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詩人のための量子力学②~弦理論イメージ~解釈は空想

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詩人のための量子力学」は、前回紹介した通り、量子論の結論を素人向けに文章で説明しているので、解り易く、面白い。具体的な事例や比喩が良い。それが真理を正しく伝えている保証は無いものの、読み手をして一歩前進したと思わせる。
 
特に気に入ったのが、第9章《重力と量子論―――弦理論》で使われている35(粒子)と図36(弦)である(p.347)。
 
量子論では物質の基本はいわゆる“粒”の姿をしているとは考えない。次元がゼロの点でイメージされる粒ではなく、1次元のヒモが物質を構成する単位であるとする弦理論(及び超弦理論)が今主流である。
 
図はそのイラストで、x-y平面を我々が知覚する現実世界とし、これに直交するz-軸が時間を表すとして、x-y平面上の粒や弦が三次元時空でどのように存在しているかをイメージさせる。当然ながら、粒は時間軸に沿う線に見え、弦は帯(リボン)に見える。弦がヒモの切れ端(開弦)であればそうなるが、輪(閉弦)であれば三次元時空でチューブ状に見える。
 
それがどうした、という議論は難しいのでパスするとして、気に入ったのは、これとほとんど同じことを当ブログで以前書いたことがある(重力とは何か~弱すぎる重力~4次元の想像 2012/11/3())という自己満足による。
 
円筒状の宇宙を平面で切断する図形(単純には円)を2次元世界であると考える。この2次元世界が時間軸に沿って定常的に動いており、その平面世界に束縛された者は円筒宇宙に連続的に存在する過去・未来のどの時点(切断面)をも見ることはできない。
 
当管理人がこの着想を得たのは、半世紀以上前だが、その80年近く前(今から130年前)に既に類想小説が出版されていたということも書いた。
 
これらは量子論とは全く無関係な思索によるものだ。また、次元数を減らしての、単純化してのアナロジーであり、言わば空想である。
 
量子論の数学的な表現は観測事実を整合的に説明できるという意味では“正しい”し、現実に役に立っているから、真実であると認めてよい。
 
しかし、数学的表現(方程式)の意味するところを我々の知覚に合せて言葉で表現する(解釈する)場合、それが真実であるとは確信できない、というのが正直な感想だ。
 
例えば、物質の単位は、振動する弦である(あるいは、弦の振動である)というのは単なる比喩にしか過ぎないのではないか、という意味だ。
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詩人のための量子力学③~距離の量子~時間量子?

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詩人のための量子力学」の第1章(これがショックじゃないなら、君はわかっていないのだ)に、“10-35メートルが、存在すると考えられている最小の距離尺度で、この尺度に達すると、量子効果のせいで距離そのものが意味を失う。”とあるp.39)。
 
以前、“大きさの最小限界”の有無について自問したことがある(年頭妄想~究極の微粒子~生誕二百年 2013/1/1())。ヒモだの粒だのの概念で究極の物質要素を探究するのは、永遠の逃げ水ごっこではないかと、その時は思っていた。
 
さて、現代の量子論では“10-35メートルが最小の距離尺度”であるとのご託宣だ。これは、計測手段(装置)の分解能の話ではないと思われる。これより短い距離は無いと言っているのと同じだ。距離量子と呼んでも良さそうだ。
 
また、究極の素粒子が存在するとすれば、その大きさもこの距離量子のサイズよりも小さくはないということだ。この単位に“μ(ミュー)”という名前を付けよう(ミクロンは、今は使われないので)。
 
光が1メートル進むとは、1035μを順次伝わることに当たる。滑らかに連続的に伝わる現象ではなく、1035個のμを踏み石を踏んで来る離散的現象なのだ。
 
真空中の光速を30万キロメートル/秒として、1μに要する時間は(1/3)*10-43となる。これは時間の最小単位、つまり時間量子なるものが存在すると考えてよいのだろうか。
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詩人のための量子力学④~両性兼備~確率子

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詩人のための量子力学」を読んでも、光を中心とした粒子説と波動説の取り扱いがすっきりしない。通俗解説書の限界はあるだろう。読み方や理解力の問題もあるだろう。それらを認めた上で、疑問点を自己流で整理してみよう。
 
素粒子(及びそれらを構成する基本粒子など)は粒でもあり、波でもあるとか、粒子と波動の両方の性質を持つとか、場面に応じてどちらかとして振る舞うとか言われていると思う。観測事実がそのような結論を導き出すということだから、一応納得できる。
 
解らないのは、粒子性と波動性はどのように使い分けられるのかだ。と言うより、素粒子に意思がある筈は無いから、使い分けるのではなく、客観的(機械的)な原理があると思われる。
 
粒子としての特質を検出しようとすれば検出されるし、波動としての特質も同様だとしよう。そうすると、両者の特質が相容れない場面ではどうなるのか。粒子性と波動性が相互に排他的となる場合は無いのか。
 
いわゆる二重スリット実験がそうなのか。これは、光子が波として振る舞う証拠と見做されていると思うのだが、そうだとすれば、何故、光子は“波”であることを選択するのか。粒子の地位に留まらない理由は何か。
 
などと自問自答した後で、振出しに戻る。そもそも、粒子とか波とかの定義が不十分なままでの議論では埒が明かない。普通ではない量子論の世界を記述するのに、常識的な粒や波の概念を基礎にするのはナンセンスと言わざるを得ない。
 
素粒子は確率的な存在であるという規定は比較的に容認しやすい。粒とも波とも馴染み易いイメージだ。いっそ“確率子 probabicle”とか“確率波 probabave”とか呼んだらどうだろう。
 
観測されたデータを冷静に理論的に整理して得られるものが真実であるとする立場に立てば、素粒子以下の極微のレベルでは、量子論の描く世界像が正しいと言うべきだ。マクロ世界の常識からの類推を適用してはいけないのだ。
 
結局、光は粒子か波かとの問いは無意味なのだ。両方の特質を兼備する何物かだという他ない。その存在や振る舞いを我々がマクロの世界で認知するのは、粒や波の特質(量子的な光のマクロ的な現象)を通しての間接的な成果なのだ。
 
量子的存在の光(光子)を我々が直接に見たり、触ったり、そのほか感じたりすることは絶対に出来ないのだから、量子論は、あくまでも理論、仮説に留まると言うべきだろう。実用価値のある仮説だ。
 
進歩し続ける科学は、(今の)量子論の通用しない領域に、いずれの時にか踏み込むだろう。新しい仮説の出番の時がいつか来るのだ。
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詩人のための量子力学⑤~波動関数~点確率

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弦だの振動だのと言われると、誰でも音楽を連想するだろう。「詩人のための量子力学」の著者も例外ではなさそうで、“素晴らしい音楽(つまり、量子論)は、練習さえすれば、古いギター(つまり、波動の形式)でも演奏できるのである”と述べている(p.174)。
 
その前段では、“原子に拘束された電子は、弦楽器の振動モードのような波動関数を持っている。
 
拘束されたどんな粒子も、弦楽器に生じる波のようにふるまい、それぞれに対応するエネルギー準位をもっていて、弦を指で鳴らしたときの音のように、量子化され、許された離散的な値しかとらない。
 
弦理論の弦は、相対論的に強化したギターの弦のようなものだ”とも。
 
これらの比喩が、量子論の理解にどれほど役に立つのか、甚だ疑問だが、量子の世界にも現実マクロの世界と似たような現象を想定できるし、また、それ以外に今のところ、原子レベル以下の極微世界を理解する道は無いということなのだろう。
 
不確定性原理で有名なハイゼンベルク(190176)は、プロ並みのピアニストで、また、花粉症に悩んでいたそうだ。
 
“理論家のなかの理論家”だった彼は、量子論と古典的な物理概念とを調和させるために、「行列代数」という数学を物理学に導入した。複素行列の代数にして、線形代数とも呼ばれるそうだ。
 
“線形”と聞くと単純そうに思いがちだが、実はとても厄介な演算を伴うものらしい。この行列代数の検討から、例の不確定性原理が導かれたという。その後、行列代数よりもイメージし易いシュレーディンガーの方程式が提示され、その解として得られる波動関数から、時空の位置における粒子の存在確率を理解することとなった。
 
このことについて「詩人のための量子力学」では端的に“波動関数の二乗は、時間と空間の任意の点において、粒子を発見する確率である”とマックス・ボルンの提案を紹介している。
 
これは、粒子と波の二概念を密接不可分に一体化するものであった。量子レベルでの観測には確率も基本的な要素であることをも意味する。
 
というように理解したのだが、一つ深刻な悩みがある。“点における確率”とは何か。それが有限な実数で与えられるならば、各点の確率の総和は無限大に発散するではないか。
 
“確率の密度(ないしは濃度)”であればその心配は無い。もともと、そういう意味で“確率”は使われているのだろうか。通俗解説書の字面に頼って議論することの空しさを噛み締めるべきか。
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カンレイシュウ~冷夏様々~温暖化傾向

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今日でちょうど1週間、寒い日が続いている。因果関係は不明だが、花期を終えたはずのネムノキやバンマツリなどに戻り咲きが見られる。猛暑の頃に影をひそめていた不快害虫が、気温低下と共に動き出したと思う間もなく、また姿を消した。
 
この時期の平年気温は、最高30℃、最低23℃程度であるが、観測値は最高23.026.9℃、最低19.623.2℃である。戦後の気象データで大雑把に見ると、この異常低温に匹敵するのは、1953’54 ’56 ’58 ’68 ’98 6回ぐらいである。ただし、それらの年が冷夏の年に一致するわけではない。
 
因みに、8月の平均気温で見ると、1953 ’56 ’76 ’77 ’80 ’93 の各年、平年値を2℃下回っている。目立つのは、1980年の23.4℃、平年比-4.0℃であった。この年は7~9の3か月の平均気温で見ても、平年比-2.3℃で、際立っている。今年の8月は平均気温が+0.3℃だったので、特に冷夏であったわけではない。
 
期間を6~8の3か月にとっても、今年の夏は平均26.0℃で、平年比+0.9℃であった。この3か月基準で平年比-1.0℃超の冷夏だったと言えるのは、1945 ’53 ’57 ’77 ’83 ’88 ’89 ’93 2003 9回である。このうち、19452003の両年が共に23.0℃、平年比-2.1℃だった。戦後の全期間を概観すると、1980年代までが低温、1990年代以降が高温の傾向である。
 
青果物の高値傾向が当分続くのかと心配だが、全国の天気で考えれば平均化されるだろうし、予報によれば、明日から気温が上がるそうだから、枕を高くして寝よう。
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詩人のための量子力学⑥~EPR~アポロ

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量子力学の通俗解説書に触発されて愚考を廻らす事柄は多々あるが、切りが無いのと、愚考さえもまとまらないことから、今回、いわゆるEPR思考実験にて打ち止めとする。EPRとは、この思考実験を発表した3人の物理学者 A. Einstein; B. Podolsky, and N. Rosen の頭文字を連ねたものである。以下は、「詩人のための量子力学」の記述を整理したものである。
 
電気的に中性な一つの親粒子の放射性崩壊から生まれる二つの娘粒子の片方がマイナス、もう片方はプラスの電荷を持って反対向きに飛ぶ場合を想定する。
 
量子論(ニールス・ボーアに代表される)では、二つの娘粒子の何れがプラスか、マイナスかは確定されず、二つの可能性が混じりあった量子状態(もつれ)にあると考える。これを観測することによって、もつれが解消され、いずれがプラスか、マイナスかが確定する(量子状態の収束)。観測という行為が粒子に影響を及ぼして元の状態を乱すという古典的な意味ではない。
 
上記3人の物理学者(インシュタイン、ドルスキ及びーゼン)は、娘粒子たちは観測される前からプラス、マイナスいずれかに確定されていると考えた。彼らは、二つの娘粒子が天文学的な遠距離にまで遠ざかってから一方を観測する場合を例示し、量子論による収束には超光速の情報伝達が必要となることから、一般相対性原理に反し、誤りであると論じた(1935)。
 
「シュレーディンガーの猫」のパラドックスも、量子論によるもつれ状態という考えを非現実的なものと思わせる有力な論法である。
 
EPR思考実験の発表から約三十年後に、ジョン・ベルが、それと量子論との決着を付けることのできる実験手法を考案した。その原理は「ベルの定理」としてまとめられる。EPRの主張が正しい場合に成立する不等式(ベルの不等式)が、二つの娘粒子のような場合に成り立つかどうかを観測によって検証するものである。
 
その後の十年あまりの間にさまざまのアイディアも提示され、技術の進歩により、実験そのものも可能となった。結局、EPRから五十年近く経って、量子論は正しいことが実証された。
 
それは、超光速情報伝達があり得ることを意味しない。光速を超える運動や現象は、やはり存在しないのだ。量子もつれの収束とは、そのようなことだと理解しなければならない。
 
という風に理解したのだが、間違っていないかな。肝腎の「ベルの定理」ないしは「ベルの不等式」については、記述が面倒なので端折った。この不等式自体も大変興味深い形をしている。およそ量子論などという超難解な数理物理学にお墨付きを与えたのが、こんな初等算数のような式だったとは。そのアンバランスが印象的だ。
 
ところで、EPRは、日本語ではアポロと表記した方が通り通りが良いのではないか。解り易くなる訳ではないが。
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追記:“量子論による収束には超光速の情報伝達が必要となることから、一般相対性原理に反し、誤りであると論じた(1935”と書いたのは“誤り”だった。正確には“量子論は不完全である”と結論していたとのことだ。
2014.9.3
 

赤い羽根~歌詞復元未完~白い羽根

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“赤い羽根”の歌が幻となってしまったと嘆いたのは3年前のことだった(2011/9/26() 2011/9/27())。その後偶然に音源(国会図書館 デジタルコレクション)を発見し、ほぼメロディは復元できた。しかし、歌詞は聴き取るのが難しく、未だ虫食い状態である。
 
赤い羽根 近藤春雄作詞/森一也作曲/篠原正雄編曲 独唱小谷和子 キング1951-10
 
    ひーら ひら ひーら ひら 赤い羽根  きれいな きれいな 赤い羽根 
町でも 村でも 都でも  どこでも揃って 赤い羽根
 
揃いの ??にも 赤い羽根  ????ゆーらゆら 赤い羽根
我が家に ???に 皆お出で  楽しく ???よ 赤い羽根
 
あの子も この子も 赤い羽根  帽子の 紐にも 赤い羽根
かわいいちょうちょも 飛んでくる  ??????? 赤い羽根
 
ひーら ひら ひーら ひら 赤い羽根  正しい心の 赤い羽根
みんなで明るく 幸せに  元気で行こうよ 赤い羽根 ~~~
 
“赤い羽根”と“赤十字”とが“共同募金”していると思い込んでいたことも書いたが、これまた偶然にも、実際に共同で募金活動をしていた時期があることを知った。
 
共同募金は1947年から始まったらしいが、その年、赤十字も時期を接して募金活動をしたため、末端では評判が悪く、翌48年からは両者合同で実施することになった。
 
ところが、相互に官僚体質が禍したか、関係がギクシャクしたようで、1950年から別個に活動することになった。ただし、時期は間を開けて、赤十字五月、共同募金十月とし、今に至っているようだ。
 
もともと“赤い羽根”はアメリカで、Community Chest 募金活動のシンボルとして使われていたらしいが、今は使わないそうだ。日本の赤十字の募金活動では“白い羽根”をシンボルにしているというのも面白い。
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「赤十字」の歌~軍歌調~婦人従軍歌

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“赤い羽根”に絡んで“赤十字”に関心が向いたついでに、以前から気になっている歌を記録して置こう。そのタイトルもずばり「赤十字」という。
 
いでゝ戦ふ ますらをの 力となるは 何なるぞ
きよき心を 其白旗(そのしろはた)に  そめてかがやく 赤十字
 
刃(やいば)の林 弾丸(たま)の雨 くゞらずとても 国のため
いくさのにはに 少女(おとめ)のいでゝ 盡(つく)すは是(これ)よ 赤十字
 
血しほの流れ 骨の山 こえきてなやむ 大丈夫(ますらを)を
なぐさめみとる やさしき其手(そのて) 盡(つく)せ誠(まこと)の 赤十字
 
曲は、ホ長調(4♯)4/4拍子、♩=88 ‘威を以って’と指示されている。全16小節で、2小節ごとに山型を繰り返す歌い易いメロディーだ。作者不明である。どこからダウンロードしたのかも判らなくなった。国会図書館のデジタルコレクションだったと思うのだが。
 
   ソ|ドードド|レ・シソソ|ミーミ・ファ|レー ~
 
調べてみると、同名の歌が複数残されていると判る。その一つは別名「婦人従軍歌」(歌詞 菊間義清、楽曲 奥好義)と言い、“火筒(ほづつ)の響き遠ざかる~”の歌い出しで、結構親しまれたらしい。
 
メロディーは、どこかの軍歌から借用したような印象である。大体、戦前の日本赤十字社は、軍部との結び付きが強く、軍隊の補助組織のような性格があったようで、重要事項の決定には陸・海軍大臣の許可を貰っていたらしい。戦地での救護活動中に不幸にして命を落とし、靖国神社に合祀された人もいるとか。
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科学的観察~芸術的完成~人体解剖 

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長崎県佐世保市で726日に発生した“女高生級友殺害切断事件”について、あることが気になっていた。
 
独立行政法人科学技術振興機構(JST)という公的な団体が発行する季刊雑誌Science Window2014 年春号(4-6月)/第81号は[特集:わたしの体が教えてくれる]を特集した
 
 
色刷りの図判を豊富に散りばめた読み易い科学解説誌である。表紙絵の説明に次のような記述がある:
 
レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた『ウィトルウィウス的人体図』。ウィトルウィウスは古代ローマ時代の建築家で、著書『建築について』には、建築のことだけではなく、肩幅は身長の1/4になるなど、人体にかかわる比率についても記述されている。
これを読んだダ・ヴィンチが視覚化しようと考え、描いたのがこの絵だといわれている。ダ・ヴィンチは、ミケランジェロと同様に、人体の構造を知りたくて解剖をしていたとも伝えられている。
 「人体を切らずに体内を見られるようにしたレントゲンの開発は画期的だった」と評するのは、解剖学者の坂井建雄先生。現代ではさらに進歩したCT(コンピューター断層撮影)やMRI(磁気共鳴画像)などの体内を見る装置が普及している。”
 
続いて 人体には無限に学ぶべきものがあるでは、《人体をありのままに見る 科学イラストレーター 木村政司》が次のように述べる:
 
“バチカン市国にあるシスティナ礼拝堂を訪ねて、上を見上げると、、、、イタリア人画家のミケランジェロが描いた『アダムの創造』です。ルネサンスを代表する作品です。
ルネサンスの芸術作品の特徴は、リアリズムです。見えるままに描く。この絵の人体も、筋肉の付き方、体のしなり、骨格のバランスが見事に描かれ、、、、
ミケランジェロは人体を解剖していたと言われています。当時、画家たちは人の体を完璧に描こうと、人体を切り開き、その構造を理解しようと努めていました。私も、科学イラストを制作するために、解剖に立ち会ったことがあります。初めて見る人体の内側を目の当たりにしたとき、私はルネサンスの画家たちとつながったと感じました。
……あの画家たちは本物の人体の内側も見つめたからこそ、あれほどの存在感を持つ絵を描けたのだと思います。
、、、今の私たちには、人の体の中を見る機会がほとんどありません。むしろそれを避けています。
、、、体をありのままに見ることは、自然を見ることと同じ。この自然物が、いろいろなことを教えてくれるのです。
、、、人々が人体を見つめることをやめたら、ルネサンス以前に戻ってしまいます。もっと、大人も子どもも、人体の内側をありのままに観察できる機会があるといい。その経験は、きっと自然をありのままに見つめる力をはぐくんでくれるはずです。” 
 
実体を在りのままに観察する科学的な姿勢の大切さを述べたものだが、    偶々、社会的な常識的な判断を欠く者がこれを読んで、手近の“人体”で悪気も無く、罪の意識も無く、実践しようという気になりはしないか、と気になった。
 
科学と芸術に親しむことは、鑑賞であれ、創造であれ、均整のとれた精神を育む上に有益と思われるが、独り歩きには思いがけない落し穴の危険がある。
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落葉松迷路~北原白秋~平井康三郎

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「落葉松」を歌う季節になって来た。同名の曲がプログラムの表記を誤らせたコンサートについて書いて落葉松~平井康三郎/北原白秋~小林秀雄/野上彰 2010/4/28()早くも4年余り過ぎた。
 
我々素人に馴染みの「落葉松」は、北原白秋の次のような詩によるものだ:
 
からまつの林を過ぎて、 
 からまつをしみじみと見き。 
 からまつはさびしかりけり。 
 たびゆくはさびしかりけり。~~~  「水墨集」から
 
曲を付けた音楽家は数十あるいは百余に及ぶとか。ここ数年実際に歌っているのは、後藤惣一郎の作曲したものである。もともと学校生徒向けに作ったと言われるように、歌い易いのと、楽譜が手許にあるという、安易な理由による。
 
数十年前に音楽の授業で教わった「落葉松」は、検索したところ、井上武士の作曲であった。メロディーの細部はともかく、ほぼ覚えていた。
 
コンサートで独唱されるのは、野上彰/小林秀雄の「落葉松」が圧倒的に多い。ピアノも活躍するので、聞き映えするからだろうか。
 
落葉松の秋の雨にわたしの手が濡れる
 落葉松の夜の雨にわたしの心が濡れる ~~~
 
これら二つの「落葉松」だけならさほど混乱することも無いだろうが、北原白秋には別の「落葉松」があり、ややこしくなる。
 
浅間千ヶ滝
からまつ原よ
下(しも)は追分
合(あい)の宿(じゅく)

駒の沓掛
追分手綱
唄もいそいそ
軽井沢    ~~~        「日本の笛」から  

こちらは、平井康三郎が作曲している。一度も聴いたことは無いが、楽譜でメロディーを追ってみると、歌い易そうで、何やら民謡風の印象を受ける。合唱版があれば取り上げてみたい。
 
備忘録(幾つかのサイトから情報を得た。):
 
北原白秋 1885-01-251942-11-02  「落葉松」作詩は1921か。
水墨集   詩集  発行1923.6.30 アルス
  作曲 後藤惣一郎 1963 全国作曲コンクール(文部省など主          催)第1位 その後、中学校音楽教科書に採用された。
      長村金二  1936 NHK国民歌謡
 日本の笛  歌謡集 発行1922.4.10 アルス、 
   作曲 平井康三郎  1943
野上彰  
落葉松 作詩 1947 軽井沢  
作曲 小林秀雄  独唱曲 1972、女声合唱 1976、
                       混声合唱 1984                    NHK全国学校音楽コンクール高等学校の部課題曲 1985
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オペラミニコンサート~歌手3世代~歌の力

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昨日、帰宅の途次、地下広場で開かれていたコンサートを途中からではあるが、聴く事が出来た。久し振りに聴く生の歌声が心地よかった。こぢんまりとした会場設営であったが、熱心なお客さんが盛んに声援を送っていた。
 
オペラミニコンサート   NPO法人チッタディーノオペラ振興会
 
頂いたチラシで見ると、7曲演奏されており、そのうち後半の3曲とアンコール曲を聴いたことになる。
 
5 レハール 《ほほえみの国》から「君はわが心のすべて」 村田耕太郎
6 プッチーニ《トスカ》から「星は光りぬ」 武田友実
7 ヴェルディ《椿姫》から「乾杯の歌」 田村佳子・武田・村田
アンコール    O sole mio    武田・村田
 
主催団体は、若手の歌手に演奏の機会を与える活動をしているとのことである。今回の出演者3名のの力量は、明らかに3段階に区分できた。ソプラノ田村は、出来上がったオペラ歌手、テノール武田は修業段階の歌手、村田は練習生というのが当管理人の印象である。
 
終演後、妻子と共に地下鉄乗り場への通路を歩く若そうな男性が O sole mio の断片を楽しそうに歌っていた。歌の力で抑制から解放されたのか、微笑ましい場面に居合わせて、当方も気分良く家路についた。
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美空ひばり25年~山田耕筰50年~コラボ60年

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後藤暢子「山田耕筰」(ミネルヴァ書房 2014.8.10)をざっと読んだ。後藤は山田耕筰研究をライフワークとしているようだ。生誕百年特集記事を組んだ「音楽芸術」1986年2月号に《自伝「若き日の狂詩曲」批判》を載せている。
 
恐らく半世紀にわたって耕筰の事績を丹念に検証してきた成果をまとめた著書だ。当管理人などの知らないことが山盛りなのだが、最も意外なのは、耕筰が美空ひばりのために作曲したという事実だ。
 
記述によれば、1955年に、「風が泣いている(風のシャンソン)」と「山の小駅」(作詞宮本吉次)の2曲を作曲した。念のためネット検索すると、結構有名な歌らしく、知らなかったのは誰かさんだけということのようだ。
 
自宅でひばりに歌唱指導した耕筰は、彼女の発声法を危ぶんだという。太い低音の声と、張り詰めた高音の声と、まるで別人のような二様の声をさしている。
 
もっと自然な発声で歌うようにすすめたということだが、大先生の忠告は容れられなかったようだ。ひばりのひばりたる所以のものを取り去るわけにもいかないだろう。
 
ひばり没後25年に当たり、没後50年を控える耕筰の作曲したひばりソングを歌ってみようかな。
 
風が泣いてる日暮れの風があの日別れた人のよに風じゃあるまい ~
 
君と別れてひとりで帰る暗い路こゝろしみじみ振り返りゃ山の小駅に ~
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深尾須磨子~山田耕筰ラジオ歌謡~佐藤春夫

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山田耕筰が美空ひばりソングを作曲したことほどには驚かないが、やはり意外に思ったのは、ラジオ歌謡にも手を出していたということだ。
 
後藤暢子によれば、1951年に深尾須磨子作詞の「手まりうた」を、1952年に佐藤春夫作詞の「名所の四季」を作曲したという。ラジオも無い境遇にあった者には、全く記憶に無い歌だ。
 
前者は19521月に、後者は19531月頃に放送されたとの情報が有る。
 
まりつきましょてんてまり 一つひとりでつきませう ~
 
春はあけぼのむらさきに 横ぐも匂いただよいぬ ~
 
(サイト 昭和初期の映画主題歌あれこれ による。)
 
ラジオ歌謡(及び戦前・戦中の国民歌謡、国民合唱など)には、錚々たるクラシック系の作曲家が以前から多数名を連ねているから、山田耕筰の登場は、むしろ遅きに失すると言うべきか。
 
尤も、耕筰の方が、歌謡曲など眼中になかったかも知れない。戦後になって、さすがの大先生も生計を立てる為には客を選んでいる余裕が無かったとも考えられる。後藤暢子の論調に倣えばそういうことになる。
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戦意昂揚の歌~山田耕筰~平和の歌

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先の大戦中は軍服、軍刀を着用して、国民を戦争協力に駆り立てた山田耕筰が、戦後は一転して平和主義の歌を作曲した、などと目くじら立てる時期は疾うに過ぎた。
 
それでも、具体的に、彼が(広島の?)平和の鐘楼建立会から委嘱されて、《平和を讃える三つの歌》を作曲した(1950.81951.2)と教わると、感動する。
 
後藤暢子によれば、湯川秀樹、斎藤茂吉、永井隆の短歌各1首に曲を付けたものである。改めてネット検索して、次のことが判った:
 
平和を讃える三つの歌
1.    ものみなの    湯川秀樹  
        物みなの 底に一つの 法ありと 日にけに深く 思ひ入りつつ
(日にけに=日ましに)JSTNews vol.5/No.2 2008-5月号 による。
  
2. あめつちに    斎藤茂吉  (‘あめつちに’以下は不明)
 
3. 燔祭の      永井
         燔祭の 炎の中に 歌いつつ白百合おとめ 燃えにけるかも
 
これら3曲を一部試聴できるサイトがあり、聴いた限りでは、それなりの力作のようだ。「ものみなの」は無調音楽風である。「燔祭(はんさい)の」はオーソドックスな女声合唱曲だった。「あめつちに」は両者の中間的な印象の独唱曲だった。
 
当管理人なりの理解では、哲学的、思索的な第1曲では無感情な印象の無調曲とし、第2曲では人の意識を現実世界に近づけ、第3曲で耳に馴染むメロディーに乗せて救いの思いを湧き起こして終わるという組み立てをしたのではないか。尤も、3曲の全体を聴いたわけではないので、妄想に等しい希望的推測でしかない。
 
「燔祭の」は、別途、かなり激しい論争をもたらしたらしい。永井隆の評価に係わる論争があったとは、全く知らなかった。
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歌のつどい~蘇州夜曲~秋の歌

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本日、北国の《さくらの会》による「歌のつどい」を終えて帰って来た。ここ数日、その準備作業に追われて、いざ本番までスタミナを保てるかと不安があった。
 
幸い、出演者一同、ベテラン揃いで、落ち着いて無難にそれぞれの役割を果たし、結果的には予想以上の盛況のうちに幕を下ろす事が出来た。
 
さくらの会 合唱のつどい
平成26年9月15(月・祝) 13:0015:00 
秋田県国民文化祭サテライトセンター
第1部
どじょっこふなっこ青森・秋田民謡/補作 豊口清志・岡本敏明
落 葉 松     作詞 北原白秋/作曲 後藤惣一郎
落 葉 の 歌         作詞 川路柳虹/作曲 シュルツェ
真 白 き 富 士 の 根  作詞 三角錫子/作曲 インガルス
山 の ロ ザ リ ア     作詞 丘灯至夫/ロシア民族舞曲
山 は 夕 焼 け        作詞 海野厚作曲小田島樹人
 参考に、東海林太郎歌唱の同名の歌謡曲(作詞:岡田千秋作曲:田村しげる)の第1節を紹介。
子 を 頌 ふ    作詞 城左門作曲深井史朗
 参考に、「父母のこえ」(作詞与田準一/作曲草川信太郎。学童疎開の歌)の第1節を紹介。
二つの「ペチカ」作詞 北原白秋/作曲 山田耕筰・今川節
Flowers will bloom 花は咲く 訳・作詞 R. Pulvers 作曲 菅野よう子
 
第2部 みなさま一緒に歌いましょう
 
 蘇州夜曲   昨日報じられた山口淑子の逝去を悼み、急遽組み込んだ。
 とんぼのめがね  参考に、「赤い羽根の歌」第1節を紹介。
 証城寺の狸囃子 
 虫のこえ
リンゴのひとりごと
星の世界
里の秋
もみじ
ふるさと
 
予定通り、ちょうど1時間で旨い具合に終了した(と言うか、少し多めに用意した曲目を残り時間に合わせて調整した)。いつものように、ひとしきり汗を掻いた。開演前にちゃんと食事を摂ったのだが、終演と共に空腹を覚えた。結構な運動量だったのかもしれない。
 
二週間後にまた北国で今日のプログラム第1部を再演することになっている。やはり、文化の秋、か。
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「ジャスラックの歌」~山田耕筰~ジャスラック管理

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後藤暢子「山田耕筰」に、耕筰は「ジャスラックの歌」というのを作曲したと書かれている。ジャスラックの設立に関係した縁によるらしい。ネット検索したところ、日本音楽著作権協会創立25周年記念歌(作詞:西条八十)であると判明した。
 
ジャスラックのHPによれば、その設立は1939(昭和14)年1118日だそうだから、25周年は1964年のことだ。ということは、「ジャスラックの歌」は、耕筰の最晩年の作品の一つと言っていいのだろう。ジャスラックの管理する作品として登録されている。
 
どんな歌なのか、その片鱗でも判ればと思い、更に検索したが、皆目判らなかった。国会図書館の検索機能でも引っ掛からない。ということは、耕筰の作品全集にも収録されていないと考えられる。つまり、出版されていないのだろうから、一般人の目に触れることは有り得ないと考えられる。
 
日本音楽著作権協会創立25周年記念のパンフレット類か年史に掲載されているとしても、それを見る機会のある人は組織内部か周辺に限られるだろう。よほど奇特な研究者がそれを“発掘”して世に紹介しない限り、日の目を見ることは無いだろう。
 
尤も、“協会創立25周年記念歌”だから、式典で演奏されれば目的を達したことになるとも考えられる。敢えてほじくり出す必要も無いということか。
 
なお、同名、類名の歌が複数存在するようである。
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昭和天皇退位論~右も左も~不動の国民

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冨永 望著「昭和天皇退位論のゆくえ」(吉川弘文館2014/05/20)を粗読した。著者によると、退位の可能性は4度ばかりあった。退位を求める声は、左翼からのみならず、右翼からも同様に上がっていたとは知らなかった。その論理は、やや持って回ったような感はあるが、聞けば納得する。
 
要するに、新しい軍隊の精神的な支柱となるべき天皇が、敗戦の責任者であっては具合が悪いということだったらしい。右翼の退位論者は、決して天皇制の廃止を見据えていたのではなく、逆に、強固な天皇制の再構築のために新しい天皇を望んでいたのだ。
 
退位論は、天皇の戦争責任論と不可分の関係にあった。右側にも、左側にも、天皇に責任があるとする論者がいた。軍事裁判に掛けられたレベルの軍人の中にも、天皇が責任を取らないのは筋が通らないと述べる者がいたそうだ。つまり、自分たちだけが裁かれるのは心外だということだろう。
 
ここで思い出すのは、これと同様な山田耕筰の居直り論法だ。市井においても天皇の戦争責任は結構議論されていたということか。ただし、著者によれば、戦後まもなくの頃でも、一般人の間では、天皇には戦争責任は無いとの認識が普通だったそうだ。
 
一方、昭和天皇自身はどう考えていたかというと、著者によれば、終始、留位(退位の逆)の意思を明確に持っていたらしい。みずから退位するつもりは毛頭無かった。その理屈付けは、文書資料によれば、“我が国の悲惨な状況からの立直りに努力して責任を果たしたい”ということのようである。
 
開戦の詔勅を発したことの責任は感じていなかったようだ。特殊な教育を受け、特殊な環境に置かれていた人に、あまり多くを期待することはできない。天皇の留位希望は、日本を同盟国として育てようとするアメリカ側に、天皇を利用する道を取らせた。
 
復興責任の論法が、天皇自身の心から出たのか、周囲の作文か、知る由も無いが、今でも頻繁に聞かれる居座りの口上に通ずる。失敗、過失の責任を取らない世の風潮は、昔から連綿と続いているのだ。これからも続くだろう。寛容な国民性に支えられて。「海ゆかば」など古い歌の好きな当管理人、大言壮語する柄でもないが。
 
ところで、「天皇制」とは、もともと共産党の用語だったそうだ。従って、帝国時代には、この言葉は、公然とは用いられなかった(議論すること自体が畏れ多い?)。それが、いつの間にか、国会の質疑で、政府側も使うようになったのだそうだ。
 
“ガンバロー、ガンバロー、ガンバロー、”と三唱して拳を突き上げるパフォーマンスが体制側にも定着したのと軌を一にするのか。
 
若い研究者から教わることが多くなった。
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赤い橋の殺人~罪と罰~亀谷乃里

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バルバラ/著「赤い橋の殺人」(亀谷乃里/訳 光文社2014.5)を疎読した。著者名、書名ともに初見だが、書評で“ドストエフスキーの「罪と罰」の原型を成した”とか紹介されていたのに惹かれて図書館にリクエストしたような気がする。
 
下手に書き換えるより、出版社のPR文を引用しよう:
 
“フランスで150年もの間、忘却の闇に埋もれていた作家が、一人の日本人研究者によって「発掘」され、いまや本国でも古典の地位を獲得しつつある。この作家こそが、バルバラである。ボードレールの親友であり、巧みなストーリーテリングと文体の音楽性、そして哲学的思考に秀でた稀有の小説家である。本書は彼の代表作。
 
19世紀中葉のパリ。急に金回りがよくなり、かつての貧しい生活から、一転して社交界の中心人物となったクレマン。無神論者としての信条を捨てたかのように、著名人との交友を楽しんでいた。だが、ある過去の殺人事件の真相が自宅のサロンで語られると、異様な動揺を示し始める。
 
“訳者 亀谷乃里 Kameya Nori
慶應義塾大学および大学院でフランス文学を学ぶ。ニース大学で博士号取得。慶應義塾大学講師を経て、女子栄養大学教授。ボードレール研究のほか、その友人で、長らく文学史から忘れ去られていた作家バルバラの作品を「発掘」、再評価したことで知られる。”
 
本文を読まずに、粗筋紹介だけを読んで作品を解ったような気になるのは良くないが、本書は決して読み易い“小説”ではない。翻訳書特有の読みづらさを別にしても、哲学論的な会話が延々と続いたりする箇所は飛ばし読みしたくなる。
 
そうした粗読の後に残る印象はと言うと、奇跡的な巡り合せで旧友が一つの埋もれていた事件の露顕に立ち会う面白さや、痛快冒険譚の趣である。つまり、筋書きはよく出来ており、退屈しない。更に、それが彼の有名な「罪と罰」に“驚くほど似ている”と聞くと、大変重要な歴史的な作品を読んだ時の満足感が得られる。
 
“訳者解説:この作品に連なるものとして、「罪と罰」(1868)、「カラマーゾフの兄弟」(1879)がある。「罪と罰」は「赤い橋の殺人」に驚くべき類似性を持つ。ドストエフスキーが「赤い橋の殺人」を読んだ可能性はないとはいえない(これについては拙論をお読みいただきたい1)。現代フランス文学、ロシア文学を専門とし、作家でもあるシルヴィ・オレも中・高校生の教科書として単行本で出版した「赤い橋の殺人」(2010)の最後を締めくくるにあたって示唆するように、バルバラは反抗の哲学、自由意思の思潮に関して、確かに過去から現代に変わるターニング・ポイントであり、そこからドストエフスキーを経て、ニーチェ、アンドレ・マルロー、カミュ、サルトルへと続いて現代の我々に至るのである。
1Nori KAMEYA, “Dostoïevski, auteur de Crime et châtiment, a-t-il lu L’assassinat du Pont-Rouge de Charles Barbara? ”, Revue de Littérature comparée, Paris, (Didier) Klincksieck, vol.37, no.4, p.505-512, Oct. 1993.  (pp.248-249)”
 
亀山郁夫氏推薦!(ロシア文学者)"これぞフランス版『罪と罰』だ" 
 
「罪と罰」を昔読んだ記憶は無い(罪と罰~ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ ~666 2012/1/22())。そこで、安直にも、ウィキペディアでその“あらすじ”を把握した。確かに思索好きの青年があこぎな金持ちを殺害し、その露顕を免れつつも、予審判事の働きで追い詰められる(破滅する?)のは同じである。出版の時期は、「赤い橋の殺人」から「罪と罰」まで約十年である。内容の酷似は、ドストエフスキーが「赤い橋の殺人」を読み、触発されて「罪と罰」を書いたことを推定させる。
 
このことを約百二十年後に日本人研究者が初めて明らかにしたというのは驚きだ。それまで、本場フランスやロシアの誰も気付かなかったとすれば、「赤い橋の殺人」が比較的短期間に忘れられてしまったことが与っているのだろう。それが百五十年も後に発掘され、脚光を浴びるのは、外国での翻案作品が世界的な名作として名を残したことによるとは、いささか皮肉な巡り合せではないか。
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大網かおり~渡邊仁美~天使の声

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虎ノ門のオフィスビルでランチタイムコンサートを聴いた。
 
「華麗なるオペラアリアの世界」S大網かおり、S渡邊仁美、Pf飯田彰子
 
グノー 「アヴェ・マリア」 二重唱
プッチーニ  《ラ・ボエーム》から 「私に名はミミ」 渡邊
「ムゼッタのワルツ」 大網
グノー 《ファウスト》から 「宝石の歌」 渡邊
メンデルスゾーン 「歌の翼に」 二重唱
越谷達之助 「初恋」 二重唱
山田耕筰 「この道」 二重唱
アラン・メンケン《アラジン》から「ホール・ニュー・ワールド」二重唱
 
他にも歌われたようだが、聞き逃した。大網は何回か聴いたことがあり、美声の持ち主と判っている。渡邊は記憶に無かった。多分、初めてだと思う。こちらもなかなかの実力がお有りのようだ。
 
声質は大網のリリコに対して、渡辺のドラマティコと言ったところか。最高音がやや上がり切らないと思われた時には、すかさず押し上げる余裕があるのは、さすが、プロだ。
 
二重唱で“天使の声”が聞こえたような気がした。聞こえて当たり前か、それとも錯覚か、自信が無い。もともと、お二人が“天使の声”だから、拘ることもないか。
 
曲間で司会者に何か要求しているおじ(い)さんがいた。彼女は時間仕事で雇われて原稿を読んでいるだけだから、対応のしようが無いだろう。暫しの沈黙の後、演奏は再開されたが。
 
彼が何を要求したのか、それが満たされたのか、不明だ。配布されているプログラムの記載内容と実演内容とに差異があり、曲目を把握できないことに不満を表明したのだろうか。
 
確かに、司会者の言葉を聴き取りにくい場合は稀ではない。そんな時、当管理人は諦めが早い。
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訪問コンサート~ウッド・ブロック~三小テノール

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ボランティア・グループで老健介護施設へコンサートの出前をした。演目は次の通り:
 
1.手のひらを太陽に
 2.七つの子
 3.山の音楽家
 4.達者でナ
 5.きらきら星変奏曲(合奏)
 6.花(すべての人の心に花を)
 7.カチューシャの唄
 8.はるかな友に
 9.赤とんぼ
10.いのちの歌
11.トロイメライ(合奏)
12.オペラ「ワリー」より さようなら、ふるさとの家よ(ソプラノ・ソロ)
13.もみじ
アンコール ふるさと
 
参加者は、歌15、楽器5(ヴァイオリン2、チェロ1、プサルター1、フルート1)、ピアノ1、指揮(兼ソプラノ・ソロ)1の計22名という大部隊であった。お客さんは4,50名と見た。
 
「山の音楽家」の第3節の“たぬき”の役を割り振られ、太鼓に見立てたウッド・ブロックを叩かされた。パフォーマンスは得意ではないのだが、必要最低限のサービスを心掛けた。
 
「達者でナ」は最高音のが女声陣には無理ということで、男声陣3人がメロディーを担当した。滅多にない編成なので、お客さんには好評だったようだ。次回からは、3人で3節を分担ソロにしようかと持ちかけられたが、危なっかしいと答えておいた。
 
愛唱会に特別参加する賛助会員のリクルート活動をした。少なくとも一人は目途が付いた。
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