Quantcast
Channel: 愛唱会きらくジャーナル
Viewing all 1579 articles
Browse latest View live

「6400…1」型自然数 ~ 素因数分解 ~ 周期性

$
0
0

素数捜しの中である種の周期性ないしパタンを見掛けることについては今までにも記したところだ(例えば ある素数探索法桁累加法周期想定2018/4/26(木) など) 。  

 
厳密な周期性ではないので、擬周期性とでも呼ぶのがよいだろうか。
 
素数の出現桁数のパタンとは別の事象になるが、自然数の因数分解において、次のような周期性を見付けた:
 
(素数である「641」の「64」と「1」の間に「0」を累次挿入して因数分解した結果)
 
桁数      素因数分解
(4) 6401=37×173

(5) 64001=7×41×223

(6) 640001=29×29×761

(7) 6400001=37×172973

(8) 64000001=13×401×12277

(9) 640000001=23×179×155453

(10) 6400000001=37×41×53×79601
(11) 64000000001=7×7×4001×326449
(12) 640000000001=613×1044045677
(13) 6400000000001=37×15289×11313557
(14) 64000000000001=13×17×97×181×373×44221
(15) 640000000000001=41×39503×395153687
(16) 640000000000000137×733×235979499281

(17) 64000000000000001=7×19×139×57143×60582961

 
37」が3桁ごと、「41」が5桁ごとに現れる。他にも「7」などが周期的に現れるようだ。
 
これらは素数分布の場合と異なり、周期性は代数学で説明できる性質のものであると思うが、取り組む気力は無い。
 
出発の数を合成数である「561」とすると、「5600…1」型でも「500…61」型でも、2桁ごとに素因数として「11」が現れる(「3」は総ての桁数で因数となる)。これは、「11」の倍数の特質から納得される。

昇降対称数 ~ 素因数分解 ~ 素数二乗積

$
0
0
かなり前のこと、素数判定の対象として、特徴のある型の数を選んで遊んでいた。最も単純な例は、
123456789≫とか≪987654321≫とか≪123454321≫などだ。殆ど素数が現れず、直ぐに飽きた。
 
ところが、最近読んだ参考書に、これらの数は素因数分解すると面白い法則に従っていることが判ると書かれていた。その頃は素数か否かだけに目が向いていたのだ。
 
早速、計算サイトの力を借りて次の結果を得た:
 
 
121=11x11                                      1221=3x11x37
12321=3x3x37x37                                123321=3x11x37x101    
1234321=11x11x101x101                          12344321=11x41x101x271
123454321=41x41x271x271                        1234554321=3x7x11x13x37x41x271
12345654321=3x3x7x7x11x11x13x13x37x37          123456654321=3x7x11x13x37x239x4649
1234567654321=239x239x4649x4649                12345677654321=11x73x101x137x239x4649

123456787654321=11x11x73x73x101x101x137x137  1234567887654321=3x3x11x37x73x101x137    

                                      x333667
12345678987654321=3x3x3x3x37x37x333667x333667 
                  123456789987654321=3x3x11x37x41x271x9091x333667
1234567890987654321=3x3x7x19x928163x111121111 
                  12345678900987654321=3x3x11x2153x57920960187043
 
左側は、参考書に記されていた≪素数の二乗の積に分解されるタイプ≫で、右側は応用編として調べたものだ。左側の方がすっきりしていて、見た目にも美しい。右側は規則性が徹底していないが、傾向を整理して楽しむ価値は十分ありそうだ。左右の関係も見過ごせない。
 
これらは素数分布と違って、代数計算能力さえ有れば、当然の現象として理解できるはずだが、これまた根気も気力も無い嘆き節だ。

屋根より高い「こいのぼり」~ 歌詞2番 ~ 歌詞3番

$
0
0
年寄り相手の≪歌う会≫にでも参加しないと一日中無言で過ごす恐れがある。取り上げられる歌は他愛の無い童謡、唱歌、歌謡曲ばかりだが、時々は刺激的な情報に接することもある。
 
例えば、童謡「こいのぼり」(屋根より高い)は通常1番だけしか歌われず、そもそも2番以下は存在しないのだと言われているが、実は3番まであるという話。
 
これについては、二十年近くも前に、某講習会で講師先生に楯突き、“2番もある”と主張した苦い思い出がある。何故苦いかと言うと、その発言の後、念の為2番を捜したのだが、どうしても見つけられず、恥かしく、申し訳ない気持ちを引き摺っていたのだ。
 

今日、突然、「こいのぼり」(作詞近藤宮子)の歌詞が3番まで記載された資料を与えられた。出典は不明である。こんな時は、頼りになるサイト≪池田小百合 なっとく童謡・唱歌≫を参照するのが捷径だ。

 
期待に違わず、次のように記されている:
 

≪ 昭和44年発行の『新訂標準おんがく1(教育出版)には、えほん唱歌〔小林純一 歌詞補作〕で、次のような二番が掲載されています。

     二、ごがつの かぜに こいのぼり
       めだまを ちかちか ひからせて
       おびれを くるくる おどらせて
       あかるい そらを およいでる    ≫

 
今日入手した資料の中では、これは3番とされており(ただし、「ちかちか」の箇所は「ピカピカ」)、2番は次のようである:
 
       みどりのかぜに さそわれて
       ひらひらはためく ふきながし
       くるくるまわる かざぐるま
       おもしろそうに およいでる
 
推測するに、これも後世の好事家による補作だろうが、今のところ具体的なことは判らない。

二班異曲交唱 ~ 脳トレ ~ 絶対音階訓練

$
0
0
年寄り相手の≪歌う会≫での、もう一つの刺激的経験は、二つのグループに分かれて、異なる二つの歌を交互に一区切りずつ歌うというお遊びである。
 
具体的には、歌A、歌Bの構成が、それぞれ≪A1・A2・A3・A4≫、≪B1・B2・B3・B4≫であるとすると、≪A1・B1・A2・B2・A3・B3・A4・B4≫のように歌う。実際には「はとぽっぽ」と「金太郎」を歌った。
 
他愛の無い童謡を材料にしての遊びであっても、区切り・区切りの間に他グループの歌を一区切りずつ聴き、スムーズに繋げて歌うのは、直ぐに出来るものではない。ピアニストも必死の様子であった。
 
歌の芸術面で有意義な遊びとは言えないが、講師の弁では“脳トレ”である。
 

強いて積極的に評価をするならば、音感トレーニングの効果があるのかも知れない。歌唱を中断し、別の歌を聴き、正しい音程で歌唱を再開するには、絶対音階?を記憶していなければならない。


トレーニングでどうにかなるものだろうか。効果があったとして、役に立つ(実益がある)ものだろうか。

いずれにしろ、面白い遊びではあった。

童謡「おかあさん」~ 外来曲「オーマイパパ」~ 宝塚ソング「すみれの花咲く頃」

$
0
0
年寄り相手の≪歌う会≫で、当方の(全く、あるいは、あまり良く)知らない歌が取り上げられることが珍しくない。
 
例えば、童謡で「おかあさん」:西條八十/中山晋平: 両大家によるこの歌を聞いた記憶が無い。会場の殆どの人は歌っていらっしゃったようだ。かつて奉られた“童謡の○○”の看板も下ろさなければならないか。
 
外来曲で「オーマイパパ」: 題名は聞き知っているが、歌そのものは知らなかった。歌詞(訳詞)を見ると、悲しくなるような、不思議な歌だ。
 
古い宝塚ソングで「すみれの花咲く頃」: これは有名な歌だが、終わりの部分のメロディーぐらいしか再生できない。特に、前半部分は初めて聞いたような気がする。少女歌劇には縁が無かったから、知らなくて当然か。
 
外にも、以前同様の趣旨で話題にした「糸」、「雨夜花」、「コスモス」、「故郷」(嵐)などもある。これらは当方の時代遅れを物語るものだ。新時代の歌を覚える場が無いから、今後はこのカテゴリーに入る歌が増える一方だ。

良書?~ 素数の不思議 ~悪書?

$
0
0
図書館の目録で、好田順治「素数の不思議(現代数学社 1999.3)が面白そうに思われ、借りて読み始めた。記述が簡潔で、様々な話題が手っ取り早くお浚いできるのは便利だ。
 
しかし、気を付けて読むと、正確性に疑問が生じて来た。例えば、≪素数の英語は、prime というが、これを逆から書いて、emirip(エミリプ)という数がある。これは例えば 13 のように、それを逆から書いた 31 もまた素数になるような数である≫という箇所(p.2)
 
知識が無くとも、この記述そのものに錯誤のあることは見て取れる。“prime”を逆に綴れば“emirp”であり、“エマープ”と読む。“emirip(エミリプ)”はミスプリで済まされる誤りではなさそうだ。
 
≪、、、は対的に互いに素である≫(p.15)はどうか。“対的に”は一般に認められた日本語なのか。
 
また、≪1/1+1/4+1/9+1/16+という平方数の逆数の和を無限に加えると、n2/6 に限りなく近づいて収束する≫とある(p.17)が、この記述を導く段落に“n”なる記号は現れない。“n”が“π”のミスプリであることは調べれば直ぐに判ることだが、その“π”とて、自明の記号として済ませるわけにもいくまいと思われるが。
 
他にも、読解困難な箇所があったりすると、本書全体の信憑性、正確性が揺らぐことになる。
 
尤も、記述が数学的に正しいか否か、読み手の自己責任に於いて確認しつつ読み進める分には、これも好個の学習参考書であると言える。
 
本を購入して公衆の読書に供する図書館の責任は、その本の内容にまで及ぶのだろうが、何か善後処置の執られることはあるのだろうか。

月例コンサート ~ また無伴奏 ~ また改革試案

$
0
0
月例特養ホーム訪問コンサート、今月は伴奏者が現れず、特製CDに合せて歌う侘びしい演奏会に逆戻りとなった。当グループに伴奏者が定着しないのは何故か、思い当たる節は一つだけではなく、我ながら忸怩たる思いがある。
 
もうやめたい気持ちと、続けたい気持ちとが拮抗している。悩んでみても、結局は、≪やめるのは簡単だが、一旦やめてしまうと再開するのは難しい≫という理屈が支配する。
 
                      作詞:松永みやお、作曲:平岡均之
    作詞:吉田テフ子、作曲:佐々木すぐる

初  恋             原詩 石川啄木「一握の砂」から、作曲 越谷達之助

         斎藤信夫作詞、海沼実作曲
(春への憧れ)    宮澤章二訳詞・モーツァルト作曲
    芙龍明子訳詞・クルティス作曲
   阪田寛夫訳/ハマスタイン・ロヂャース作曲

()  ( ら ) の 木         森鷗外・下総皖一

        江間章子作詞・中田喜直作曲
花     松坂直美 作詞・橋本國彦 作曲
         作詞:佐佐木信綱、作曲:小山作之助
 
プログラムは過去の実績を大いに活用することと割り切ったから、あまり変わり映えせず、入れ替えたのは三分の一くらいだ。現在三年目に入っている訪問コンサートで、今後は選曲にますます苦労することが懸念される。
 
対応策としては、季節に拘らず、ご老人方お気に入りの、それこそ愛唱歌を積極的に取り込むのも一法だろう。来六月分は起案済みなので、七月分から試行するとしよう。
 
演奏形態も考え直す価値がありそうだ。現在は全曲を出演者全員で歌っており単調の嫌いがあるが、ソロや二重唱を採り入れて変化を付けると喜ばれるのではないだろうか。各出演者の負担の軽減にもなるのではないか。
 
尤も、各人の歌唱力に期待する訳だから、別の意味での負担感は増大するかもしれない。負担感変じて意気込みとなるか、やってみる価値はありそうだ。

“Summer is a coming in” ~「夏は来ぬ」ご本家 ~ “Sumer is icumen in” 

$
0
0
整理する能力に問題があり、楽譜が溜る一方で山積みになっており、手が付けられない。所有していることがはっきりしている楽譜でも、図書館の楽譜集からコピーして来る方が簡単なことが多い。
 
市販の楽譜集に収められていない、あるいは、楽譜集自体が稀覯本である場合には、面倒でも紙の山を掻き分けて目的の楽譜を捜しだそうとする。
 
極めて能率の悪い探索作業の合間に、自分でも忘れてしまっている資料が目に付いて脱線することがあるから、ますます仕事が捗らない。
 

脱線作業ではあるが、たまには“新発見”の僥倖に恵まれることもある。今日は、門馬直衛 編「世界音楽全集 12 世界民謡曲集」(春秋社 S5.6.10)の中に、“Summer is a coming in 夏は来って”を見付けた。予想通り、“Sumeris icumen in”(Sumer Is Icumen In~夏は来ぬ~百編意自ずから 2013/6/24())と同じ曲であった。

 

タイトルが現代英語に変わっているが、“acoming in”と古風を装っている。

 

Summeris a coming in           

 
Summer is a coming in, Loudly sing, Cuckoo!
Meadows green around are seen, Bespangled oer with dew!

Sing Cuckoo! Young Alain, The shepheadswain,

Is gathering violets blue.

He will carry wreaths to Mary, Glad asthou, Cuckoo!

Cuckoo, Cuckoo, We wlcome thee, Cuckoo,
That wakst the world anew.
 
夏は来りて
 
夏は来りて 鳥歌ふ  牧場緑に 露に映ゆる
うれし! すみれ摘めよや 乙女のため
贈れ 花の環() 乙女は待つ!
カッコウ、カッコウ、うれしや、カッコウ、
躍るよ 胸。
 
 
上記原詩中“shephead”は“shepherd”の誤りと見るのが妥当だろう。“Alain”は若い牧童で、“Mary”の恋人という設定だろう。訳詞には反映されていない。
 
曲譜はニ長調、6/8拍子、Andantino 、後奏4小節を含み全28小節となっている。
 
解説には、13世紀の作とされるイングランド民俗歌曲で、本来6声部のカノンであるが、独唱用に編曲したとある。
 
高校音楽の教科書にも“Sumer is icumen in”が掲載されているのに驚いたばかりで、今年は御縁がある。一度歌わなければ義理を欠くような気分だが、急がないと“六日の菖蒲、十日の菊”だ。

ブリッヂ入門講座 ~ ブランク三十年 ~ ミニブリッヂ

$
0
0
地元の区施設がコントラクト・ブリッヂの入門講座を5週連続で開催するとの募集案内が区報に載っていたので応募した。このゲームは若い頃には熱中したこともあったが、職場が変わったりしてプレーの機会が減り、三十年近く遠ざかっている。
 
講習初日、会場は5卓20人の受講者が揃い、講師は初老?の女性二人であった。話を聞くと、講習内容は期待とズレのあることが判った。我がブランクの間に、ブリッヂの入門事情に大きな変革があったのだ。
 
コントラクト・ブリッヂ自体は不変だが、児童ないし初心者用に簡易版が考案されており、今回の講座は、その簡易版、つまり“ミニブリッヂ”と称するゲームを教えるというのだ。ゲームの前段に当たるオークション(我々はビッドと呼んでいた)を省略し、初めから各人(4名)が配点を宣明し、点数の多いペアがトランプ(切り札)の選択をするのだという。
 
その後のカードの出し方、勝負の付け方はコントラクト・ブリッヂと同じらしい。
 
オークションでコントラクトを成約し、成就する過程の緊張感がゲームの魅力でもあるので、それが欠けるミニブリッヂでは意欲が湧かないなあと些か拍子抜けしていたところ、同じような経験者が他にもいるので、次回からは1卓をコントラクト・ブリッヂに充てようと言うことになった。
 
ひとまず安堵して、1回プレーした。経験者面してみたものの、勝負勘はほぼ消滅していることを思い知った。ゲームのルールは大体覚えているものの、プレーの技術は初心者に毛の生えた程度に落ちていることを覚った。次回は恥を掻きそうだな。
 
会場で配付されたパンフ(日本コントラクトブリッジ連盟)によれば、ミニブリッジはオランダで1990年代に考案されたそうだ。
イメージ 1

就職いろは歌 ~ 情報劣化 ~ 多留歌はろい職就

$
0
0
吹聴はしないが、内心、アマチュア歌手のつもりでいると、見るもの、聞くもの“歌”と付くとツイツイ気を取られる。もう十日ほど前のこと、日経新聞朝刊の一面(だったかな?)コラム≪春秋≫に「就職いろは歌」なる“歌”の存在が記されていた:
 

 イメージ 12018/5/17

 
恐慌に見舞われた昭和の初めは極度の就職難の時期だった。学生はいかにして難関を突破するかを必死に考え、就職戦術論が急速に発達したといわれる。そのころつくられた「就職いろは歌」は、戦術集ともいうべきものだ。尾崎盛光著「日本就職史」が紹介している。
 
▼「一応は断られると知るべし」「論より具体案」「はしっこく、こんきよく」に始まり、めだつのはやはり面接対策だ。「待ってる間も試験」「眼(め)は常に相手の眼へ」などが並ぶ。「ほめるのも善し悪(あ)し」は、お世辞は控えめにという戒め。「抜目(ぬけめ)も愛嬌(あいきょう)」と、欠点も武器に転じると励ます。多くはいまも、うなずけよう。
 
▼が、現在の就職戦線を作者が見たら、驚くのではないか。一部の企業は人工知能(AI)による面接を始めている。スマートフォンなどを通じてAIが学生に質問し、回答内容と音声や表情のデータをもとに、適性やバイタリティーを判定する。面接官との良好な関係づくりに心を砕く、いろは歌の戦術にとっては強敵だ~≫(https://www.nikkei.com/.../DGKKZO30610880X10C18A5MM800...
 
早速ネット検索して、情報源を確認したところ、次のことが判った:
 
≪新卒採用130年の歴史_年表≫  (https://www.works-i.com/pdf/r_000189.pdf)

1931年不況のため大卒者の3人に1人が就職できず 映画『大学は出たけれど』(1929年)

1934就職いろは歌」が『実業之日本』(昭和92月号)で紹介
 
当方、一応“歌手”だから、“歌”なら歌詞と共に曲譜も存在するものと信じて疑わず、それらを入手するべく、紹介されているという雑誌の閲覧を計画する。蔵書検索して、手の届きそうな大学図書館に出向いた。
 
幸いに現物がしっかり保管されていたが、複写の手続きが大ごとだった。個人でコピーすることは不可で、職員が作業し、料金も1枚40円と割高であった。
 
さて、肝腎の就職いろは歌」だが、これはとんだ情報の劣化であった。正確には「就職いろは歌留多」であり、このタイトルが右ページから左ページにかけて「多留歌はろい職就」と大書され、「多留」が左ページに分れているのを、そそっかしく右ページだけで完結と早とちりしたものだ。
 
「いろは歌」と聞けば47字あるいは48字の韻文を日本古謡のメロディーに載せて歌うことを反射的に思い浮かべるが、「いろは歌留多」では歌曲ないし音楽の連想は無い。
 
情報の劣化がどの段階で発生したのかまでは確認できないが、日経さんも出典を確かめるべきではなかったかな。
 
言うまでも無く、「就職いろは歌」が幻であることは雑誌現物を閲覧して直ぐに判明したのであるから、複写サービスを利用する必要は無かったのだが、これも何かの御縁と割り切ったのであった。

素数日 ~ (素)因数分解 ~ 想像的発見

$
0
0
27日は皇紀8桁表示の「26780527」が、明29日は和暦5桁表示の「30529」が、それぞれ素数である。本28日は西暦8桁表示を素因数分解すると「201805282×2×2×2×41×30763」となる。特段どうと言うことも無いが、527日の「527」の因数分解から、個人的には面白いことを見付けた。
 
527」に始まり、「5027」、「50027」、「500…27」と一桁ずつ上げながら素因数分解すると、偶数桁で必ず素因数「11」が現れる。これは以前にも触れたように、「11」の倍数である数の特性に拠る。偶数桁の「500…27」を素因数分解の結果は次のようになる:
 
5027=11×457
500027=11×131×347
50000027=7×11×127×5113
5000000027=11×454545457
500000000027=11×45454545457
50000000000027=7×11×649350649351
 
初めの内はボンヤリ眺めていたのだが、そのうち、「457」、「454545457」、、、、が気になりだした。このタイプの数が素数になるのかなと思った(そんなことはあり得ないのだが)。試しに計算機に掛けたところ、合成数になることの方が多いと直ぐに判った。
 
翻って、偶数桁の「500…27」が4545….7」のタイプの素因数を含まないケースを見ると、「11」以外の素因数が複数含まれていることに気付いた。それらを一つの積にまとめたら、との想像力が働く程度には当方の脳の柔軟性は残っていた。
 
500…27」の数の因数分解を、“素因数”ではなく、“11 x ○○○○”の形に統一したのが以下の表:
5027=11×457
500027=11×45457
50000027=11×4545457
5000000027=11×454545457
500000000027=11×45454545457
50000000000027=11×4545454545457
 
めでたく総ての偶数桁「500…27」が11 x 4545….7」の形に因数分解された。これは手間を惜しまなければ算術的に説明できることだが、興味のある方にお任せしよう。何でも「素」に分解すればいいというものでもないことを悟った(?)次第。
 
なお、今月末日の西暦7桁表示「2018531」が素数である。

ブリッヂ入門講座~前代未聞!~敵スーツ・オーバーコール

$
0
0
先週から始まったブリッヂ入門講座の第2日目。今回から経験者4名でコントラクト・ブリッヂをプレーする1卓が設けられ、30~40年前に地方ルールで遊んでいた当方はそちらに参加した。純粋な初心者は簡易ルールのミニ・ブリッジで練習だ。
 
経験者と言っても、現役バリバリの人はいない。ルールにも詳しくない。ビッドもプレーも覚束ない。それでも何となくゲームは進行するから不思議なものだ。実戦初回とあって、皆さん慎重だった所為か、抑え目のビッドで、ゲーム達成のコントラクトは無かったが、結果的にはゲームを取れた筈のケースもあった。
 

ビックリしたのは、一方の側の“2ツー・ダイヤ”ビッド(入札ないしは宣言)に対し、相手側(の一人)が“3スリー・ダイヤ”とオーバーコールしたことだ。我がブリッヂ常識ではあり得ないビッドだ。理論的にはあり得るとは思うが、普通はこのようなオーバーコールはせず、“ダブル”で挑戦するのではないか。

 

結局、後続のビッドで“3スリー・ダイヤ”オーバーコールは解消されたので、そのコントラクトは不成立で、奇妙なプレーを経験することは出来なかった。

 
講師のコメントを徴したいハプニングであったが、終了定刻と共に急いで会場を後にしたので、質問は次回、来週にしよう。
 
ところで、日本コントラクトブリッジ連盟(http://www.jcbl.or.jp/catalog/)のPRヴィデオ≪遊び方≫の表紙でプレーヤーの熊が手にしている4枚のカードの数字は≪3,9,7,1(A エース)≫で、奇数ばかりだ。(2桁以上の)素数の末尾となり得る4種類の数字であるのが気に入った。

おかあさんコーラス ~ 人気作曲家 ~ 人気指揮者

$
0
0
先日、ちょっと会場が遠いが、コーラス大会を聴きに行った:
41回 全日本おかあさんコーラス東京支部大会

. 2018527日(日)、 (2. 63日(日))
府中の森芸術劇場 どりーむホール
一般入場券・・・1,000円  中学生以下・・・無料

 
時間の制約もあって、数団体の演奏を鑑賞するに留まった。オーソドックスに合唱の技術水準の高さを競う団体が主流のようだが、声やハーモニーの良さよりも元気さや見た目の派手さを強調する団体もあるのは意外だ。
 
とにかく、肝腎の演奏を殆ど聴いていないので、プログラムを一覧して印象に残った事を記すならば、前にも取り上げたことだが、演奏曲の作曲者や、出演団体の指揮者に偏りが甚だしいと言うことだ。
 
出演団体が二日間で78団体である。団体によって曲数はまちまちで、作曲者も1~3名程度とばらつきはあるが、作曲者名の登場頻度をまとめたところ、次のようであった:
 
   第1位   11件
    2    10
    2    10
    4     5
    5     4
    5     4
 
指揮者は各団体1名ずつであるから、偏りを厳密に数値で評価できる。一人で受け持つ団体の数:
 
   第1位   15団体
    2     8
    3     4
    3     4
    5     3
 
上位5名で34団体、つまり34/78=44%を占めているのは、当方の感覚からすると、異常という他ない。上位2名が群を抜いて大きな存在である。第1位の人物は、一人で全出場団体の1/5を抱えている。
 
などと批判がましく述べたが、考えてみれば、公職選挙でもあるまいし、仲良しクラブ的行事だとすれば、偏りがあって当然なのだ。もともと、“こういう”大会なのだと認識するべきなのだろう。余計なお節介だった。

本邦初演百周年 ~ ベートーヴェン第九 ~ 年末演奏百周年

$
0
0
ここ数日の新聞で“第九の本邦初演百年”が話題になっている。以前、当ブログで取り上げたように、初演にも何種類かあり、“百年”と言えば、191861日のドイツ人捕虜による第九全曲演奏を指している(「第九」事始め~一高寮歌「とこよのさかえに」~「皇太子殿下御成婚奉祝歌2012/5/5())
 
これとは別に、やはり今年“百年”の節目を迎えるのが、“年末第九”である:
 
第一次世界大戦の終わった1918年の12月31日に、平和への願いを籠めて、労働者教養協会のイニシアチブにより100人の演奏家と300人の歌手によってベートーベンの第九が演奏され、その伝統がゲヴァントハウス管弦楽団によって受け継がれ、、、(第九12月31日明2678年  2017/12/31())
 
第九の「合唱」部分は、EU統合の象徴、EUの歌ともなっているようだし、また、ベルリンの壁崩壊直後、19891225日に各国の音楽家が当地に集まって第九を記念演奏したとのことだ。明2019年は、その三十周年で、また一つの節目となる。
 
ベートーベンの第九ほどの名曲、人気曲となると、あまり間をおかずに周年行事が巡ってくる?

家庭音楽会 ~ 無伴奏独唱 ~ 労働雑詠三部作

$
0
0
某邸音楽会が2か月ぶりに開催された。参会者は二十名弱、出演者は十数名、普段よりは少な目のようだった。次回は4か月先というから、先細りになるのではないかと危惧される。
 
男声二重唱の相棒が欠席だったので、独唱だけで出演することになり、選曲に困った。思い付きで、数年前に北国の“さくらの会”で取り上げた島崎藤村・小田進吾「労働雑詠三部作」に決めた(労働雑詠三部作~朝・昼・暮~2013課題曲 2012/9/9())。
 
実際に声を出して練習する機会が殆ど無いので、楽譜だけでもしっかり復習しようと思ったのだが、果たせず、伴奏して呉れる筈だったヴァイオリニストが開会前に勝手に自分の演しものを弾いて、さっさと引き揚げてしまったのも痛手だった。
 
本番ではカタカナ歌詞を追い切れずに何回も引っ掛かった。その度に苦しい言い訳をしつつ、何とか歌い終えたが、我ながら感心しない。真剣みに欠ける。無伴奏で3曲を連続独唱すると、疲労感もひとしおだ。欠点が聴衆にモロに印象付けられるかと思うと、意気地なくも声が震えてくる。年の功とは行かないものだ。
 
声楽の出演は他に二人だけだった。ヴァイオリンが4名、ピアノが2名、チェロ、ギター、ファゴット、ヴァイオリン演歌が各1名という顔触れはいつものとおり。ヴァイオリン・チェロ・ギターのトリオによる交響曲の抜粋が目新しかった。
 
会の最後は全員で二部合唱の特訓だ。曲は、当方には初見の「金色の太陽が燃える朝に」だ。いきなり歌わせるのだから、指導者(邸の奥さま)の見掛けによらぬスパルタ方式だ。十五分ばかりで一応ピアノ伴奏による合唱がサマになったところを見ると、参会者の半数ほどは経験者であると思われた。

6月素数日 ~ 23日・29日突出 ~ 発見的手法

$
0
0
今月の素数日付をまとめておこう:
 

西暦  8桁 201806092018062120180627   

7桁 20186292018623

皇紀  8桁 26780629,

7桁 2678623, 2678629,

6桁 267863
和暦  6桁 300623   
4桁 30673061
 
 
表記方式を柔軟に適用していると、同じ日が複数回現れることが珍しくないが、「23」と「29」の両日がそれぞれ3方式で素数日付となった今月は特別だろう。
 
月の「6」を前置した3桁の月日で見ると、素数は≪601, 607, 613, 617, 619≫の5日だけで、20日台には無いことと眞に対照的だ。
 
月初めの61日は「61」でも「601」でも素数だ。日付からは離れるが、「600…1」の形での素数分布を見ると、素数となる桁数は、次の通り:
 
2, 3, 4, 9, 10, 16, 21, 27, 39, 46,,,,, (例:16桁 6000000000000001
 
 
この数列のうち、21 までは実直に1桁ずつ判定機に掛けたもので、その結果、≪3, 9, 21,4, 10, 16≫の2系列の擬周期性が想定された。
 
その擬周期「6(及びその倍数)を適用して27 以降の桁数を検出したものである。
 
この手法が効果的なのは桁数が比較的に小さいうちで、大きくなると手作業では厄介だ。
 
ささやかながらも自力で“発見”する楽しみがあればこそ続けられる遊びだ。

すべての桁が素数 ~ 桁数が1104 ~「75327532….7533」

$
0
0

Paulo Ribenboim (), 吾郷 孝視 (翻訳)素数の世界」(共立出版; 22001/10/20)の中に、次のような記述があった(p.100)

 
≪すべての桁が素数であることが知られている最大の素数は
 
7532  x {101104 - 1)/(104) + 1}
 
であり、これは1988年にDubner によって発見された桁数が1104の数である。≫
 
数回読み返したが主旨を理解できなかった。日本文として不明のところは無い。ただ、内容に意味が有るようには思われなかった。
 
ある思い付きを確かめるべく、この数式を普通の形の数に還元した:
 
{101104 - 1)/(104) + 1}は、「10001000….10001」である。「1000」が275組続き、末尾に「1」を付加した1101桁のすである。
 
これに「7532」を掛けると、「75327532….7533」という1104桁の数になる。「7532」が275組続き、その後に「7533」が付く。
 
確かめようとした思い付きとは、「7532」が何組であっても数「75327532….7533」が素数になるのではないかということであった。それはあり得ないと初めから気付くべきであった。ただ、≪24桁の自然数「753275327532753275327533」は素数の可能性が高い≫と判定されたのがせめてもの救いか。
 
出発点に戻って頭を空っぽにしてみたら、≪すべての桁が素数である≫とは単純極まる、そのままの意味であること解った。その数に使われているどの数字も素数であると言っているのに過ぎないのだった。
 
つまり、「7532」の中のどの数字も一桁の素数だということだった。一桁の素数などには全く関心が無かったため、最も単純な言明を理解できなかったというお粗末の一席。

二十歳のエチュード ~ 新入生にすすめない本 ~ 今夜、すべてのバーで

$
0
0
先だって、東大出版会の広報誌の4月号(UP2018-04)に東大教師が新入生にすすめる本のリストが掲載されているのを取り上げた大菩薩峠新入生向け東大教師推薦 2018/4/20())。
 
続く5月号を月遅れで読んだら、≪東大教師が新入生にすすめない本 その二≫というのが載っていた。書いたのは、ひと捻りもふた捻りもしたエッセーを得意とする佐藤康宏先生(日本美術史)で、ご担当の連載[日本美術史不案内]の第108とある。イメージ 1
 
≪その二≫とあるから≪その一≫が先行している筈だが、見落としたようだ。検索すると、昨20175月号目次に、“ [日本美術史不案内]96 東大教師が新入生にすすめない本”があった。
 
今回佐藤先生が≪すすめない本≫として推薦したのは、①原口統三『二十歳のエチュード』と②中島らも『今夜、すべてのバーで』の2冊である。
 
原口は、(旧制)第一高等学校の学生で、ランボーを実践的に読もうとし、自らの詩をすべて焼却し、逗子の海に入水自殺したのだそうだ。『二十歳のエチュード』は、彼が友人に出版を託したノートだという。自殺した学生の遺著となると、それを新入生にすすめる教師はいないだろうと想像されるが、読めば思考を刺激し、思索を促すほどの内容なのだろう。
 
中島らもは、“泥酔し、階段から転落して脳挫傷で逝った”“緩慢な自殺を望んだ”人だと述べている。『今夜、すべてのバーで』は、アルコール中毒についての文献を読み漁りつつアルコール中毒になった男が主人公の小説だそうだ。
 
どちらも、文部省や教育委員会の御推薦を受ける良書には入らない、むしろ危険書の部類なのだろうが、実社会での確かな判断力を身に付けるには、問題提起のある本も読むのが善いとのお考えで、佐藤先生は≪すすめない本≫を巧みに推薦したようだ。
 
老生も遅まきながら読んでみようかな。

QBイズム ~ 量子論のベイズ的解釈 ~ 不気味さ払拭

$
0
0

推薦的な書評に誘われて、ハンス・クリスチャン・フォン・バイヤー/著松浦俊輔/訳「QBism  量子×ベイズ-量子情報時代の新解釈」(森北出版 2018.3)を読んだ。やや思想論に偏した内容で、退屈な部分は飛ばした。イメージ 1

 
≪量子物理学は、観測前の物質の状態については何も語らない≫という一言が大いに気に入った。理論によって明示される量子的状態は確率的イメージであり、それが一旦観測されると固定的状態になるというような量子論には悩まされるのだが、それを解釈の問題として鮮やかに解決してくれているように思われるのである。
 
要するに観測前の状態は判らないのだという、極めて常識的解釈で、量子論の奇妙な結論を受容し易くしてくれる、言わばコロンブスの卵だ。こんなことで悩みが解決されるというのも、些か拍子抜けではあるが、とにかく、観測前の≪シュレディンガーの猫≫が生死の重ね合せという奇妙な状態にあって、観測したとたんに生か死かに固定されるのだという不思議な見方から解放されるのは有難い。
 
その考え方が≪ベイズ確率≫と何故結びつくのかについてはイマイチ理解しなかった。飛ばし読みの所為だろう。ベイズ統計などという分野については半世紀近く前に経済学(あるいは経済数学)の教科書(洋書)で学んだ記憶がある。その時は何も奇異な(あるいは特殊な)印象を持たなかった。要するに当たり前の理論だと思った。頭が柔軟だったのかもしれない。
 
ベイズ確率は、時々話題になる≪モンティ・ホール問題≫の鍵でもあるらしい(ニューヨークタイムズの数学モンティ・ホール問題ベルトランの箱のパラドクス 2016/10/9() など)。

改ざん・隠蔽 ~ 日付遡及 ~ 公的文書の信憑性

$
0
0
偶には時事問題に容喙してみよう。些細と言えば些細、重大と言えば重大な、微妙な問題だ。先ずは、容喙する気にさせられたニュースから:
 
 堺市立のスポーツ関連10施設で2015~16年度分の運営に関する公文書155件が作成されず、不手際を取り繕うため作成日を偽った文書をその後に作り、正規に手続きしたように装っていたことが分かった。つじつま合わせのため退職したり異動したりした職員に押印させていた。市は「公文書の正当性が疑われかねない」と不適切な行為だったと認め、関与した職員3人を口頭注意にした。(毎日新聞)
 
中央政府に於いて文書の改ざんや隠蔽、不法廃棄が横行している今、一自治体に於ける“つじつま合わせの文書事後作成”など目くじら立てるに値しないような気もするが、個人的に思い出すことがある。
 
二十年近くも前のこと、某自治体において、辻褄合わせの日付けによる文書を大量に作成していた。文書の内容に照らせば、物理的に不可能な日付であった。それを指摘すると、担当者は、作成日遡及をあっさりと認めた。
 
全く罪悪感の無い態度の理由を探ると、そのような文書処理は“(かつての)大蔵省も会計検査院も”容認していると公言された。昔から、辻褄合わせの文書処理は、中央でも地方でも、普通に行われていたものと想像される。
 
辻褄合わせが日付けに限られているという保証はない。公的文書全体の信憑性が揺らぐことになる。
Viewing all 1579 articles
Browse latest View live