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Channel: 愛唱会きらくジャーナル
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コンコーネ~コールユーブンゲン~数字譜

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ピアノ教則本「バイエル」を話題にしてから、もう1年半も経つ(バイエルの謎~全体が変奏曲~絶対音早教育 2012/8/5())。その実物を見たことは無い。その必要も無い。
 
が、合唱の趣味を始めた結果、歌の教則本とも言うべき「コンコーネ」とやらを持たされたことがある。全部で50の歌唱練習曲が収められていた。当然ながら初めの方は簡単に視唱できた。
 
(脱線するが、かつて「視唱」なる言葉を思いついて気に入っていたところ、既存の音楽用語であることが判り、びっくりしたことがある。更に後に、意味不明だった“ソルフェージュ”が同義語らしいと知った。)
 
番号が大きくなるにつれて、苦労するようになった。結局、13番だか15番あたりでコンコーネを使うお稽古は無くなった。
 
未だ合唱を始めていなかった昔から“コールユーブンゲン”なるものの存在も知っていた。何故そんなものを知っていたのか定かではない。
 
実際にそれを使って歌のお稽古をしたことも無かったのだが、最近、古書市で安く売っていたのを買った。原著者はフランツ・ヴュルナーというドイツ人だそうだ。
 
その中に“数字譜”を見付けた時は、心底驚いた。何故かと言えば、“数字譜”とは、日本に西洋音楽が導入されて間もない頃、慣れない五線譜の代わりに便宜的に考案されたものだとばかり思い込んでいたからだ。
 
とんでもない思い違いだった。ひとつ賢くなったような気がして、嬉しくなった。
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iPS細胞~代替技術~実用化レース

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昨日は(当管理人的に)注目すべき二つのニュースがあった。先ずは:
 
“新たな万能細胞開発 iPSより効率的に 神戸の理研など
神戸新聞NEXT 129()211分配信
 
体の細胞に酸性の溶液で刺激を与えるだけで、人工多能性幹細胞(iPS細胞)などと同様、あらゆる臓器や組織になれる「万能細胞」を作ることに、理化学研究所発生・再生科学総合研究センター(神戸市中央区)などのグループがマウスの実験で成功した。
 
作製に2~3週間かかるiPS細胞に対し、最短2日間ででき、成功率や使う際の安全性も高いという。効率の良い万能細胞の作製に加え、生体内での臓器再生や細胞の若返りなど、医療の新たな応用に期待が高まる。
 
「動物の細胞は外からの刺激だけで万能細胞にならない」という通説を覆す画期的な発見で、成果は30日付の英科学誌ネイチャーに掲載された。~”
 
細胞工学(?)上の詳細は知る由もないが、この技術成果のインパクトの大きさは想像できる。いわゆるiPS細胞の絡みであることは言うまでも無い。
 
未だお勤めをしていた4年ほど前のことで、当時iPS細胞で有名な山中氏のノーベル賞受賞の前評判が高かった。職場の同僚との会話で、慎重な見方を述べた。
 
専門分野で画期的な成果として評価が高くても、実用化されている訳ではないから、ノーベル賞には時期尚早ではないかと。再生医療で同じ目標を持って研究開発中の代替技術も複数進行しており、実用化に至るのはいずれであるか、見極めは難しいのではないかとも。
 
しかし、山中氏はその後めでたくノーベル賞を受賞された。授賞にいちゃもんを付ける無粋な人はいないのだが、実用化への道のりは未だ容易ではないことも一致した見方だった。
 
今回の、まだ30歳の女性研究者(の率いるチーム)による成果のニュースで思い出した次第。
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卑弥呼の鏡~魔鏡~隠れキリシタン

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(当管理人的に)注目すべきもう一つのニュースは:
 
「卑弥呼の鏡」は魔鏡、背面の文様を投影
邪馬台国の女王・卑弥呼 (ひみこ )の鏡ともいわれる三角縁神獣鏡 (さんかくぶちしんじゅうきょう )が、鏡面に光を反射させると背面の文様が壁に映し出される「魔鏡」の特性を持つことがわかり、京都国立博物館の村上隆・学芸部長が29日発表した。
 国内の古代鏡で確認されるのは初めて。太陽を (あが )める祭祀 (さいし )で光を操り、権威を高める役割があったとみられ、古代鏡の用途などを解明する糸口となりそうだ。
 魔鏡と確認されたのは、愛知県犬山市の東之宮 (ひがしのみや )古墳(4世紀初め)で出土した2面(直径21~23センチ、重要文化財)。立体物を精巧に再現する3Dプリンターで復元模造品を作り、実験した。この日の記者発表でも、鏡に光を当てると、神像がうっすらと映し出された。
20141300031  読売新聞)
 
魔鏡の存在及びその投影原理について、新聞の解説程度のことは知っていたが、疑問も持っていた。投影原理の説明は、例えばウィキペディアでは次の通りである:
 
青銅で鋳造された研磨の際、ある一定以上の薄さまで鏡を研磨すると、鏡自体が手の圧力に耐え切れなくなり微妙にしなる様になる。鏡の裏側に文字や像など各種図形の凹凸の厚みがあると、しなり具合が厚みのある部分で異なり、研磨の際にごくわずかな凹凸を生じさせる。これが平面鏡の中に凹凸が組み込まれていく原理である。”
 
研磨作業の様子は知らないが、掌で鏡面を拭くものと考えると、鏡の裏側の図形(凹凸)に追随するほどの細かな圧力差(しなり具合)が生ずるものだろうか。箸の先で押さえるような場合なら、場所ごとのしなり具合に差が出ることはあるだろうと思われるが。
 
また、複製品での実験で魔鏡であることが確認されたとのことであるが、何故、本物で確認しないのだろうか。光を当てるだけだから、貴重な本物を損傷する心配は無い。マスコミへの発表の際には複製品を用いたが、研究室では本物を使って実験しているのだろうか。残念ながら、その点についての情報は無い。
 
投影させるには日光などの“平行光線”でなければならないような記述もよく見かける。室内照明の光線では鮮明な像は結ばないのだろうが、隠れキリシタンが密かに礼拝していた状況を想像すると、平行光線は利用できなかったと思われる。光源はろうそくの明かりだとすると、十字はともかく、マリア観音のお姿は拝めなかったのではないか。
 
あるいは、魔鏡にも投影原理の異なる種類があるのか。
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相原 れいな/中西 勝之~ランチタイム・コンサート~ボランティア・コンサート

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昨日、都心でランチタイムコンサートを聴いた:
 
声楽家ふたりのソロとデュエットによるアリアとミュージカル(クラシック)
演奏:相原 れいな中西 勝之、本橋亮子 Soprano, Baritone & Piano
 
オペレッタ「メリー・ウィドウ」抜粋
ミュージカル名曲
 “オペラ座の怪人”から THINK OF ME
             MUSIC OF THE NIGHT
  “レ・ミゼラブル”から I Dreamd a Dream
オペレッタ“こうもり”から 「シャンパンの歌」
 
相原、中西どちらも実力派の安定した歌いっぷりだった。申しぶんの無いソプラノの相原だが、オペラで活躍するには声量がやや少ないように感じられたのは、ご本人が実力全開ではなかったのかも知れない。
 
その点、中西の方は、声の器に自信があるようで、強弱や息の長さを誇示していた。彼は、また、演技にも熱心で、名優ぶりを発揮していた。
 
お二人の美声に酔った勢いで、きょうはボランティア・グループの高齢者在宅サービスセンターへの訪問コンサートに参加した。管弦5、キーボード、指揮各1の総勢18名(ほど)が約30名の聴衆に迎えられた。
 
本番1時間前からリハーサルだったが、頼りのバイオリニストさんがなかなか現れず、連絡も取れず、登録されている電話番号に伝言を残したりして、気もそぞろのリハーサルだった。
 
ご本人は途中からの練習に間に合ったのだが、留守電からの応答が怒りに満ちていたようで、“バカヤロー”と怒鳴られたそうだ。番号の登録誤りで、無関係の相手さんが何度も間違い電話を掛けられ、頭に来ていたようだ。
 
渦中のバイオリニストさんはケロッとしていて、周囲が振り回されているところなど、芸術家としては大物なのかも知れない。
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ボランティア・コンサート②~老化・退化~油断大敵

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昨日の訪問コンサートの演目は次の通り:
 
1.冬の星座
2.庭の千草
3.とうだいもり(斉唱)
4.雪山讃歌
5.弦楽:アンダンデ・カンタービレ第2楽章
6.夢路より(斉唱)
7.トロイカ
8.白い道
9.愛燦燦
10
.ヴァイオリンソロ:バッハ/無伴奏パルティータ第1番 (G線上のアリア)
11
.マスカーニのアヴェ・マリア (ソプラノ(指揮者)、チェロ、キーボード)
12
.富士の山
 
この音楽ヴォランティア・グループは、発足して10年余りと思われる。御多分に洩れず、老齢化が着実に進行している。つまり、世代交代がスムーズに行われていない。
 
中高年のグループは、メンバーが固定化し、そのまま高齢化、自然消滅というコースを辿りがちなようだ。グループの運営の仕方によっては、新しいメンバーの加入で、活力の維持、増進も不可能ではない筈だが。時々、会員募集広告を出してはいるが、効果は薄いようだ。
 
演目も以前よりは易しいものばかりで、確実に退化している。レパートリー拡充の覇気など到底期待できない。
 
と些か傲慢な気持ちで歌っていたら、最後の、一番簡単そうな「富士の山」の低音パートの終りの方の音を見失い、しどろもどろで、尻切れトンボのように歌い終わってしまった。
 
人前で歌う時は、どんな曲でも真剣に取り組まなければいけない、と反省。
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日本よい国②~笛の音~濱田廣介/中山晋平

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先日、国民歌謡「日本よい国」2種を取り上げた(日本よい国~松原操~奥田良三 2014/1/26())が、ほかにも色々あるように思われてきた。既に何回もネタ元としている「第二 私達の唱歌」(2014/1/12())に次のような歌を見付けた:
 
笛の音   濱田廣介/中山晋平
 
日本よい國 夢の國  日永の獅子まひ 聞えます
町のはづれに 鳴る太鼓  ピーピーピラリと 笛の音(おと)
 
お空は青空 夢のよに  てんまり櫻 糸ざくら 
ふつくりふくれて 眠さうに  ピーピーピラリと 笛の音(おと)
 
坊やもねんねん 眠りましよ  御門のお犬も 眠さうな
御庭の鶏も 眠さうな   ピーピーピラリと 笛の音(おと)
 
イ短調 4/4 子守唄風に[M.M.♩=84]16小節
 
歌詞は至って平和的で、愛国調、軍国調のカケラも無い。作られたのは国民歌謡の「日本よい国」よりは早く、1927年だそうだ(中野市のウェブサイトによる)。その頃は、未だのんびりとした歌も大手を振って通用していのだ。
 
メロディーは http://www.youtube.com/watch?v=yeO8hQXzw1k で聴ける。
 
なお、松原操の歌う「日本よい国(中央教化団体連合会作詞作曲・小田進吾編曲)では、“日本”は“にーほん”と発音している。「国粋主義」=「にっぽん」とは限らないのだ。
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クロモジ茶~陳皮風味~カリン飲料

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世に健康茶の類いの商品がどれくらい流通しているものか、誰か数えた人がいるだろうか。産業行政或いは物価調査の必要上、何らかの統計が取られているかも知れない。
 
健康食品などにも関心は無いのだが、気紛れに数年前飲んでみた「クロモジ茶」が案外イケルと感じ、時々思い出したように飲む。ティーバッグ方式で、自分で煮出して飲む。一袋を23回使っても風味はさほど落ちないから、経済的でもある。
 
袋の中身は、クロモジの樹皮や小枝の細片である。どのような効用が有るのか、無いのか、確信は無いが、何と無く体に良さそうな風味だ。しかし、お世辞にも美味しいとは言えない。
 
最近、クロモジ・ティーバッグと陳皮を同時に煮出した特製の健康茶が飲み易いと気付いた。クロモジだけだと、如何にも草根木皮の味、香りなのだが、陳皮(と言っても自家製)の甘い香りが味を柔らかくしてくれるようだ。
 
この陳皮なるもの、我が窓辺にいつの頃からか放置され、埃を被っていたミカンの皮だ。よくぞ捨てられずに生き残り、お役に立ったものだ。
 
そう言えば、喉(声)に良いと言われるカリンの実を拾って来て放置したままになっている。腐る前に処置しなければ。何年かに亘ってカリンをアルコールや蜂蜜に漬け込んだビンも残っている。この世への置き土産になりそうだ。
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佐村河内守氏②~ゴーストライター騒ぎ~人気上昇

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ちょっと気になるニュースがあった:
 
 作曲家の佐村河内守さんが別人に作曲を任せていたと認めた問題で、日本コロムビアは5日、佐村河内さんの作品とされていた楽曲のCDDVDを全て出荷停止とした。(時事通信)
 
要するにゴーストライターに作曲させていたという訳だが、何故今頃になって露見したのだろう。作品が売れ過ぎて欲のぶつかり合いになったのかな。
 
とにかく沢山売れたのだから、作品自体は優れているのだろう。だとすると、今後は本当の作曲者の名前で売られ、演奏されることになるのだろうか。
 
実は、これより早いニュースで、“佐村河内氏騒動でNHKが謝罪”という見出しを見ていたのだが、その時は、“NHKが佐村河内氏に対して何か失礼なヘマをやらかしたので、氏に対して謝罪したのかとしか思わず、記事本文も読まなかった。そもそも、“佐村河内氏”に心当たりが無かった。
 
後の方のニュースの本文を読んでから、やっと佐村河内氏について当ブログで書いたことがあるような気がして、検索した結果、“現代音楽②~佐村河内守氏~交響曲《HIROSHIMA》 2013/8/3() ”を探り当てた。我ながら、よくぞここまで耄碌したものだ。
 
その時は、交響曲《HIROSHIMA》の一部を試聴して、“普通のクラシック曲としか思えなかった。~拒絶反応など起こす余地は全く無い。~曲全体を聴く必要を感じる。”と書いて締めている。
 
しかし、図書館に同曲のCDを借用申し込みした様子は無い。“所蔵CDはすべて貸し出し中で、予約順位二十数番”という状況に出鼻を挫かれて断念したのかも知れない。
 
今、改めて検索してみると、5枚所蔵していて、総て貸し出し中で、予約:49件となっている。ニュースのお蔭で、ますます人気が上がっているようだ。
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サクラは咲いた~ウメは未だか~花待ち爺

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伝統的には「梅は咲いたか桜はまだかいな」と言うところだが、地方によっては梅も桜も桃も一斉に咲く。それぞれの品種(樹種)によっては順序が逆にもなる。上野公園のカンザクラが満開だ。湯島天神の梅祭りは明8日から1ケ月に亘る。
 
近所の寺の紅白一対の梅を毎日観察していると、気温が上がったから咲くという単純なものではないことが判る。厳寒の朝に咲き始めたところを見れば、多分、積算温度で開花が決まるのだろう。
 
開花一番乗りを果たしそうだった蕾が足踏みしている間に、他の蕾が先を越すこともあるから面白い。長期熟成型と短期速成型と言ったところか。それらの結実まで見届けると何か更に面白いことが判るかも知れない。
 
例のカワチノカミ氏は、次から次とボロが暴かれている。マスコミの調査力もバカにできない。当管理人的には、今後カワチノカミ氏に刑事罰が下るのか、ゴースト作曲家が名声を引き継ぐことになるのか、が焦点だ。美談の化粧が落ちて、作品の評価も落ちるのか。
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声出し~雪掻き~雪待望

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午後、薄いコーヒーを詰めた小さいペットボトル持参で外出した。今日の雪は先日と違って細かい粒雪だ。比較的乾いており、傘を差さなくてもあまり濡れない。雪道もぬかるんでいない。
 
先ずはボランティア・グループの合唱練習に出た。出席者はいつもの半分にも達しない。男声は3人全員勢揃い。
 
面白いアドヴァイスを一つ聞いた。フォスターの「夢路より」で、例えば歌い出し“ゆめじよーーりーー”の“ドシド”の真ん中の“シ”の音は低めを意識して歌うと良いのだそうだ。
 
と言うより、実際に低めの音で歌うのが正解だと明言された。その方が綺麗に聞こえるのだろうか。一旦下がって元の音に上がる場合、中に挟まれる低い音が下がり切らない傾向が有るので、低めに出すように意識した方が良いと言うだけでもなさそうだった。
 
合唱歴十年で初めて聞く“歌のコツ”だった。下がって戻る音形を“シューシオン”と言うとも教わったが、“終止音”だろうか。ネット検索では判らなかった。
 
合唱の後、3か所巡り歩いて帰宅すると、拙宅が雪に閉ざされていた。午後は誰も出入りしなかったようだ。すきっ腹で雪掻きに汗を流して、気持ちが悪くなった。
 
細かい雪でも、間断無く振り続けるから、結構な積雪だ。こうなると、記録を伸ばして貰いたく、雪よ降れ降れと応援したくなる。停電は困るが。
 
午後9時までの1時間に25mmの降水(雪)があったが、積雪深は25cmと変わらない。気温が上がって、湿っぽい雪になったからだろう。
 
東京都心における年ごとの最深積雪記録を拾ってみた。古い方から主な数字を並べると:
1883-46, 1887-31, 1892-25, 1923-23, 1925-27, 1936-36, 1945-38, 1951-33, 1967-21, 1968-29, 1969-30, 1984-22, 1994-23 
 
 最大値は、1883(明治16)年の46cmで、これはもう抜かれることは無さそうだ。明治初期には東京でも氷点下10度近くまで下がり、隅田川が氷結したこともあるらしい。次いで1936(昭和11)年の36cmだが、これは有名な2・26事件の時の大雪だ。この記録に今回は迫るのかな。
 
ところで、帰宅して門前からインタフォンで若い衆に“スコップ”の在り処を訊いたのだが、“スコップ”が通じなかった。“ショベル”とか“ゆきかき”とか言い直さなければならなかった。古語になりつつあるのか。
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大雪記録~寒冷記録~投票日

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大雪の話題に便乗して、雪と寒さの記録を整理してみた。気象庁公表データ(18756月以降)から拾ったものである。先ず、昨日列記した過去の大雪(最深積雪 cm)を月日まで調べた(青色の日付は降水量からの推定)
 
1883.02.08-46, 1887.01.18-31, 1892.02.19-25, 1923.01.09-23, 1925.01.30-27, 1936.02.23-36, 1945.02.22-38, 1951.02.15-33, 1967.2.12-21, 1968.02.16-29, 1969.03.12-30, 1984.01.19-22, 1994.02.12-23 (参考2014.02.08-27)
 
歴代1位である1883年の大雪46cmが今回と同じ28日という偶然が面白い。
 
ついでに最低気温()の歴代10位までを見ると次の通り:
 
-9.2(1876/ 1/13)  -9.1(1885/ 1/14)  -8.6(1927/ 1/24)  -8.6(1876/ 1/2)  
 -8.4(1881/ 1/13)  -8.2(1885/ 1/21)  -8.1(1922/ 1/22)  -8.0(1876/ 1/14)  -7.9(1945/ 2/ 5)    -7.9(1901/ 2/ 3)
 
長期的な寒暖の傾向を知るには不十分なデータではあるが、上の大雪記録と照合すると、一致する年は1945年だけである。寒さと雪の量とは必ずしも連動しないのかも知れない(今回のデータは粗すぎるが)。
 
この中で見る限り、1876(明治9)年から1885(明治18)年の10年間が寒冷期として際立っている。隅田川が凍結したのは、この頃か、それ以前(気象庁の観測記録が無い。)のことだろう。
 
日最低気温の月平均値というデータで見ると、1880-81 84-85 1921-22 22-23 26-27 28-29 44-45 の冬(12月~2月)が目立つ寒冷期である。
 
上記の最低気温10傑のうち、これらの期間に含まれないのは -7.9(1901/ 2/ 3) だけである。この1901年の冬(121月)は、平均気温で見る限り、前後の冬よりも暖かかったことが判るので、特異な事象と言える。
 
連日の雪掻き労働で疲れた。老骨にはこたえる。ご近所でも、若い人たちよりは、年寄りが勤勉に雪掻きをしている。
 
外出帰りに選挙の投票日であることを思い出し、入場券無しで投票してきた。本人確認の手続きにかなりの時間を要した。
 
出口で新聞社のアンケートへの回答を求められた。ついつい正直に答えてしまったが、かなり微妙な質問も有った。明日の朝刊に早速使われるのだろう。
 
そう言えば、大阪市でも近々無駄な市長選挙が行われて、結果は見え見えで、お遊び気分の市長が続投するらしいな。
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訂正:隅田川の凍結は江戸時代にあったことで、その後は起きていないようなので、明治時代に凍結したように書いたのは、当管理人の勘違いであった。

合唱のつどい遺聞~会場保安~体験回顧

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先日の愛唱会音楽ホールデビュー(合唱のつどい)の関連で書き残しておきたいことがあった。開演前、ホワイエの片隅で軽く発声練習を始めた時、仲間の一人が“ホームレスらしき者が座席に置いてある荷物を狙っているようだ”との情報をもたらした。
 
その件は“蛇足:出演者が控え席に置いている持ち物を狙う不審者が徘徊しているようだとの情報が有った。真相は如何。”と記しておいた(2014/1/20())。後日、某ブログに次のような記述を見付けた:
 
“合唱のつどいを鑑賞して気付いたこと
ホームレスの女性が一番後ろで鑑賞(寝ていたが)していた。いいんだけど、臭いがひどかった。”
 
“一番後ろ”と言えば、我々の指定席もそうだった。同一人物かどうかは不明だが、やはり不審人物がいたのは事実だった。入場無料で出入り自由の催しだから、このような事態は十分に想定できる。
 
実は数年前に同様の事態を経験していたのだった:
 
一つおいた隣の席にホームレスらしき人が眠りこけているのに気が付いてぎょっとしたりと
(お喋り~ホームレス~Shenandoah 2009/10/26()
 
故無き偏見や差別思想を擁護する積りは毛頭無い。しかし、人に不安を与えたり、公共の場を不潔にしたりすることは許されない。主催者側も毅然と対処して欲しい。
 
連日の雪掻きは、本当に体に応えた。肩、肘、手首、指などが疼いて安眠できなかった。肩の痛みが一番酷かった。寝返りを打つとビーンと痛みが走った。これでは歯医者の受診は無理かと心配したが、厭なことの先送りは感心しないと自らに言い聞かせて何とか済ませてきた。診察台に仰臥して15分間も大口開けたままというのは、思い出すだに恐ろしいことだ。よくぞ我慢できた。
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藤田嗣治~戦争画家~アッツ島玉砕

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今朝、テレ番の見出しが目に付いた。「試写室 嗣治からの手紙」で、画家・藤田嗣治の戦時スタイルのスナップと手紙断片の画像が目に飛び込む。
 
解説に“~代表作「アッツ島玉砕」~”とある。絵画に特段の興味は持っていないが、「アッツ島玉砕」は無視して通れない。我が叔父が玉砕者の一人だから。
 
医師だった叔父は、運の悪いことに、軍医として前任者と交代に赴任して間も無く玉砕戦に巻き込まれたのだった。という訳で、この番組を見ておきたい誘惑に駆られ、何年振りかでTVを自発的に視た。
 
最近のTVはリモコンで操作するが、HDDだの、DVDだのが接続されており、それらを一つのリモコンで操るのだから、実にややこしい。ということは解っていたから予め目的のチャンネルをセットしておき、視聴した。
 
番組関連サイトから引用:
 
藤田嗣治が友人に宛てた未公開の手紙には、戦争に翻弄された画家の流転の生涯がにじむ。藤田の心情を読み解き、「画家は戦争や...少年時代から画家を志していた藤田は明治43年東京美術学校洋画科卒業。大正2年(1913)に渡仏。(http://www.minkyo.or.jp/01/2014/01/28_1.html
 
戦争画家の頂点に立つが如き名声を博した藤田は、この番組では、“必ずしも戦争を賛美したのではない”ものとされている。当管理人も、番組に誘導されて、“画家は、感じ取ったものを職人として立派に描く立場にある”だけだと納得した。
 
番組の終わりに、藤田と直に交流していた後輩画家が、 “画家は職人なんだよ”という藤田の言葉を紹介していたのには驚いた。手に技を持っているだけと、やや低く見るニュアンスのある呼称を自らに冠した藤田は、逆にプライドを込めて職人と言ったに違いない。
 
番組の制作意図に関係することだが、紹介された藤田の戦争画には、確かに皇軍の輝かしい勝利を綺麗に描いたものは無かったように思う。どちらかと言えば、戦争の苦しさ、厳しさ、残酷さが強調されている。ただし、その中にあっても、皇軍兵士の勇猛果敢な突撃は欠かせない。それが無ければ、軍部が藤田を認めることは無い。
 
相模原に疎開していた藤田が、世話になった近所の人達に絵を進呈しており、出征する若者への餞別画(?)の絵柄が、“豆に蛙”だった。このように漢字交じりで書くと単にユーモラスなだけだが、実は“まめに帰る”の意味だったそうだ。“元気で帰って来いよ”と。
 
思想統制の監視の目を欺く巧みな表現だったというのだが、その当時から、絵を貰った方も了解していたのか。それとも、後からこじつけたのか。
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兼常清佐③~石川五右衛門​の妻~吉川英史

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先月、2度に亘って、知る人ぞ知る兼常清佐氏について書いた( 2014/1/27(月)  2014/1/28(火))。当方としては、 日本の近代音楽史上の重要人物について無知であったことを埋め合 わせる気持であった。
 
不思議なもので、その兼常氏のお名前に、 また直ぐにお目に掛かった。「音楽の窓」 という某有力音楽出版社の月刊PR誌(廃刊) の1980年1月号に、吉川英史氏が「 石川五右衛門の妻と兼常博士」と刺激的な題の短文を寄せている。
 
石川五右衛門の妻というのは、後妻で、継子苛めをするのだが、 実は、継子が父親のような盗賊にならないよう、 先妻の所へ逃げていくように苛めていたのだそうだ。 単なる意地悪ではなく、 その子の将来を思えばこその親心からの行為だったと。

 
一方、兼常博士は、極端な日本音楽軽視論者なのだそうだ。 確かに、彼の「音楽の話と唱歌集(上級用)」の書きぶりには、 それが滲み出ている。彼は、「邦楽は原始音楽で、 山かごのようなものだ。博物館行きだ。」と主張した。対して、 吉川氏は「邦楽にも将来性や国際性はある」との立場であった。 お二人は新聞やラジオで対決したのだそうだ。

そこで、なぜ五右衛門の妻と兼常博士が対置されるのか。 吉川氏の邦楽研究熱は、 兼常博士の邦楽いじめに対する反発で盛り上がったのではないか、 と自問されるのだ。吉川氏は更に、“ もしかしたら兼常博士は逆説的に表現されたのではないか、 悪口を言えば誰かが日本音楽を本気で研究してくれないだろうかと 、意識的に考えて~”と想像を広げたそうだ。

吉川氏が著書「日本音楽の性格」を兼常博士に増(ママ) 呈したところ、返事のはがきに「あの本を、 コトを弾いていた姉に読ませたかった」とあったそうだ。 論敵同士でも、 互いに認め合った良好な関係を思わせる清々しいエッセーだ、 と思うのは単純に過ぎるかな。

兼常清佐 1885-1957
吉川英史 1909-2006
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佐村河内守③~往生際~鑑識力

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オリンピックが無くてもマスコミは、カワチノカミ氏のネタで当分食っていけるのではないか。彼を持ち上げた為に恥をかくことになった人たちは別として、大多数の人々は興味津々だと思われる。当管理人もその一人だ。
 
「三年前から少し聴力が回復してきた」と“白状”したそうだが、この期に及んで未だ悪足掻きをするとは、世界を18年間も欺き続けた大物らしくない。マスコミでさえ、この“白状”を眉唾ものとして報じている。
 
問題のNHK会長さまは、殊勝にも、カワチノカミ氏を大ブレークさせることとなった番組の内容が事実と異なっていたことを謝罪したという。しかし、“だまされた”と言い訳しているらしい。
 
確かに、番組を見て感動した人たちは騙されたのだが、NHK自体が騙されたと言えるかどうか、甚だ疑わしい。“いい話”をでっち上げたグループに一枚噛んでいることはないのか。聞くところによれば、“いい話”は、外部からの売り込みだったらしい。
 
代作騒ぎが起きた後で伝えられたのは惜しいが、カワチノカミ氏が胡散臭いと明確に指摘していた人もいるとのことで、一筋の光明を見出す感がある。
 
代作された音楽を聴いてその価値に疑問を持ち、率直に論評した人がいることを知り、イマイチ信頼しきれなかった音楽評論なるものを見直した。玉石混交なのだと。
 
ところで、売れに売れたというCDに収録された演奏は、当然、一流の音楽家によるものと思うが、それら演奏家の側からの評価、発言を寡聞にして承知していないのだが、是非聞きたいものだ。評論家とは異なる見方があるだろう。
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テレンス・ジャッド~ピアニスト~ピアノマン

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「音楽の窓」という某有力音楽出版社の月刊PR誌(廃刊)の19801月号を先週(2014/2/12())ネタ元にした。その翌々月3月号にも目を惹く記事が有った。「ある若いピアニストの死」と題して、三浦淳史氏が書いている。長い引用:
 
1979年(1223日)~~サセックス州のヒーチー・ヘッドのふもとでひとりの若い男の全裸の死体が発見された。~1216日にロンドンの自宅を出たまま行方不明であったコンサート・ピアニストのテレンス・ジャッドであることが確認された(27日)。~家出した日から一週間後の日曜日(つまり死体発見の日)にソヴィエト演奏旅行に出発するはずであった。
 
 ジャッドは1978年度のチャイコフスキー国際コンクール=ピアノ部門で、ソ連のボリス・ペトロフと第4位を分かち合って入賞したイギリスの新進ピアニストである。”
 
新聞の社会蘭に小さく「失踪中のピアニスト死体で発見さる」と報道され、年を越してから、彼の先生の弔辞、検死官の所見などが伝えられた。死因は不明だそうだが、自殺であったと見られている。
 
三浦氏がこの件を取り上げたのは、その年の秋にロンドンのポリーニのリサイタルで、隣り合わせた男性に「イギリスで最も有望な新人ピアニストは?」と問うたところ、「テレンス・ジャッド」と答えられたことがあったからだという。
 
ウィキペディアでは、“テレンスジャッドTerence Judd1957 103- 1979年)は20世紀イギリスのピアニスト。本格的な音楽活動に入ろうという矢先に夭折した。 1957年にロンドンでアメリカ人の両親の許に生まれる。とりわけロマン派音楽の擁護者として知られ、~”と紹介されている。
 
これは三十余年も前の事件だが、近年何か似たような話が有ったような気がして記憶を辿った結果、“ピアノマン”事件を思い出した。ウィキペディアが要領よくまとめてくれている:
 
“ピアノマン(Piano Man)は、20054月にイギリス・ケント州の海岸で、びしょ濡れの着衣姿で保護された男性。当初身元が分からず、特異な境遇が世界中に報道されて話題となった。
 
病院の関係者が男性に鉛筆と紙を渡したところ、精緻なグランドピアノの絵を描いた。そこで男性にピアノを弾かせてみると、上手に演奏し~「ピアノマン」と呼ばれるようになった。~5月にBBCで報道されると、その神秘的な境遇のため世界中から注目されるニュースとなり、~”
 
この件は、ピアノマンのお芝居であることが判り、数か月で幕引きとなったそうだ。ピアノは全然弾けなかったそうで、“ピアノを弾かせてみると、上手に演奏し~”のところは嘘であることは、病院の関係者などは当然知っていた訳で、話題捏造に協力していたものと思われる。
 
何やら、昨今のカワチノカミ氏の詐称事件を連想させる。
 
なお、テレンス・ジャッドのサセックス州とピアノマンのケント州は隣り合わせである。
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神戸女学院同窓会の歌~that beautiful land~Sambika, 342

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「全國大學專門學校高等學校校歌集」という古い本がある。初刷が昭和2115日で、同月20日に第4刷発行と奥付にある。部数までは判らないが、かなり売れたようで、公的な図書館にも蔵されている。
 
類書が少なくない中で、本書は収録内容が充実しているように思われる。東京帝国大学から東亜同文書院まで115校の校歌、学歌、応援歌、寮歌などを1校につき複数載せているので、総曲数は数百に上る(筈である)。
 
通覧するだけでも面白い。曲譜は数字譜が多数派である。旧制度の下ながら、英語の歌詞が散見される。校歌ではないが、冒頭に「君が代」が来て、カタカナとローマ字が併記されている。
 
以前、北大予科の「恵迪寮 寮歌集」に、“英語2曲、ドイツ語1曲”収録されていることを報告した木原均~恵迪寮寮歌~スポーツマン 2013/9/10() 。欧米先進国に追いつくことを無意識のうちにも目標としていた時代には、英語、ドイツ語などの校歌類にも余り抵抗は無かったのだろうか。
 
英語曲で、神戸女学院の“ALUMNAE  SONG ”(同窓会の歌)と称するものがある:
 
Tune: I will sing you a song of that beautiful land,
Sambika, 342
Key E
 
     { 五 線 譜 }
 
1      There’s a song in our hearts of the times that are past,
As we gather in gladness to-day;
Looking back o’er the years from the first to the last,
~~~~
 
という調子で2ページに亘る。単純に見れば、ここの{ 五 線 譜 }
a song of that beautiful land”すなわち“Sambika, 342”であり、調はE♭(変ホ長調)、歌詞は“There’s a song in our hearts of~”(4番まである)ということだ。
 
ただ、a song of that beautiful land”が気になる。古い男声合唱曲「希望(のぞみ)の島」の原曲が“That Beautiful Land”であることは、以前紹介した(高校男子用音楽教科書~名曲・珍曲~愛唱歌奇遇 2010/7/30())。
 
この原曲は、アメリカで作られた讃美歌であった。しかし、神戸女学院の“There’s a song in our hearts of~”の歌は、詞・曲とも全く別物である。
 
ここで納得し切れないのは、この歌詞内容が、タイトルであるはずの“that
beautiful land”とあまりにも無縁のように見受けられるからである。もう少し周辺を洗ってみよう。
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東京美術学校校歌~チャカホイ節~東京音楽学校?

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「全國大學專門學校高等學校校歌集」の目次には、各学校に番号が付され、歌の出だしの文句が並べられている。
 
見て行くと、91番目が東京美術学校で、「何だ此の野郎柳の毛虫」と出ている。「嗚呼玉杯に花受けて」とか「都ぞ弥生の雲紫に」とかの格調の高い歌詞とはまるで別世界だ。
 
兄弟校たる東京音楽学校が、音楽の研究・教育機関の頂点に位置しながら、ここに登場しないのも面白い。編集者が失念する訳が無い。実際、校歌と言える歌は無かったらしい。それにしても、応援歌も寮歌も無かったのだろうか。人から頼まれて作曲するのに忙しくて、自分たちの為の歌を作る暇が無かったということか。
 
本文の東京美術学校の項を見ると、「チャカホイ節」とタイトルが付されて、次のような粋な文句が列挙されている:
 
一 何だ此の野郎柳の毛虫、払ひ落せば又あがる チャカホイ
二 箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川
三 天下取るまで大事な身体、蚤に食はしてなるものか
四 お前行くなら私も連れて、末は奥州の果までも
五 之れを止めよか之れが止めらりよか、止めりや世間の笑ひ草
六 親は他国に子は島原に、桜花かや散り々々に
七 何をくよくよ川端柳、水の流れを見てくらす
八 骨に成るとも放れはしない、破れ屏風の蝶つがひ
九 氷る櫓先に片手をかけて、泣いて通るか櫓(やぐら)下
十 船で渡るか深川通ひ、着ける所も仲の町
 
囃子言葉“チャカホイ”は一番だけにしか歌われないのか。
 
 ネット検索したところ、“1906年(明治39年)流行歌 チャカホイ節、青葉の笛(敦盛と忠度)尋常小学唱歌”という記述が見付かった。
 
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邦楽コンサート~無知の誤解~阿吽の呼吸

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珍しく邦楽のコンサートを鑑賞した。主催者HPでは次のように告知されている:
木曜コンサート 東京藝術大学学生・院生
『邦 楽』 入場料:500円(当日券のみ)
杵屋 六左衛門 作曲  長唄《勧進帳》
山本 邦山 作曲 尺八《竹の群像》
中能島 欣一 作曲 箏曲山田流《新潮》
佐藤 敏直 作曲 箏曲生田流《糸のためのコンチェルト》 
山田 抄太郎 作曲 日本舞踊《雨の四季》
観世 信光 作 能楽《胡蝶》
 
従来、旧東京音楽学校奏楽堂で催されていたお得なコンサートで、同施設が保全改修工事で休館中のため、台東区のミレニアムホールに会場を移して続行されている。拙宅からバス1本、約45分で行けるのも不思議なご縁だ。
 
コンサートの進行は全く機械的で、案内は一切無しだ。邦楽には不案内だから、上記プログラムの通りだと思って聴いていたが、何かしら腑に落ちなかった。
 
最初の演奏が、多数の筝による合奏だった。歌は無かった。それでも、これが“長唄《勧進帳》”というものなのかと感じ入っていた。タイトルの古風さとは対蹠的に、まるで無調の現代音楽だった。絃を棒で打ち鳴らす奏法も取り入れていた。
 
やがて、プログラムが進むにつれて、演目の誤解があるようだと気付いた。改めて、受付時に渡されたチラシ(解説)を見て、総てがはっきりした。演奏順序が変わっていたのだ。実際は、
 
佐藤 敏直 作曲 箏曲生田流《糸のためのコンチェルト》 
山田 抄太郎 作曲 日本舞踊《雨の四季》
観世 信光 作 能楽《胡蝶》
中能島 欣一 作曲 箏曲山田流《新潮》
山本 邦山 作曲 尺八《竹の群像》
杵屋 六左衛門 作曲  長唄《勧進帳》
 
となっていたのだ。無調現代音楽の正体は《糸のためのコンチェルト》だった。終局の diminuendo で消えていくところは美しく聞えた。演奏中に駒が1個外れて跳んだのだが、そのまま、皆さん相変わらず無表情で弾き続けていた。駒は無くても問題無いものなのか、それとも咄嗟に奏法で対応したのか。
 
日本舞踊も邦楽の範疇に入るとは知らなかった。あるいは、今日の場合は、邦楽家の余技なのかな。
 
全体に変化に富んだプログラムで、大いに楽しみ、満足した。邦楽では、弾き歌いが普通らしいことも分かった。多人数の合奏でも指揮者がいないことも注目に値する。緩急・強弱の複雑なこと、われわれの日頃の一本調子な合唱の比ではない。誰かが合図を出したり、リードしたりしているのだろうとは思うが、それにしても大したものだ。
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遠い「一水会」~右翼と軍歌~言霊の継承 

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以前、「一水会」なる会合に、頻繁ではないが、顔を出していた。他の出席者たちと話の波長が合わないので何時しか足が遠のいた。今でも月1回の開催案内は来るが、恐らく絶後となるだろう。
 
世間に知られた同名の団体が複数あり、中でも都知事の五千万円問題で関与が明らかとなった政治結社(?)は、活発なようだ。
 
その一水会の代表氏が思いがけない所に登場していた。宝島社『軍歌と日本人』(2007.7別冊宝島1428)というCDムックに、彼へのインタビューをまとめた“「右翼」と軍歌 右翼にとって軍歌とは「言霊の継承」であり「左翼への対抗歌」だった”が4ページにわたって掲載されている。
 
当然のように、彼は軍歌ファンなのだが、それなりの理屈を立てているのが面白い。当管理人などは、理屈抜きで、好きなものは好き、で納得している。つまり、聴いて心に沁みる歌は、理屈抜きで好きになるのだ。
 
軍歌、戦時歌謡は戦争を煽る悪い歌だから、抹殺するべきだとは思わない。これから新しい軍歌を作るのが善いことだとは思わないが、過去に歌われた軍歌を抹殺するいわれは無い。
 
という訳で、一水会代表氏には親近感を持った。最近の報道にあった彼の年齢から計算すると、この雑誌のインタビューの有ったころは50歳を過ぎたころだ。
 
若くして右翼団体の統率者になった経歴から想像されるほど激烈な風貌でもなく、語り口も穏やかなように感じられる。それで追随者が寄ってくるのかな。
 
“(右翼の街宣車が流す歌は)圧倒的に軍歌が多い。それは右翼は文化防衛の防人であり、それに命を賭しているからだと思います。戦場での民族、国歌(ママ)の存続のため命を賭す兵士の気持と通じるわけです。
 
その意味からも民族派にとって軍歌というものは、言霊を歌にしたものだった。~軍歌を歌うことで英霊の言霊を蘇らせ、精神を伝承していくのだということに最近、気付いたのです。~”
 
と仰るのだが、その論理は解らない。特に、“言霊”となると神懸かりの印象が強く、まさに理屈抜きの宗教的教義と受けとるしかないかも知れない。
 
彼の好みの軍歌:英国東洋艦隊壊(ママ)滅、青年日本の歌(昭和維新の歌)、勝利の日まで、日の丸行進曲、愛国行進曲、田原坂
 
勝利の日まで」「日の丸行進曲」「愛国行進曲」の三つは知らない(思い出せない、聴いた記憶が無い)。やはり、右翼にはなれそうにない。
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