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Channel: 愛唱会きらくジャーナル
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無素数日 ~ 累桁法遊び ~ 見掛けの擬周期

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意外に早い梅雨入りで、すっかり湿っぽい日が続く。暦の上では今日が入梅だそうだ。明日はハモリーズの特養ホーム訪問コンサートの日であることが2箇月ほど前から決まっていたが、その後に、米朝首脳会談という“歴史的”イヴェントの開催が決まった。
 
短気で気まぐれな大統領さんと信用の薄い将軍さまのことだから、騒ぎの割には拍子抜けの結果になることも想定内だ。
 
こんなときは素数遊びに限る(? 脈絡無し)。
 
本日は、日付けをどのように表示しても素数にはならない。「611」も、如何にも素数のように見えるが「13x47」と分解される合成数である。
 
こういう時は遊びの範囲を拡張して、「累桁法」で素数の分布を眺めることにしよう。
 
先ずは「600…11」型を片っ端から素数判定機に掛けてみる。その結果は次の通り:
 
(4)6011, (6)600011, (7)6000011, (8)60000011, (52), (86), (96),,,,,
 
( )内の数はその後に表記する素数の桁数を示す。桁数の色付けや下線は、それらの素数が何らかの系列に属するように見えることを示す。例えば、(4)(7)(52)は、出現間隔が「3」の倍数である。また、(8)(52)(96)は、等間隔「44」で現れることを示す。
 
次に、「6100…1」型を眺める:
 
(4)6101, (5)61001,(7)6100001, (8)61000001,(11)6100…1, (26), (28), (3-50),
 
赤数字は、出現間隔が「3」の倍数であることを、(3-50)はその擬周期を適用して検出した素数桁を示す。緑数字の(4)(7)(28)は、出現間隔が「3」の倍数であるが、別系列であることを示す。尤も、出現頻度が高くなると、「3」のような短い擬周期はナンセンスとも言える。
 
第三の遊び方向は、「60101」のように、「0」を左右対称に挿入する累桁法である。桁数は奇数となる。その結果は次の通り:
 
(5)60101, (17) 600…00100…001, (19), (31), (41), (47),,,,,
 
左右対称形の数は素数になりにくいのではないかと想像していたが、そうでもないことが判った。尤も、本当の左右対称形は「10601」のような数であり、これについては確かに出現頻度の低いことが確かめられる。

月例特養コンサート ~ Voi che sapete ~ 序奏とロンド・カプリチオーソ

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特養ホーム・コンサートは、通常、毎月下旬に設定するのだが、今月はメンバーHさんの海外旅行期間を避けるため、今日にした。
 
暦の上での入梅だそうだ。梅雨の晴れ間で、気温も予報ほどには上がらず、この時期としては凌ぎ易く、駅からホームまでの上り坂も苦にならなかった。
 
幼稚園正面のフェンスにからまるパッションフルーツに見事な実が生っていた。幼果にも早くも蟻がたかっていた。よほど美味なのだろう。
 
本番前1時間弱のリハーサルを常例としており、今日はヴァイオリニストさん不在との想定で、特製のCDを伴奏に、プログラムの確認を進めたところ、CDに音飛びの欠陥のあることが判明した。そこで、各曲の歌い出しにはCDを使い、適当なところでア・カペラに移行することに決めた。
 
ところが、リハも半ばを過ぎた頃、突然ヴァイオリニストさんが現れ、ビックリするも、たちまち救いの神降臨に歓喜したのは当然だった。虫の知らせと言うべきか、楽譜の余部を持参していたので、直ぐに取り揃え、目を通して貰った:
 
1
高原列車は行く(丘灯至夫/古関裕而)
2
浜辺の歌(林古渓/成田為三)
3
とんがり帽子 (菊田一夫/古関裕而)
4
恋とはどんなものかしら (モーツァルト)
5
(北原白秋/弘田龍太郎、成田為三)
6
てるてる坊主(浅原鏡村/中山晋平)
7
雨降りお月(野口雨情/中山晋平)
8
夢みる人(津川主一/フォスター)
9
朝はどこから(森まさる/橋本國彦)
10
箱根八里(鳥居忱/滝廉太郎)
11
たなばたさま(権藤はなよ/下総皖一)
お元気で(輪唱)























 
全部の歌を全員斉唱する方式から、部分的に独唱などを取り入れてプログラムに変化を持たせ、ついでに各人の負担軽減を図る試みとして、手始めに当方が≪フィガロの結婚≫から「恋とはどんなものかしら Voi che sapete」を歌った。ヴァイオリン伴奏によるぶっつけ本番の割には上出来だったように思う。
 
来月はFさんが≪椿姫≫からアリア「プロヴァンスの海と陸」を歌ってくれるとのことで、何とかこの路線を定着させたい。ソロで歌うのが別の意味で過重な負担になる恐れがあれば、二重唱なども取り入れよう。
 
ヴァイオリニストさん、今日はサンサーンスの《序奏とロンド・カプリチオーソ》を披露した。楽譜無し、準備無しで、いきなりこんな名曲を弾いてくれる器楽メンバーが定着すれば、実に心強い。 
 
楽観主義に徹しよう。

戦争調査会 ~ 敗戦に学ぶ ~ 平和希求政府

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井上寿一「戦争調査会 幻の政府文書を読み解く」(講談社 2017.11)を図書館から借りて読んだ。イメージ 1
 
「戦争調査会」とは何か。短小にして漠たる名称は、長大かつ特殊具体的な公用語に慣らされた目には奇異に映る。本書冒頭の説明から引用する:
 
≪1945(昭和20)年10月30日、幣原内閣は「敗戦の原因及実相調査の件」を閣議決定する~再び戦争の過誤を犯さないように、政治、外交、軍事、経済、思想、文化などの多角的な視点から、敗戦の原因と実相を明らかにする政府機関として、戦争調査会が設置されることになった~戦争を検証する国家プロジェクトが始まる≫
 
素直に読めば、先の大戦を実証的に調査し、今後新たな戦争をしないための方策をまとめようという目的の政府機関が作られたことになる。ひねくれた読み方をすると、敗因を明らかにし、この次は負けないように教訓を学ぼうという魂胆があるのかも知れない。
 
実際は、今後の戦争のためではなく、敗戦に至る過程の研究により、戦争をしないで済む知恵を探究しようという意図であると幣原首相は明言したが、同時進行する極東軍事裁判との絡みもあり、連合国側の疑念を払拭できず、1946年9月、吉田内閣の時に廃止された。その間、調査活動は実施され、資料は一部残されたが、報告書は作成されなかった。
 
そんな「戦争調査会」という組織が首相のお声掛りで設置されていたことなど、当方は全く知らなかった。やはり政府主導で設置された「憲法普及会」(参考:ミニ・コンサート~自讃と反省~希望 2009/5/31() など)を思い出す。両会とも、平和と民主主義を希求する当時の政府の姿勢が窺われる産物であり、近年の日本政府の体質が嘘のようだ。
 
本書では、戦争調査会自体の活動は勿論記述されているが、同時に、先の戦争の原因や早期停戦の可能性などについても触れており、いろいろ考えさせられる。戦争は避けなければならない、アメリカと戦えば日本は負ける、と知っている賢人が多くいたのに、何故、ばかげた戦争に突入したのか、何故もっと早く停戦しなかったのか、あるいは出来なかったのか、いまだに不思議で仕方がない。

雨季閑居 ~ 読書 ~ 数字遊び

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雨に降りこめられた時は、読書か数字遊びに耽る。図書館からタイミング良く希望の本を取り寄せられない場合は数字遊びだ。最近の成果?を概略記録しておこう。
 
素数探索は、なかなか整理しづらいものだが、今回は対称型に絞った。対称型というと、先ずは左右対称を思い浮かべる。例えば、12321 とか、45611654 とか、表記した数の中央部で折り畳むとピッタリ重なるタイプだ。桁数が奇数、偶数で性質に違いのありそうなことが直感される。
 
問題を扱い易い簡素な形の数に絞り、以前から関心の有った“a00…0b0…0a ”の形の素数の現れ方を見ることにした。“ab”は“0”でない1桁の数字である。ただし、“a”は素数要件から、“1379”に限られる。当然ながら、“b”の両側の“0”の個数は等しくする。“700030007”の如くである。
 
この条件では36通りの“aba”があるが、そのうち、明らかに素数とはならない組合せがあり、それらを除くと、24通りに減るので、手頃な規模だ。と言っても、それぞれについて桁を累次増やして行く(当面は100桁程度)ので、作業はそれなりの量になる。
 
素数判定機サイトで、根気よく“aba”タイプ24通りのそれぞれについて100桁程度まで調べた結果、110個の素数が見付かった。問題はその現れ方(分布)であるが、全体として、大きな桁での素数頻度が下がるのは想定通りである。

その状況でも、何か特異な傾向が見られないかと言うと、無いことも無いが、何分にもデータが限定的であるので、その範囲での局所的現象に過ぎないかも知れない。その限定付きで次のようなことが挙げられる:
 
桁の増加と共に素数頻度が単純に減少するものでもなく、山あり谷ありで、桁により素数との相性が異なるのかも知れない。例えば:

          桁         11    13   15  21   35   57   95

     素数個数       4     7     2     3    6     3      4

 
末尾が“35”の桁に出現頻度が高い。
 

桁ごとの頻度のばらつきの大きいことの一面として、全く素数の現れない桁がある。特に、61桁から91桁 までの間に集中している。

 
個別的な現象だが、“949”タイプの対称数は100桁辺りまででは素数にならない。
 
この後は、“abc”タイプを調べてみよう。例えば、“700080001”のような数である。左右対称とは言えないが、累桁の“0”に関しては対称形である。
 
附録: 343=(3+4)3

素数出現桁 ~ 分類試案 ~ 6n法

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 aba”型及び“abc”型“0”累桁で対称形となる数について、素数出現桁の中間とりまとめ結果の一部を記録しておこう。
 
検算するべき桁数は奇数に限られる。桁数が1桁の場合、すなわち1,3,5,7、9各桁は奇数頻度が高く、特別な桁域なので、11桁以上の結果を取り敢えず見る。
 
検出個数121個の素数をどのような基準で分析するか、雲を掴むような気持ちだが、思い付きで、次の3タイプ分類を適用した(n=1,2,3,,,,,,)
 
[6n-1]   5,11,17,23,,,,,
[6n-3]   3,9,15,21,,,,,,    
[6n+1]   7,13,19,25,31,,,,,,
 
各タイプに属する素数の数を集計すると、総数121が次のように分属した:
 
[6n-1]   50
[6n-3]   31
[6n+1]   40
 
綺麗過ぎる配分比だが、何らかの意味付けをしようなどと考えてはいけない。部分的な小さいデータでしかないから、ここから、厖大な素数全体の傾向を読むわけにはいかない。暫くはデータの充実を図ることが肝要だ。

“0”累桁対称素数 ~ 素数桁 ~ 非素数桁

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昨日の当欄では、3~99の奇数桁に所定の対称形素数の現れる頻度を、桁数の6n法分類によって大雑把に記載した。この分類法に格別の意味がある訳ではなく、他に様々な見方があり得る。
 
例えば、素数遊びの一環であることに因み、桁数を素数と非素数(すなわち合成数)とに分けて頻度を比較するのも一興である。
 
少しデータを大きくしてまとめると次のようである:
 
    素数桁   非素数桁    総 数
 
    140        74          214
 
これまた綺麗な配分比率になっているが、やはり偶然であり、これが素数界全体の傾向であるとは到底考えられない。
 
このことは、桁数が1桁(つまり、3,5,7,9各桁)では73:20、2桁(つまり11~99の奇数桁)では67:54であることから直ちに感得される。桁域を拡大して集計すれば、全体の比率は50:50に収斂すると予想されるのだ。
 
となると、素数桁・合成数桁の区分は、この際、無意味に堕するので、物好きと言えど、これ以上の深入りは控えるのが利口だろう。また別の切り口で探検してみよう。

あっちの水は苦いぞ ~ 蛍来い ~ 小さな提灯さげて来い

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新聞記事で蛍の話題が続いた。当方の感覚では、蛍はまだ先の風物なのだが、ニュース性の点からは早い方が望ましいのだろう。
 
と思ったが、考えてみると、唱歌「夏は来ぬ」で“五月闇(さつきやみ)蛍飛び交い”と歌っている(5番)。文字通り五月のこととすれば、今頃では遅いくらいだ。尤も、この場合の“五月闇”は、いわゆる旧暦上の節気だろう。旧暦の五月は、今年の新暦では6月14日から7月12日までのようだから、“五月闇(さつきやみ)蛍飛び交い”は正に旬なのだ。
 
と言う訳で、老人の歌の集りでも童謡「ほたる来い」が歌われる。
 

ほ ほ ほたるこい
あっちのみずは にがいぞ
こっちのみずは あまいぞ

ほ ほ ほたるこい
 
これが一般に知られている歌詞で、起源不詳のわらべ歌らしい。
 
歌う会の講師先生が、歌詞には別ヴァージョンもあると紹介した:
 
    ほ ほ ほたるこい
    ちいさなちょうちん さげてこい
    ほしのかずほど とんでこい
    ほ ほ ほたるこい
 
わらべ歌にしては大人っぽい歌詞のような感じだが、同じメロディーで斉唱した。
 
後でネット検索したところ、この別ヴァージョンには別のメロディーが付いており、一説(『池田小百合なっとく童謡・唱歌』)には下總皖一の作曲である。他にも各種ヴァージョンのあることが判る。
 

二十四節気・七十二候(抄)
 
        節気   候      年月日      現代・七十二候     読み
芒種
初候
25
蟷螂生ず
かまきり しょうず
次候
26
腐れたる草蛍となる
くされたるくさ ほたるとなる
末候
27
梅のみ黄ばむ
うめのみ きばむ
 
                  (http://koyomi.vis.ne.jp/)からのコピペだが、不調。

ダ・ヴィンチの謎 ~ 哲学者 ~ 秘密の楽譜

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図書館で映画会があり、タイトルに釣られて観に行った:
 
24() 14:00~第81回キネマ千石「レオナルド・ダ・ヴィンチ その謎を視る」
 
ダ・ヴィンチの探求したものを、彼の12の絵画作品を中心に約1時間で紹介しようと作られた映画のようであった。解説によれば、彼の全活動において絵画の占める割合は比較的に小さく、工学その他科学技術面に注いだエネルギーと時間の方がずっと多かったそうだ。
 
それでも、やはり知名度の高い絵画作品を主とした方が素人解りするということだろう、彼の創始した?≪スフマト≫(一種のぼかし)や≪空気遠近≫法などの専門用語を散りばめつつ、当時の伝統的な絵画マナーへの挑戦的な試みを述べていた。
 
絵画など美術の職人というよりも、その作品を通じて人間世界の真理を明らかにする精神的指導者たらんとした姿が浮かび上がるという。それは必然的に伝統的な思想や慣習との軋轢を生む運命にあると思うが、文章表現を通じた活動ではなかったことが幸いして、教会との決定的衝突を免れたのか。
 
会場にはダ・ヴィンチ関連の図書館蔵書が陳列されていて、偶々当方の着席した近くにジョヴァンニ・マリア・パーラ(小野寺曉之/訳)ダ・ヴィンチ秘密の楽譜 「最後の晩餐」に隠された天上の音楽≫(イースト・プレス 2008.7)という面白そうな本があったので、借りて読むことにした。イメージ 1
 








ダ・ヴィンチの残した音楽をかなり前に取り上げた御縁もあり(http://blogs.yahoo.co.jp/yhakrymd/64245716.html 、 レオナルド・ダ・ヴィンチ展~記念音楽会~判じ物音)、どんなこじつけ解釈で絵画から楽譜が生まれるのか、興味津々だ。

ABC予想入門 ~ 入門以前 ~ 証明論文

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素数遊びの中で書名を見掛けたABC予想入門」(黒川信重・小山信也著 PHP研究所 2013.4)が気になり、図書館から取り寄せた。新書版210ページ余りで、読み易そうな印象だった。
 
しかし、入門とは言っても、テーマが≪ABC予想≫という数学上の超難問であれば、一筋縄で行く筈も無い。記述は簡明であるが、内容は説明抜きで高度に専門的な部分が多い。結局、本題のABC予想に入る前の準備段階にある素数関連の話題を多少楽しませて貰った。
 
≪第1章 数学の予想とは≫の中に、“対称素数”が例題として取り上げられていた。当欄6月17日付≪雨季閑居読書数字遊び≫で対称型と呼んだものの一種である。数の表記は、通常、十進法によっているが、3進法、7進法など自由に使った方が有用かつ面白いことなど、大いに参考になる。
 
素数が暗号システムの根幹に位置しており、現代社会を支えていることはよく知られているが、その原理を具体的に説明しているのも貴重だ。一般書では抽象的な解説が普通であり、イメージを掴みにくいのだが、本書では一応の理解を得ることが出来る。イメージ 1
 
逆に、数学者の流儀が直に現れて素人解りしない部分も少なくない。
 
例えば、≪1以外の自然数Pが素数であるとは、「P=A・BとするとAまたはBはP」をみたすことである≫との定義が提示されている。その通りなのだろうが、地の文で述べる≪自然数のうちで1より大きな2つの自然数の積に分解できないもの≫のほうが遥かに解り易い。
 
ところで、書名にある「ABC予想」だが、望月教授によるその証明論文が専門誌に掲載される見通しになった(超難問・ABC予想パラフレーズ算数レベルで理解)と報じられて半年以上過ぎた。まだ実現していない様なのは、論文に何か瑕疵が見付かったのだろうか。

ヴァイオリン 吉田 南 ~ 若手実力者 ~ 伸び盛り

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駅二つの近くにある音楽ホールで,若手実力者出演との触れ込みで、ヴァイオリン・リサイタルがありった。雑用の後、大急ぎで駆け付けた。ほぼ満席のところ、漸く見つけた席に割り込んだ時にはステージで調弦が始まっていた。
 
 06/28(木) 12:10  ヴァイオリン 吉田
           ピアノ    諸田由里子
           譜捲り    ?(吉田の桐朋先輩)
 
クライスラー ベートーヴェンの主題によるロンディーノ
       ウィーン奇想曲
シベリウス  ヴァイオリンとピアノのための六つの小品op.79 第1曲 想い出
マスネ    タイスの瞑想曲
 
ヴィエニャフスキ スケルツォ・タランテラ
         「ファウスト」による華麗なる幻想曲
 
アンコール  モンティ チャルダッシュ
 
若い人が一所懸命に弾く音楽を聴くのは、先入観の所為かも知れないが、心地よい。
 
ヴァイオリンの音が、開演直後には固く感じられてのが、段々柔らかく深みのある音に聞こえてくるのは、これも聴き手の心理的現象か。それとも、実際に楽器や奏者の調子が良くなるのか。
 
吉田は確かに触れ込み通り、実力派であると思われた。語りによれば、5歳の誕生日にヴァイオリンを習い始め、つい日前に二十歳になったそうだ。この業界では珍しく、お喋りは苦手だとの自己紹介もむべなるかなの訥弁だが、ゆっくりと必要事項を明瞭に伝えており、解り易く、好感度は高い。
 
と、高く評価しながら聴いていたのだが、超高音域で音程に違和感を覚えるところが有ったのも事実だ。当方の聴力劣化の所為かも知れない。
 
吉田南語録: 
 
中学生の頃、「ウィーン奇想曲」などは“ウィーン風”に弾くものだよと言われたが、解る筈も無かった。その後、ある人曰く、“ウィーン風”とは、コーヒーの上にクリームなどをたっぷり山盛りにした甘いイメージだとか。
 
ヴィエニャフスキは、自身ヴァイオリンの名手であったが、ばくち好きでもあった。大負けした時に愛用の楽器を差し出したこともあるそうだが、その真似はしたくない。
 
諸田由里子語録:
 
 吉田は今年1月からボストン住まいで、アパートは炊事禁止で困った。湯沸かし器と、こっそり炊飯器を持ち込んで食事をしている。おかずはサバ缶とか。この条件下で美味しく食べられるメニューをご存知の方、吉田までご教示下さい。
 
 吉田は伸び盛りである。半年前と比べても明らかに変化を見せている。

トリオ・アドリブ ~ 大中寅二・誕生日 ~ 滝廉太郎・命日

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暑くて体がだるい。だるいから外出しない。となると悪循環で、生ける屍と化する恐れがある。勇を鼓して、炎天下、某施設の月例“歌う会”に出掛けた。主任講師のソプラノ、ピアニスト、何でも屋のパーカッショニストの三人組という豪勢な講師陣だ。炎暑の所為で参加者がいつもより明らかに少ないのは勿体ないことだ。
 
ピアニストが編み出した短いテーマ(湾岸戦争時代の作だそうだ)を様々に変化させて弾き、パーカッショニストが打楽器やフルートで加わり、やがてソプラノがヴォカリーズで盛り上げる即興演奏を聴かせた。常例のソプラノソロは、今日は「初恋」だった。現役歌手としての張りのある声だ。
 
主任講師のお喋りが目立って短かく、予定した歌の数々が迅速に消化されていった。案の定、時間が余った。彼女、悪びれもせず、何を歌おうかと自問していると、会場から「高原列車~」の声が上がった。この会では定番曲だが、それでは面白くない。
 
またまた勇を鼓して、“きょうは大中寅二の誕生日だから、「椰子の実」を歌いませんか?”と提案した。これは大概の人が馴染みの歌とあって、すんなりと決まった。施設側にもお手製の歌詞ポスターがあり、直ぐに貼り出された。全篇歌い通して、めでたし、めでたし。
 
“大中の誕生日”であることについては、誰からもフォローは無かった。よって、滝廉太郎の命日でもあると紹介するチャンスも無かった。
 
大中寅二 1896(明治29)629- 1982(昭和57)419享年85 ほぼ86
          29629は素数         570419は素数 
滝廉太郎 1879(明治12)824- 1903(明治36)629享年23 ほぼ24
                             36629は素数         
 
一般の日本人の間では、滝の知名度が圧倒的に高い。大中は「椰子の実」で知られてはいるが、滝の「荒城の月」ほどではない。残した作品などの実績で見れば、大中が量的には圧倒的に優る。生きた年数を比較すると、1:3.6 だ。作曲家として活動した年数が判るとして、比を取るなら、その比は一桁上がるのではないか。

“素”因数分解 ~ 功罪 ~ 規則性隠蔽

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対称形素数の出現状況を一応調べ終わった積りでいたが、検算を始めたところ、母集団の取り方が不十分であることが判明した。取りこぼし数域を埋め尽くして、改めて全体をまとめ直さなければならない。その肝腎の時に、素数判定機のサイトが応答しなくなったため、暫く様子を見る羽目になった。
 
不十分なデータではあるが、個別に面白い経験を拾うことは出来る。
 
他愛ないと言えば他愛ないことだが、例えば、299 を原数として「0」累桁方式で素因数分解計算機に掛けると、次のような結果を得る:
 
299=13x23
20909=7x29x103
2009009=17x59x2003
200090009=7x83x241x1429
・・・・・・・・
 
ちょっとした問題意識を持っていると、この後の作業が大幅に省略できる。ヒントは、13231032003という特徴的な数列である。素因数分解した結果である右辺の数式に規則性があるのではないかと想定しても可笑しくはない。困るのは、その他の数字が一見無秩序に見えることだ。
 
このような数字の並び方は、“素”因数分解の結果を数字の小さい方から機械的に並べたことによるものであることを思い出せば、次の手順が浮かんでくる。この際“望ましい”数字の並び方があり得るのではないかと考えてみる。
 
第1段目と第2段目との右辺の“望ましい”規則性は、
 
299=13x23
20909=103x203
 
である。
 
そのためには、7x29203 となることだ。事実その通りであることは暗算で確かめられる。第3、4段目が“望み通り”次のように規則的に“因数”分解できることも直ぐに確かめられる:
 
2009009=1003x2003
200090009=10003x20003
 
実は、第5段目を“素”因数分解させると、
 
20000900009=100003×200003
 
と算出してくれるのだ。“素”因数分解では、「100…3」「200…3」の形の数が素数だったり、合成数だったりすることが単純な規則性を見えなくしている訳で、これに気付くと気付かないとでは大変な違いになる。

ハンゲショウ咲く ~ 年央(183)日 ~ 361目

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狭庭の片隅にハンゲショウが一株、雑草に取り囲まれながら、けなげに咲いている。いつぞや当会のHさんがご自宅の庭から掘り出して持って来てくださったのを植えておいたものだ。あまり世話をしなかった為か、いつの間にか姿を消したと思っていた。案外丈夫な草のようだ。
 
今日は(雑節)半夏生(はんげしょう)だそうで、暦のサイトによれば、≪梅雨の末期、天地に毒気が満ち、半夏(ハンゲ)という毒草が生ずると考えられた。なお、「ハンゲ」はサトイモ科カラスビシャクとされる≫そうだ。
 
ややこしいことで、庭に咲いているハンゲショウはドクダミの仲間とある。何故紛らわしい命名をしたのかと訝りはするが、白くなった葉(の表)でそれと知ったことに鑑みれば、「半化粧」説に一票。
 
今日はまた1年365日の中央日でもある。つまり、年始、年末どちらから数えても183日目に当たる。念のため計算して確かめた(30x6+3-2+2)。
 
183を素因数分解すると3x61、二つの素因数を連ねると、361、これは19の二乗19x19だ。確か、碁盤の目の数がこれだったと記憶する。何故、こんな半端な素数を選んだのか。中央点が定まるから奇数が重宝することは頷ける。
 
将棋盤はマス目を数えるが、縦横9x9で、これも中央マスが定まって具合が良いということか。ただし、素数ではない9を採用しているから、マス目を縦横共に3等分出来る。
 
碁盤では、縦横線の交点としての目は等分出来ないが、マス目は18x18だから、将棋盤4面分で、縦横共に何通りにも等分できる。ゲームには関係無さそうだが。
 
チェスの盤面は縦横とも8マスとなっており、偶数が採用されている。中央マスという観念は無かったのか。将棋と同じように9x9マスの盤面としても(所要のルールを定めることにより)ゲームは出来るだろうから、結局、偶数・奇数の別は大した意味を持たないということか。

日付け「73」型 ~「0」挿入累桁因数分解 ~ 周期性

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今日7月3日は和暦5桁表記「30703」で素数日だ。和暦は西暦より桁数が少ないので一般的に素数日が多くなる傾向にある。今月の場合、3暦まとめて記すれば次の通り:
 
西暦 20180707 20180731  2018729 2018713 

皇紀 267877   2678719  2678729 

和暦 300719 300721 30727 30713 30707 30703  3079
 
月日だけで見ると、「73」が素数になる。それだけでは、どうと言うことも無い。その先は数字遊びだ。
 
73」を「0」挿入の累桁方式で素数出現状況を見ると次の通り(( )内は桁数):
 
(2)73, (5)70003, (7)7000003  これより大きい桁の同型素数の所在は、今のところ不明。
 
素数調べの過程で因数分解に面白い規則性が浮かんだ。まとめて示せば次の通り:
 
(3) 703=19x37,

(4)7003=47x149,

(6)700003=37x18919,

(8)70000003=431x162413,

(9) 700000003=37x18918919,
(10)7000000003=73x379x503x503,
(11)70000000003=17x23x71x827x3049,
(12)700000000003=37x18918918919,
(13) 7000000000003=31x199x1134705787,

(14)70000000000003=8279539x8454577,

(15) 700000000000003=37x218843x86449733=37x18918918918919,
 
要するに、3桁ごとに「37xM」の形に分解されるのだ。「M」は「mm…19」(m=189)の構成の自然数である。Mは11桁以下では素数だが、14桁以上は合成数となるように見える。つまり、「700…3」型自然数の素因数分解では、15,18、、、桁で「37」は表示されても、「189189…19」の因数は表に出て来ないと思われる。
 
700…3」型の自然数の素因数分解で「37」が出てくるのなら、「300…7」型では?と試してみると:
 
素 数  (2)37, (3)307, (6)300007, (9)300000007
合成数
(4)3007=31x97,
(5)30007=37x811,
(7)3000007=17x109x1619,
(8)30000007=29x37x73x383=37x 810811
(10) 3000000007=439x6833713,
(11)30000000007=37x810810811
 
やはり3桁ごとに素因数「37」が現れた。「73」でないのが物足りないが。
 
他の自然数について同様の累桁、素因数分解をすると、やはり何らかの規則性が浮かび上がる。素数調べよりは単純だが、それなりに面白い。

七夕コンサート ~ 音大一年生女子4名 ~ 十九世紀ヨーロッパ風

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先月下旬から強風が吹き荒れているような気がするが、文字通り気の所為だろうか。たまたま台風の余波が及んだだけか。
 
今朝も雨交じりの中、某集会施設での七夕コンサートと銘打ったイヴェントに出掛けた。内容はともかく、午前中というところが肝腎だ。普段は午後の所用で外出するばかりで、午前中はだらだらすることが多く、緊張感に欠ける。偶には朝からきりっと引き締まってみたいと思った次第だ。
 
会場に着いた時にはご挨拶中で、演奏に入っていなかったのは幸いだった。出演は近所の音大の1年生女子四人組、ピアノ科2、ヴァイオリン科2の組合せであった。器楽科とは言え、音大生だから、歌も上手だ。二重唱や三重唱も聴かせてくれた。
 
1 星に願いを  ピアノ連弾 ジャズ編曲
2 見上げてごらん夜の星を 二重唱
3 海の見える街(魔女の宅急便 挿入歌)ピアノ連弾+2ヴァイオリン
4 キラキラ星 (全員斉唱) 
5 くるみ割り人形 6曲メドレー ピアノ連弾
6 花を君に 二重唱
7 なだそうそう 2ヴァイオリン
8 たなばたさま (全員斉唱)
アンコール The Whole New World(日本語だったかな?) 三重唱
 
かなりの準備の下、一所懸命の演奏で、好感が持てた。

一方、客席は、前方が茣蓙敷きの幼児席で、若い母親が付いているものの、演奏など我関せずの大騒ぎだ。喚声を上げ、走り回り、踊り出しで音楽鑑賞の雰囲気皆無だ。
イメージ 1









それが慣例だと見えて、施設側も放任姿勢であった。ヨーロッパの劇場音楽もかつてはこのような有様だったのだろうかと思いを馳せ、結構楽しかった。



イメージ 2イメージ 3































帰途、スーパーで鶏の胸肉ブロックを買い、その煮付けをおかずに、玄米を焚いて昼飯とした。


明るい雨 ~ 銀色の道 ~ 近江俊郎

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雨の閑中、ボーっとしていると、“明るい雨”という言葉が浮かんだ。歌の題のように感じられたので、検索すると、あった:
 

 明るい雨   作詞:西沢義久/作曲:万城目正/歌唱:近江俊郎 1951
    ()
    誰かににたひと 傘さして
    駅の時計を ながめてた
     ~ ~ ~

    赤い屋根青い屋根 新緑の並木
    あゝ 明るい雨 明るい雨

    ()
    吐息にけむる ガラス窓
    ランチタイムの ビルの窓
     ~ ~ ~
    赤い屋根青い屋根 水色の空よ
    あゝ 明るい雨 明るい雨

    ()
    いつかふたりで 来た丘を
    バスにゆられて こえてゆく
     ~ ~ ~

    赤い屋根青い屋根 銀色の道よ
    あゝ 明るい雨 明るい雨

 
何故この歌が記憶の片隅にあるのか、念の為、我がPC内にも検索を掛けたところ、ミュージック・ライブラリなるフォルダーにレコード音源が納まっていた。再生すると、確かに聞き覚えのあるメロディーであった。取り込み日時は僅か4年前と記録されている。全く覚えていないというのも恐ろしいことだ。
 
雨の湿っぽさと題の明るさとが微妙にミックスされた曲風である。転調する点を無視しても、短調とも長調とも判じ難い不思議な印象を受ける。そんな面白い歌だが、現代人好みではないこと請け合いだ。
 
歌詞2番に“ランチタイム”とある。当時(67年前)の新語か、流行語か、それとも夙に日常語と化していたものか。結構新鮮なカタカナ言葉と認識していた当方が如何に時代遅れであるかを思い知らされた気もする。
 
もう一つ気になる言葉“銀色の道”が3番にある。この題の歌はよく知っている。近年人前で合唱したこともある。ウィキペディアによれば、≪1966年に発表された日本の楽曲である。ザ・ピーナッツとダークダックスとの競作となった≫とのこと。
 
この歌の中の“銀色の道”は当方には難解である。唐突感もある。
 
対して、「明るい雨」の中の“銀色の道”は位置づけが明瞭である。色彩語の列に納まり、調和している。

レコードに吹き込んだ近江俊郎(おうみとしろう)の生没データが(1918 77 - 1992 75日)というのも不思議なタイミングだ。

 
一目瞭然だが、今年が生誕百年で、今日が彼の誕生日と命日との中日とは。

当時のますらお ~ 往時のますらお ~ 近時のますらお

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某施設の“歌う会”で「箱根八里」の12番を通して歌った時のこと。見なくても歌える筈の歌詞ポスターを見ていて、最終行でつまづいた。“かくこそあるなれ 当時のますらお”と書かれていたからだ。
 
当方も近時は往時ほどの記憶の冴えは無いことを自覚しているので、直ぐには正統の歌詞を口に出来ず、暫く落ち着かなかった。
 
しかし、“当時の”は、その口語的響きからして、あり得ないと思った。正解は“往時の”だと一旦は確信した。が、ややあって、歌詞1番と2番との旧新対応関係に気付き、一応“当時の”で正しいと結論した。
 
だが、依然としてすっきりしない。帰宅後、権威ある歌集を参照し、“近時の”とあるのを見て、愕然とした。どうしてこれを思い出せなかったのかと。永年“近時の ますらお”と歌って来たのに。
 
結局、≪当時の往時の当時の近時の≫と回り道をしてやっと正解に辿り着いた次第。老衰が想像以上に進行している。
 
今回の回り道の副産物として、歌詞最終行“かくこそあるなれ 当時のますらお”がかなり乱れて歌われているらしいことが判った。
 
そもそも、正統的には“かくこそありけれ 近時のますらお”の筈であるが、“近時”が“当時”や“往時”に変わったり、“ありけれ”が“あるなれ”に変わったりしたヴァージョンが通用しているらしい。
 
「箱根八里」と双子のように世に出た「荒城の月」の歌詞には乱れはないのと比べて、大した違いだ。歌詞が長大で、漢語表現満載ということが影響しているのかもしれない。歌曲としての格調の違いから、歌われる機会が比較的に少ないこともあるだろうか。

新盆 ~ お盆が来るから ~ 旧盆

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特養ホーム・コンサートのプログラムに組み込む季節の歌の選定に毎月思案する。沢山あるようで、いざ今月はどれにしようかと構えると、意外に難航するものだ。その挙句、既往のプログラムを概ね踏襲することになる。
 
良心が咎めて、せめて何割かは入れ替えねばと苦労する。そして今月は、権藤はな子/弘田龍太郎「お盆が来るから」お盆が来るから~権藤はな子~弘田龍太郎 2015/6/30()を取り上げてみようかと思う。
 
今月の盆には間に合わないが、来月の所謂“旧盆”の露払いにはなる。
 


 

   一  機織虫(はたおりむし)の 母さんは


     とんから とんから お機(はた)をり


  お盆が 来るから 忙(せわ)しかろ


          子供が 大勢(おおぜ)で 忙(せわ)しかろ


   二  機織虫の 母さんよ 


   その機(はた) どの子の 着物(べべ)にする


   お盆が 来るから ののさまに 


      子供の きものは それからよ




 
 
各節前半は原調通りニ短調とし、後半は転調してニ長調としよう。転調に際して音を取り易く、自然に歌える。弘田龍太郎先生に対して失礼に当たることで申し訳ないが、当節、じめじめした感じの歌は歓迎されないのだ。御寛恕を願うばかりである。
 
ところで、我が故郷では、盆と言えば8月の行事であった。今でも親族が集うとすれば8月である。この8月の盆を旧盆(きゅうぼん)と称して、7月の盆と区別すると思うのだが、そうだとすると、後者は新盆(しんぼん)ということになる、と永年思い込んでいた。
 
一方、新盆をにいぼんと発音することを知らなかったわけではない。その意味も薄々とは知っていた。
 
旧盆、新盆(しんぼん)、新盆(にいぼん)の使い分けが急に気になってウェブ辞書を参照したところ、
 
旧盆             陰暦で行う盂蘭盆(うらぼん)
 
新盆(にい‐ぼん) その人が死んで最初の盆。初盆(はつぼん)。あらぼん。しんぼん。
 
ということで、“新暦による盆”の意味は無かった。
 
旧盆と新盆(しんぼん)は対語ではなかったのか。
 
思い返せば、“旧の盆”、“新(しん)の盆”と言い分けていたような気もする。数十年も前の日常会話となると、記憶も頼り無い。
 
つい数年前の行動を“覚えていない”、“記憶に無い”と白を切るエラい人たちもいることだし、気にしなくてもいいか。

ミニ発表会 ~ この道 ~ 大地讃頌

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某所で、ミニ・合唱発表会に参加した。施設の玄関ホール平場で、音量の小さいキーボードの伴奏を頼りに3曲演奏した(約10分。観客せいぜい20名):
 
   O sole mio   斉唱
 
   この道     斉唱
 
   大地讃頌    混声四部
 
総勢40名ほどで、初めの2曲を斉唱するのは奇異な観があるが、考えてみると、これまで「この道」を人前で歌った事は無かった。ソリストの気分で歌ったのは、記念すべき価値ある経験だった。
 
完全暗譜で臨んだのは小生の外に一人いたかいなかったかと言う程度だ。一番難しいのは、「この道」だった。歌詞は短いものの、1~4節の流れに物語性が無いので、記憶する手掛かりに乏しいからだ。
 
“アカシヤ、時計台、お母さま、さんざし”の順番を頭に刻みつけるのだが、“この道、あの丘、あの雲”が無秩序に出現するのも厄介だ。プロ歌手の皆さんは何か記憶のコツを身に付けていらっしゃるのだろうか。
 

「大地讃頌」は、後半、半音階が多用される辺りの音取りが難しい。区切り目での歌い出しで迷うことになり、人の声を聴いてから入ろうとする人がいるので、ところどころ合唱の勢いが弱まる傾向がある。その点、総勢40名ほどというのは心強い。大きく破綻せずに完唱できる。


ところで、今日79日は、あの伝説の指揮者、朝比奈隆の誕生日(1908年)だ。そして、文豪・森鷗外の命日(1922)である。改めて両者の生没データを並べると次の通り:


 森鷗外(1862217日(文久2119日) - 1922年(大正11年)79日)


 朝比奈隆(1908年(明治41年)79 - 2001年(平成13年)1229日)



生没日付けの末尾がいずれも“9”であるのが神秘的だ。西暦で統一されないのは画龍点睛を欠くが。


ここに加えたい著名人がもう一人いる:


    夏目漱石  186729- 1916129


三人のデータの中で、漱石の忌日“19161209”だけが素数だ。


朝比奈は長命で、今世紀初年(2001)まで生きた(享年93)。その命日1229日は、著名音楽家の忌日特異日として旧臘(2017/12/29())報告した。再掲すると、


岡野貞一 1878216- 19411229


三木露風  1889623- 19641229


山田耕筰  18866  9 - 19651229


朝比奈隆  19087  9 - 20011229


 

これら8個の生没年月日のうち、山田耕作の“18860609”が素数である。月日だけの4桁以下の数に限ってみると、朝比奈の誕生日“79”と共通忌日“1229”が素数だ。案外少ないものだ。


古書業界 ~ 大ニュース ~ もと古本マニア

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かつて、長年、古本屋さんのカモだった。読み切れないガラクタ本や資料の山が地下室やトランクルームで埃を被っている。トランクルームに持ち込んだのは四半世紀前か、もっと前か、記憶に無い。その後出し入れしたことが一度あるかどうかという死蔵ぶりだ。
 
倉庫業者からは四半期ごとに保管料の請求書が来る。これからも来る。保管料総額は、一体如何ほどに上るだろうかと怯える愚かさに絶望感が募る。さっさと処分すれば済むことだが、決断できないところに、もと古本マニアの片鱗が認められる。
 
今でも古書目録が頻繁に到来するほか、いつの頃からか「日本の古本屋メールマガジン」も着信している。そのメールマガジンの最新、第254号に≪快挙 松本清張の新資料発見!!  「風と稲」≫が載っている:
 
“北九州古書組合組合加盟店が、松本清張の新資料を発見し、各種新聞(西日本新聞・読売・共同通信)に取り上げられました。松本清張の12歳当時の「詩」が地元小倉の同人誌に掲載されていたのが見つかったのです。今まで、清張氏は文学青年では無かった、と自伝や対談で述べておられたのですが、これが覆される事になる貴重な資料と考えます。”
 
そこで、情報発信元≪北九州古書組合ホームページ http://seesaawiki.jp/kosyokitakyu/≫を覗いてみた:
 

 快挙 松本清張の新資料発見!!  「風と稲」

 北九州古書組合員、八幡の今井書店さんが、同人雑誌に当時12歳の松本清張の「詩」が掲載されているを発見した。大正11年に小倉市で発行された詩誌「とりいれ」である。詩そのものは、画像を拡大してご覧頂きたい。
 従来、清張の最初の文芸作品は1943年に詠まれた俳句、という事であったから、少年時代の文芸指向が垣間見られるこの詩は一大発見である。
このビッグニュースは西日本新聞にも取り上げられた。(大きめの画像でUPしたので、記事の詳細はこちらも画像をクリックし参照されたし)
 同記念館の学芸員は、「本当に清張の作品か検討していきたい」としているが、もし別人なら、同姓同名の人間がいた、という事しかあり得ず、十中八九、本人作と考えるのが順当だろう。マスコミにも取り上げられた事で、これから多くの証言や、当時の経緯などが寄せられ、徐々に明らかにされていくのを、我々組合員も大いに期待している。 (文責=草木)

 
松本清張氏の子供時代の新資料発見が如何なる価値を有するのか、当方には判らない。勿論、氏のファンにとっては大ニュースに違いない。その延長上に、古書業界や資料博物館業界の興奮も想像される。
 
昔、氏の小説を集中的に読んだことがある。確かに読者を引きこむ魅力があった。駄作だと思った作品もあった。いずれにしろ、実力のある作家として巨大な存在であったことは間違いない。小説家の枠に納まりきれない人でもあっただろう。
 

その著名人の名前を当方は個人的には“まつもときよはる”と呼び習わしてきた。世間では“まつもとせいちょう”と呼ぶことは勿論承知していた。何故へそ曲がりな呼び方をしたのか今では思い出せないが、多分、何でも音読みしたがる世間の傾向に逆らったのではないかと想像される。

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新資料発見を報じる地元新聞の記事を読むと、“著書「半生の記」などによると、清張は本名で「きよはる」と読んだ”とあるではないか。何の事は無い、「きよはる」は公知のオーソドックスな発音だったのだ。世間の行き方に抗して粋がっていたとすれば、とんだお笑い草だ。
 
という訳で、当方にとっても大ニュースだった。
 
蛇足だが、念の為ウィキペディアを参照すると、真っ先に「呼称」として記述があった:
 
せいちょう”はペンネームで、本名は、“きよはる”と読む。~~~
編集者は、1950年代中盤まで清張を「きよはる」と読んでいた[6]
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