末に『ジー』をつけるのか。こればかりは地元の言語学者のナゾでもある。”と結んでいるそうだ。これは、語源が不明だと言っているのだろう。
 
井上先生も語源の種明かしはしていない。知りたければ『シリーズ方言学2 方言の文法』岩波書店、第4章を見よ、と暗示されている。
 
金沢方言と別れて半世紀以上経つが、微妙な発音まで鮮やかに蘇る。
 
“ジー”について言えば、“○○したがやジー”など、凄いのもある。若い
頃の体験は文字通り体に沁みこんでいるのだろう。
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設置前桟橋転覆~産業事故連鎖~構造欠陥か

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近年大きな産業事故が続いており、収束する気配が無い。昨朝、日本最南端の沖ノ鳥島海域で沈設作業中の桟橋が転覆したとのこと、報道による限り、過失の疑いが濃い。
 
コスト削減が叫ばれ、安全性が軽視されている社会風潮が最果ての工事現場に災害をもたらしたのだろうか。公衆の目の届かない洋上での作業ということで、関係者の間に気の緩みは無かったか。
 
情報が少ない状況ではあるが、事故原因など推理してみよう。事故当時、波や風は穏やかで、それらが原因での転覆でないとの認識は関係者に共通しているようだ。載貨の偏りなどという初歩的なミスは無かったとすれば、作業手順を誤ったか、桟橋の構造に欠陥があったか、あるいは、その他の原因が考えられる。
 
桟橋を浮かせるために、先ず台船を沈めるのだが、傾き始めたタイミングについて、矛盾する証言がある。発注者側は、桟橋が浮いた時点では問題が無く、曳き船が桟橋を曳き始めたら傾いたと言っている。請負側は、桟橋が浮くと同時に傾き始めたと言っている。
 
両者が目視による感想を述べているだけであるとすれば、言い分の違いはあまり重みが無いが、作業中の計測記録に基づくのであれば、何らかの意味があるだろう。
 
しかし、安全に浮いている桟橋を曳いただけで傾き始めるとは考えにくい。桟橋自体に問題があったのではないか。桟橋は、素人目にも重心の高い造りであり、安定を確保するのにそれなりの手立てが講じられていたことは間違いないだろう。
 
それでも転覆したのだから、手立ての講じ方に抜かりがあった可能性が高い。現場海域へ曳航する前に本土付近で一度浮かせて安全を確認したとのことなので、それが事実であれば、その後に構造上の変化があったとしか考えられない。
 
その危険な構造変化が起こり得るのは、どのようなケースであるか。妄想を逞しくすると、当初からの欠陥(施工不良など)を除外すれば、破壊工作が考えられる。桟橋が水密性の函体で、幾つかの区画に分かれているとして、一部に浸水するような工作を施していたとすれば、台船が沈下したところで桟橋は傾くだろう。何者が?と考えると、非現実的な想定と言わざるを得ないが。
 
その他、構造詳細が不明のまま推理すれば、桟橋を台船上で固定している装置を、桟橋浮上時に解除する段階での問題もあり得るだろう。例えば、固定装置の解除が不十分なまま曳航を始めれば、桟橋を損傷することになるだろう。新聞写真で見る限り、その可能性は無さそうだが。
 
損傷と言えば、写真で見て取れる桟橋のへこみは何だろう。想像力の限界を超える。
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日本語3題目~読点の位置~難文の効用

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ある広報誌に次のような文があった:
 
“・・・強引に煌びやかな色で灰色を塗りこめてしまうと、例えば「倍返しだ」の展開する綺麗な景色が理不尽を黙々と耐えていると、相手がそのうちに頭を下げてくれるというどこかに存在するかもしれない別の麗しい光景まで消し去っていることに気付きにくくなる。”
 
何を言わんとしているのか、なかなか呑み込めなかった。何回も読み返してから、文中の重要と思われる概念を拾い上げて対置させながら読み直すうちに気が付いた。一つの読点が災いを為していたのだ。
 
“・・・綺麗な景色が理不尽を黙々と耐えていると相手が・・・”ではなく、“・・・綺麗な景色が理不尽を黙々と耐えていると相手が・・・”であるべきなのだ。
 
このパソコン時代、著者が自ら作成したデータをそのまま印刷している筈だ。ご本人には、当然のことながら、文意は解っているので、読点を何処に打とうが、自然に読めてしまう。
 
しかし、他人はそうは行かない。特に、長い、複雑な文では、読点を何処に打つかが、解り易さを大きく左右する。
 
上例程度の文をすらすら読解出来ないようでは、頭の中に靄が掛っていると思わなければならないかな。その自覚が促されるという意味では、悪文(失礼、難文?)を書いて下さる方に感謝しなければいけない。
 

大新宿区の歌~服部嘉香~平岡均之

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当「愛唱会」には根拠地とも言うべき固定的な練習会場が無い。弱小団体の悲しさで、公的施設を定期的に利用予約する資格が無い。
 
あちこちの施設の空き状況を見ながら会場確保に努める流浪の民として7年余を過ごしてきた。最近は文京区と練馬区の施設を使うことが多い。昨年の途中までは新宿区にも随分お世話になった。港区、中央区にまで遠征したこともある。
 
人前での演奏は、文京、新宿の両区でのみ行ってきた。その御縁に鑑み、両区の区歌を歌えるようにしておこうと、楽譜を入手したのは数年前だった。しかし、手つかずに時が過ぎ、先日漸く文京区歌を歌った。
 
今年度は新宿区の施設の利用を再開する可能性があるので、こちらの区歌も仕込んでおきたいところだ。その名も「大新宿区の歌」の楽譜は、約4年前に区役所にお願いしてFax送信して貰ったのだが、今は区のホームページに歌詞、楽譜、音源が載せられている。
 
作曲者は平岡均之(1901-1976)で、彼の名は当ブログにも複数回登場している。作詞者は服部嘉香となっている。その名は初見なので、検索したところ、国文学者にして詩人(1886-1975)であることが判った。
 
所縁の関西大学ホームページによれば、“早稲田大学文学部英文科を卒業。同期生に北原白秋、三木露風、若山牧水がいた。”ということで、懐かしい石川啄木を思い出す。二人の生まれは同年で、服部の方がひと月半ほど後だ。啄木の没後、更に63年も長生きしている。
 
服部の歌詞は平明な口語調で、佐藤春夫の文京区歌の文語調2014/3/3()とは実に対蹠的だ。“ビジネスセンター”などというカタカナ語の採用にはびっくりだ。詩人の本領か、言葉遊びか、“心さやかに身もすこやかに”とか“御苑外苑学園ならぶ”など韻律に巧みである。
 
明後4月4日は服部の誕生日、3日前の3月30日は平岡の命日。
 

東京駅ちかコンサート~坂本貴輝~さくらに雨

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東京駅八重洲北口に近いオフィスビルの1階ロビーでランチタイムコンサートを聴いた。
 
東京二期会劇場 in 丸の内トラストシティ(クラシック)
出演  坂本貴輝 テノール、宮崎香織 ピアノ
 
さくら横ちょう   加藤周一/中田喜直
初恋        石川啄木/越谷達之助
からたちの花    北原白秋/山田耕筰
君は僕の心の冠   F.ダーン/R.シュトラウス
 
幻想曲 さくらさくら(ピアノソロ)   平井康三郎
 
愛の小径      アヌイ/F.プーランク
フェデリーコの嘆き(ありぐれた話) 「アルルの女」から  F.チレア
 
チャールダッシュ(ピアノソロ)   V.モンティ
 
THE MUSIC OF THE NIGHT 「オペラ座の怪人」から  A.ロイド=ウェバー     (日本語歌詞)
Be My Love        N.ブロドスキー
 
(アンコール)
帰れソレントヘ、オ・ソレ・ミオ 
 
あいにくの雨模様だったが、お客さんは大勢で、立ち見も、当方を含めて結構いた。
 
坂本は初めて聴いた。清澄な声で、声量は少な目のようだ。サントリーホールで6月に二期会ウィークの催しがあり、一夜出演するとのことで、宣伝に努めていた。
 
彼の出番は6月24日で、“歌曲の世界 R.Strauss 生誕150年に寄せて ~ベルリンゆかりの作曲家たち~”と長いタイトルのコンサートだ。出演歌手5人のトップにソプラノの薗田真木子が名前を出している。宮崎滋さんのコンサートで2回ほど聴いたと記憶する。
 
きょうはよく降るなあ。特に午後に入ってからは多い。そんな日に限って外出の用事があるような気がする。無情の雨に、折角の桜もじっくり鑑賞しないうちに盛りが過ぎていく。遅咲きの八重桜に期待しよう。
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アンサンブルそのりて~初見合唱~賛助練習

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“アンサンブルそのりて”さんの6月に予定している施設訪問に賛助出演するための初練習に行って来た。全部で15曲ほどもあり、時間的には捌ききれないかも知れない。
 
すべて宮崎滋氏の編曲で、今回の特徴は子守歌特集だ。プログラムの半分ほどは既知の曲だが、既忘の部分もある。このグループは、初見で歌い始める。いわゆるパート練習、音取りはしないので、直ぐには付いて行けない。自習した上で練習参加を重ねるしかない。
 
最難関は「東京ラプソディー」だろう。この歌は聞き知っているが、歌ったことは無い。勿論、担当するのはメロディーではない。自分のスケジュールを見ると、練習に参加できるのは、あと2回のみだ。大丈夫かな。もっとも、間に合わなければ、口パクという奥の手もある。
 
懐かしいところでは、「下町の太陽」もプログラムに入っている。これは4年前に一度歌っている。思い出すのにあまり苦労は無いだろう。
 
激しい夕立で気温が下がり、帰宅する頃は寒かった。いわゆる季節の変わり目、健康管理を慎重にしよう。既に風邪気味のようだが、花粉症のようでもある。鼻づまりと鼻汁の合併症は厄介だ。
 
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今川節~ペチカ燃えろよ~東海林太郎

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今川節の代表作「ペチカ」は、キングレコードから東海林太郎氏の歌で「ペチカ燃えろよ」として全国にレコード発売された(ペチカ燃えろよ~東海林太郎~もう ぢき はるよ 2014/3/23())。
 
「ペチカは燃える 若き作曲家今川節君のこと」(昭和38年10月、今川節顕彰会)で、今川と東海林の面白い関係に気付いた。
 
今川(24歳)が作曲部門で第1位を取った第2回日本音楽コンクール(1933)の声楽部門の本選に東海林(34歳)が出場していたのだ。
 
彼がクラシック歌手を目指してコンクールに応募したが優勝できなかったということは何かで読み知っていたが、上掲書に掲載されたコンクール主催者・時事新報の社告に各部門の本選出場者名があり、この時の事と判った。永田絃二郎も名を連ねていた。優勝者は井崎嘉代子となっている。
 
声楽部門の本選は第一夜5月13日(土)で、夜行列車で上京した今川はその模様を会場で見、聴いたそうだ。東海林の歌も当然聴いたわけだが、己の死後、代表作と言われる「ペチカ」を彼がレコードに吹き込み、全国に広めることになろうとは知る由も無い。
 
東海林の方は、このことに関して何か言葉を残しているだろうか。既に売れっ子歌手となっていた東海林は、1934年には113曲も吹き込んでいるそうだから、そのうちの1曲でしかない「ペチカ燃えろよ」の作曲者名を気に留めなかったとしても不思議は無い。
 
上掲書にそのレコード盤面のスケッチが載っている。上部ロゴの下にローマ字で“POLYFAR RECORDING”と記入されている。録音機材を明示する慣例があったのだろうか。ドイツ製(?)高級機材を使用していることを誇示しているのかも知れない。
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今川節~ペチカ~永井郁子

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「ペチカは燃える 若き作曲家今川節君のこと」(昭和38年10月、今川節顕彰会)は今川節の伝記であるが、中に、彼自身の書いた文が引用されている。“彼が死ぬ前の年、すなわち昭和八年一月、ある新聞のために書いた随筆”だとある:
 
“音楽むだばなし
~~ぼくのペチカについて思い出すこと
~~~雪が降ると思い出すのは、ぼくの作った「ペチカ」の曲のことである。これは、ぼくがまだ十八歳、ほやほやの音楽少年のころの作品である。~~永井郁子女史が丸岡に来られた時も、これを見せたらとても褒め下さって、以後、東京・大阪・名古屋・北海道など、方々のステージで歌って下さった。~~”
 
今川が「ペチカ」を作曲したのは19268月で、初演は翌274月となっている。その後、方々で発表し、福井県内では結構知られ、歌われるようになったそうだ。
 
しかし、この「ペチカ」が出版されることは無かったようだ。彼自身が、この随筆の中で、“3年ほど前にある出版社に売ったが、不景気で楽譜の出版は駄目になり、ペチカもお蔵入りになった”と書いている。
 
そのペチカを日本各地で歌ってくれた永井郁子女史とは何者か、検索したところ、興味深いことが判った。ウィキペディアによれば、次の通り:
 
“永井郁子(ながいいくこ、1893830 - 1983128)は日本のソプラノ歌手である。大正から昭和にかけて活躍した。1915年秋に山田耕筰と結婚したが翌年に離婚した。”
 
結婚後僅か1年で離婚に至ったのは、耕筰の暴力、今風に言えばDVが原因だったとのことだ。山田耕筰が妻に暴力を振るっていたことで、心ある人達の非難を浴びていたことは何かで読み知っていたが、その被害者が永井郁子女史だった。
 
となると、彼女が今川版ペチカを積極的に歌って回ったのは、その曲の良さに加えて、耕筰への意趣返しの気持ちもあったのかも知れない。今川はその辺の事情を知らなかった可能性が高い。
 
それにしても、耕筰のDVの被害者であった永井郁子女史が、痛手から立ち直って“昭和に掛けて活躍した”とすれば、フェミニストたる当管理人も多少救われる。
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老健施設~歌唱介護~不得要領

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二日前の日曜日、徒歩10分ほどの介護老人保健施設でボランティア活動をした。と言っても、他に能が無いから、キーボード奏者1、バイオリニスト1を含む10人ほどで歌のお手伝いをしたに過ぎない。
 
唯一人初参加の当管理人が進行役を押し付けられた。歌詞集の中から適宜選択した歌を入所者の皆さんと一緒に歌うのだが、その手順がよく解らない。
 
歌詞集は施設に常備のもので、その何ページの何々を歌うということを告げて音頭取りをせよという注文だ。見たことの無い歌詞集、それも手許に用意できていないものの中身をどうやって人に案内するのだろう、と当惑するばかり。
 
一方、キーボード奏者が選曲リストを所持しているではないか。ならば、初出場で事情不案内の当方を進行役などに任命するのはナンセンス、と思うのだが、何故かそうなってしまった。なりゆきとは不思議なものだ。
 
二人の楽器奏者が楽譜の突き合わせでもたもたする場面などもあったが、約1時間にわたって、十数曲を歌った。
 
春が来た、春の小川、春の唄、おぼろ月夜、茶摘み、花、しあわせなら手をたたこう、青い山脈、東京音頭、春よ来い、ふじのやま、、、
 
終わった後も何か消化不良のような、すっきりしない気分だった。その一番大きい原因は、この催しの責任者は誰であるかが不明であったことだ。施設側なのか、ボランティアグループ側なのか。
 
それを知らないまま参加した当方も迂闊ではある。推測するに、施設におけるレクリエーションの一環である歌の会にお手伝いの歌唱ボランティアが求められたのではないだろうか。
 
だとすれば、選曲などは施設側(入所者側)で行っていそうなものだが、実際はボランティアが行っている。この実態からすると、企画を施設に売り込んだのかなとも思える。
 
歌を聴いて貰うコンサートでなく、人が歌うのを補助するために一緒に歌うというボランティア活動があることを知っただけでも良しとするか。考えてみれば、歌声喫茶と同類と言えなくもない。それにしても、歌い手としては随分中途半端に終始してしまった。
 
事前準備のしようも無い、このような奉仕活動がこれからも続くのだろうか。この投稿自体、不得要領の感があるが、この妙な行事を記録して置きたい気持ちに従った。
 
近頃パソコンの調子が悪い。画像の貼り付けもママならない。持ち主のボケが伝染したかのようだ。
 

東海林太郎~インテリ流行歌手~ペチカ燃えろよ

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「東海林太郎歌のすべて(東海林太郎吹込歌謡全集)」(東海林太郎歌謡芸術保存会、平成2年)という資料に、巻頭言として東海林の昭和14年頃の文章が載っている。
 
“或る日の感想”と題し、彼の流行歌手としての心の持ち方、プライドを述べたものだ。その中に、次のような一節がある:
 
“流行歌とはほんとうは流行した歌の意味である。レコード会社では流行させようと思ふ歌のことを流行歌と称し、吹込をして出来上つたものを、流行歌と銘打って発売するのである。これはレコード会社の営業政策である。”
 
自分が持ちつ持たれつの関係にあるレコード会社について、冷静な、あるいは大胆な発言をしているように見える。内容は至極まともである。音楽畑で純粋培養されたのではない、知識人らしい発言だ。
 
ここで、東海林太郎先生の権威あるいは名声に肖る格好になるのだが、当ブログでひと月以上前に書いたこと(佐藤春夫~弘田龍太郎~西條八十 2014/3/3(月))を思い出す。
 
《“国民頌歌”とは何か、不明である。レコード会社が販売促進のために、任意に命名したものか。
 
この資料に見開き2ページで彼のレコード盤面写真(レコードラベル)が11枚掲載されている。私算では、彼は1006曲の吹込みを行っている。レコード枚数は、その半数程度と思われる。無慮五百枚のレコードの中から如何なる基準でこれら11枚を選び出したのか、貧弱な想像力の域を超える。
 
その件はさて置き、その11枚の中に、あの「ペチカ燃えろよ」が含まれているではないか。売れっ子流行歌手となった東海林にとっては特に気に留めることも無い歌の一つではなかったかと想像したのだが(2014/4/6(日))、評価を改めなければならないかも知れない。
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ソプラノ・高橋絵理~オペラ新人賞~次のコンサート

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当ブログで約1年前(ソプラノ・高橋絵理~ランチタイム・コンサート~新国立劇場「ホフマン物語」2013/5/30()に称賛したソプラノ・高橋絵理が、このほど五島記念文化賞オペラ新人賞に輝いたという:
 
“平成26年度、第25回「五島記念文化賞」オペラ新人賞の受賞者に、鬼原良尚(コレペティトゥア)、橋絵里(ソプラノ)、山本耕平(テノール)3名が決まった。
 各受賞者には賞金50万円、副賞として海外研修に対する400万円の助成と、さらに海外研修終了後にその成果を発表するリサイタル等に300万円の助成を行う。”(2014.3.5 webぶらあぼ)
 
文学賞が毎日どこかで発表されているらしいことは判る。音楽賞も似たような状況だが、「五島記念文化賞」は、ご褒美のスケールから見て、国内トップクラスかと思われる。やはり当ブログで贔屓にしていたテノール・志田雄啓(2010/10/15()など)も、平成20年度五島記念文化賞オペラ新人賞を受賞している。
 
昨年、高橋を聴いたときは、彼女が我等が望先生の同窓・同輩かなと想像したのだが、それにしては大した貫禄だなあとの印象も持った。今回の報道で年齢が明記されたので、同輩ではなく、それなりの先輩であることが判明した。
 
女性の年齢を記載するときは、本人の許諾を得るのだろうか。名誉な内容の場合には無条件記載可なのかな。
 
こんどの日曜日13日、彼女は郷里・横手で「スプリング・チャリティーコンサート♪」に出演するそうだ。一足違いで聴きに行けないのは残念至極。入場料/\1,000だと言うのに。次の機会は6月の「二期会ウィーク」かな(2014/4/3())。
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