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Channel: 愛唱会きらくジャーナル
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謎の蜂蜜漬け~果実名不詳~毒見試食

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身近な果実を机上に飾って鑑賞するささやかな楽しみを続けているが、問題は後始末だ。放置すれば黴る、あるいは、腐るものが多い。
 
それは勿体ないと思われるときは、蜂蜜漬けやジャムにしたりする。冷蔵庫に仕舞い込んで忘れることになる。庫内で黴たり、家人に捨てられたりすることもある。
 
ふと思い出して昨日取り出して見た蜂蜜漬けは、草色の表面に黒い斑点が目立ち、何やら浮遊物が漂っていたが、腐ってはいないようだった。自分が仕舞い込んだことは確かなのに、何の実だったか、思い出せなかった。
 
恐る恐る食べてみた。固くて、酸っぱくて、味は青リンゴに似ていた。それでも蜂蜜の甘さが勝って食べることは可能だった。ボソボソとした舌触りはカリンを思わせた。有毒果実だったらどうしよう、と不安ながらも食べ、漬け汁も飲んだ。
 
後で記憶が蘇り、その果実の正体はボケ(木瓜)であると確信できた。ネット検索すると、ボケの実をそのまま食べるという記事は無く、ジャムにしたり、果実酒にしたりするのが普通の利用法であると知れた。
 
今度、入手できたら、加熱処理した上で蜂蜜漬けにしてみよう。
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三角~男女~参画

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山折哲雄氏と言えば、今を時めく“哲学者”だ(と理解している)。その山折先生の「『門』の内と外」という随想を読んだ。
 
肩書及び標題から、哲学的かつ抽象的な思索の展開を想像するが、実際は“男女の三角関係”の文学についての随想であった。全く、意表を突くネーミングだ。
 
源氏物語から夏目漱石に飛ぶ随想は興味深いが、ここでは深遠な内容には踏み込まず、言葉尻のレベルで鑑賞しよう。
 
“姦通の物語がそのまま葛藤の輪をさらにひろげて、三角関係の泥沼の暗闘にまでつきすすむような、、、”というさり気無いくだりで読む流れが止まった。それまで、姦通と三角関係とは殆ど同義語のようにしか認識していなかったからだ。
 
読み進むと、“英国に留学した漱石は、西欧文学の伝統のなかで姦通の問題が人間に深刻な三角関係を呼びおこすということにあるとき気がついた、”との記述に出会う。
 
ここに至って、三角関係とは、姦通が隠密裏に留まらず、利害関係者の知る所となり、三者の間に具体的な紛議を生じている状態を指すらしいと察しが付く。
 
これはこれで一件落着であると同時に、愚脳が以前感じていた違和感も解消された。単純に“姦通=三角関係”と認識していた頃、姦通の各当事者の利害関係人(それぞれ一人と想定する)を含めた計4人を並べてみたところで、直ちには三角形にはならないからだった。
 
当事者の一方だけに着目すれば、人数は3になるが、そのままでは閉じた三角形ではない。三人のそれぞれが他の二人と目に見える関係を有して、初めて三角関係になるという、つまらない問題意識だった。
 
結局、己の用語理解が不正確だったのだが、とにかく山折先生のお蔭で、すっきりした。先生が夢にも思わないような低次元の効用で、申し訳ない。
 
愚考ついでにもう一つ思い出したので蛇足を付す。
 
近年、“男女共同参画”なる表現を頻りと見掛ける。この語を冠した集会施設を我々も日ごろ活用している。某日、某氏が“ダンジョサンカク、、、”とか何とか発言した。フルネームが長いので、つい“共同”を抜かしたものだが、すかさず“サンカクカンケイ”とチャチャを入れられた。
 
勿論、“男女平等”と伝統的な用語を冠する施設も健在だ。
 
言うまでも無いが、随想標題の『門』は漱石の小説である。
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急逝~同年輩~同窓

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ほぼ毎日、取り留めの無い想念を日記に綴りながら、漫然と生きているが、たまに冷厳な現実に連れ戻される。それは、納税告知書を受け取った時だったり、訃報が舞い込んだ時だったり、企画提案が却下された時だったり、いろいろある。
 
きょうは訃報。直接的到来ではなく、偶々きょう届いた句会報告に付随する情報だった。“既に○○でご存知でしょうが”との書き出しで、関係者には通知されているらしいと判る。小生はその連絡網から漏れてしまったらしい。確かに、会合には殆ど出席していないから、愛想を尽かされても文句は言えない。
 
訃報に乗せられたのは、人付き合いの悪い小生にしては珍しくコンタクトの多かった人物だったのだが、生憎ここ数年は年賀状の交換だけに留まっていた。去る者は日々に疎し、か。丈夫そうな人だったが。
 
急逝ぶりが気になる。入院先から選句結果を携帯電Eメールで句会の世話人に送信して来たのが9月14日だそうだ。その約1週間後に亡くなったものと思われる。
 
昨年8月にも似たようなケースがあった。最も頑丈な部類に属すると誰もが見做していた男が、入院先からグループ幹事にEメールを出した後2週間で不帰の客となった。
 
二人とも小生と同年輩、同窓だ。平均寿命には十年ほど届かなかった。どちらもガンだった。月並みな言い方だが、己の健康を過信してはいけないのだ。健康診断の結果を聴きに行かず、ほったらかして置くなど、以ての外だ。反省。
 
        掘り上げし 蓮根食えば 友逝きぬ
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ランチタイムコンサート~ライトジャズ~エノケン

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近くの区役所地下広場でランチタイムコンサートをやっていた。普段、声楽以外には興味が湧かないのだが、“ライト”ということで心理的な敷居を低くしたようで、聴いてみる気になった。
 
ライトジャズ
 ジョゼフ・コズマ作曲     「枯葉」
アントニオ・トム・ジョビン作曲「イパネマの娘」
デューク・エリントン作曲   「In A Sentimental Mood
コール・ポーター作曲     「夜も昼も」
ウォルター・ドナルドソン作曲 「私の青空」(日本語ヴォーカル付き)
 
出演は、これまた近くの音楽専門学校の学生さんたちで、編成は次のようだった:
 
Tenor Sax  女  声楽の“テナー”と違って、低い音だ。
Bass    男  電気の力は借りていなかったようだ。
Guitar   男  派手なアクションの無い、大人しい演奏ぶり。
Drums   男  一人で5個?の打楽器を殆ど同時に操る。
Piano    女  可愛い子が、ろくろ首のような仕草をする。
Vocal    女  奏者の紹介と終演の司会も上手に。
 
「私の青空」の日本語版をエノケンさんが作ったとも取れるような説明をしていた。彼は歌っただけだと思うが、それにしても、“日本の方ですが”と注釈を付けるあたり、もう若い人には馴染みの無い名前なのだなあ。
 
ライトジャズ”に対して、“ヘヴィージャズ”とか“ミドルジャズ”などもあるのだろうか。
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彼岸残暑~駒井ゆり子~総合芸術家

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“暑さ寒さも彼岸まで”と昔教わった。きょうは未だ彼岸の内、残暑が律儀に別れの挨拶に来たような一日だったなあ。最高気温は平年より4度ほど高く、(毎正時の)湿度は90%まで上がった。
 
蒸し暑さに閉口しながら上野の山に登り、文化の響きを浴びて来た。
 
Music Weeks in TOKYO 2014 まちなかコンサート~芸術の秋、音楽さんぽ~」925日)国立西洋美術館 声楽&フルート&ピアノ
  ソプラノ:駒井ゆり子 フルート:西田紀子 ピアノ:岩撫智子
 
<18世紀>
フラゴナール「丘を下る羊の群」に寄せて フォーレ:月の光
<19世紀〜20世紀>
モネの作品群に寄せて ドビュッシー:シランクス
ロセッティ「愛の杯」に寄せて 
           ドビュッシー:カンタータ「選ばれし乙女」より抜粋
ドニ「雌鶏と少女」に寄せて 
           ドビュッシー:マラルメの3つの詩より「扇」
エルンスト「石化した森」に寄せて オネゲル:洋梨の歌
ゴッホ「ばら」に寄せて ビゼー:「アルルの女」よりメヌエット
                        シューマン:ばらさん!ばらさん!
                        R.シュトラウス:「4つの最後の歌」より眠りにつくとき 
 
駒井は立派なソプラノだが、それに留まらなかった。フランスの美術と文学にも造詣の深い、言わば“総合芸術家”なのだ。
 
自分で選んだ西美所蔵作品のコピーに合せて、立て板に水の如く、歴史上重要な美術や文学の作品と音楽作品とを関連付けて解説しながら歌を聴かせた。
 
絵画、文学及び音楽におけるジャポニスム、シュールレアリスムの絵画、文学、音楽等々。
 
歌の上手な人が世の中にこうも多くなると、プラスアルファ、何がしかの付加価値を有する人が抜きん出てくるのかと感心した次第だ。
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遊学舎まつり~北国のコーラス~多事多難

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昨日は北国の生涯学習施設の恒例文化祭で、さくらの会が合唱を発表した。曲目は2週間前の“歌のつどい”での発表と同じだが、今回はピアノ有りだった。
 
どじょっこふなっこ青森・秋田民謡/補作 豊口清志・岡本敏明(無伴奏)
落 葉 松     作詞 北原白秋/作曲 後藤惣一郎
落 葉 の 歌         作詞 川路柳虹/作曲 シュルツェ
真 白 き 富 士 の 根  作詞 三角錫子/作曲 インガルス
山 の ロ ザ リ ア     作詞 丘灯至夫/ロシア民族舞曲
山 は 夕 焼 け        作詞 海野厚作曲小田島樹人
 参考に、東海林太郎歌唱の同名の歌謡曲(作詞:岡田千秋作曲:田村しげる)の第1節を紹介。
子 を 頌 ふ    作詞 城左門作曲深井史朗
 参考に、「父母のこえ」(作詞与田準一/作曲草川信太郎。学童疎開の歌)の第1節を紹介。
二つの「ペチカ」作詞 北原白秋/作曲 山田耕筰・今川節
Flowers will bloom 花は咲く 訳・作詞 R. Pulvers 作曲 菅野よう子
 
立派な会場で、ステージも本格的だが、お客さんはいつもの通り少なかった。何と言っても交通の便が悪い。バス路線には一応入っているが、週末は本数が極端に少なく、昨日もたっぷり1時間待つこととなった。
 
(当管理人を含む)交通弱者のお年寄りを大勢乗せてバスは快調に走る。途中で車いすの障害者を乗せるため、所定の位置の席を空ける。
 
地方のバス料金は高めに設定されているようだ。初めこそ200円未満で割安感を演出するが、実際に乗車する区間では忽ち200円、300円と急上昇する。目的のAバス停が近付いてきたと思う頃、運転席上部の運賃表示が妙な動きを始めた。
 
Aバス停まで300円”との表示が出たので、300円分を用意したのだが、そこへ到着する前に表示が勝手に先を急ぎ出した。つまり、Aバス停を通らず、四次元空間を移動して先の方に進んでしまったのだ。勿論それは運賃表示盤上だけの話だ。
 
とにかく驚いて運転手に問いただしたが、ご返事がまだるっこい。結局、表示が狂っていることは先刻ご承知なのだ。あとで仲間が言うには、地元の人達もこの狂いのことをご承知で、余所者と運転手の問答を黙って聴いていたらしい。
 
運賃は320円と宣告された。少額ながら、ぼられたような気分だった。公共交通機関でこのようなことが放置されているとは、全く信じ難いが、現実にあったことだ。
 
そんなこんなで、肝腎の演奏の記憶が曖昧になってしまった。パート間の連携が未熟だった一方、ハモリは合格だったような、、、。気持ち良く歌ったことは確かだが、指揮(兼ピアノ)の先生の講評は甘くない。技術上の弱点を克服する努力が必要だ。
 
仲間のひとりが経営するインド料理店で打ち上げの後、最終便に搭乗するべく空港に着いた。ラウンジで寛いでいると、何か館内放送が聞こえた。“○○○による航空管制のため遅れる見込み、、、”のような内容だ。何故か、○○○が聞き取れない。
 
定時に搭乗開始された。機内で漸く判ったことには、火山の噴火があり、危険を避けるため、出発が1時間ほど遅れるのだと言う。つまり、通常より1時間長く出発前の機内待機となったわけだ。
 
窮屈な機内に何故わざわざ出発1時間も前から乗客を押し込めるのか、不思議に思って、(酔狂にも)きれいなお姉さんに質問してみた。要領を得ないご返事で、判らず終いだった。
 
勝手な推測だが、航空管制からの離陸許可が突然に早まる可能性があったので定時の搭乗開始としたものだろうか。それにしては、一旦全乗客着席の後、希望者には機外での喫煙などを許可していたのは変だな。
 
帰宅は今日未明になった。最終電車に間に合ったのは不幸中の幸いだった。後から乗り込んできた客が隣に乱暴に着席したので難を避ける為席を立ったのは、禍福定まり無しの感。
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遺灰~イハイ~位牌

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一昨夜の飛行機が出発遅れとなったのは、噴火で撒き散らされた火山灰がエンジンに吸い込まれて悪さをすることを警戒しての慎重な航空管制の結果であった。火山灰の浮遊状況を確認し、影響の無い空域を飛ぶようにするのは尤もなことだ。
 
気の所為でもないだろうが、昨日、今日とアレルギー性鼻炎を発症し、苦労している。昨日など、月例の“らすぺふ”ロシア・ウクライナの歌の教室で洟をかみ通しで、皆様に大変ご迷惑をお掛けした。自分の鼻もちり紙で擦れ、痛くて敵わない。
 
その厄介物たる火山灰は“カザンバイ”と読んでいる。カザン(音読み)+ハイ(訓読み)で、いわゆる“重箱読み”だ。“カザンカイ”と読むのが穏当なところだが、重箱読みが慣用となっている。
 
先だって目にしたヴィジュアル系物理学啓蒙誌に、“アインシュタインの遺灰(イハイ)”とあってドキッとした。“遺灰”は“イカイ”だとばかり思っていた。辞書を参照すると確かに“遺灰(イハイ)”としか書いていない。“イハイ”と聞けば、文脈上、“位牌”を思うことが多いのではないかと心配するのは余計なお節介(セッカイ)か。
 
“セッカイ”と言えば“石灰”。“石灰”は“セッカイ”と読み、“イシバイ”の慣用音もある。“木灰”は同様に“モッカイ”あるいは“キバイ”だ。これらは整合性がある。
 
“石炭灰”となると“セキタンバイ”と読むが、振り仮名を付されることは無い。辞書にも載っていない。
 
書物を読むだけでは解らないことの卑近な例。
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行政長官選制限~区切り~ズジョウデキューマーク

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昨29日の日経朝刊7ページに《行政長官選制限で抗議》なる見出しがあった。頭が呆けた所為か、その意味を掴みかねた。漢字を多数連ねた表現を理解するには、切れ目(区切り)を認知する必要がある。大概の場合は、見れば即座に、ほぼ無意識に切れ目を認知し、文意を理解する。
 
しかし、“行政長官選制限”は難解だった。“行政長官選-制限”と切れることは間違いないが、“行政長官選”が解らない。“行政長-官選”か“行政長官-選”か。“行政-長官選”の可能性は除いてよいだろう。
 
答は、この場合、理屈ではなく、知識から得られる。どうも、“行政長官--制限”が正解のような気がする。ここまで辿り着くのにかなりの時間を要した。辿り着けずに、早々に諦めて、忘れたりする場合もある。
 
耳から入った言葉では、飛行機内のアナウンスで最近次のような経験をした:
 
“ズジョウデキューマークノスイッチ”と聞こえたので、“頭上でQマークのスイッチ”と理解した。頭上を見上げたが、Qマークらしきものは見えなかった。しかし、読書灯に関するアナウンスであったことから、電球の印しに気が付いた。
 
そこで、さっきのアナウンスは“頭上電球マークのスイッチ”であったことが解った。“頭上(の)、電球~”のように句切って発音すれば誤解(誤聴?)の惧れは無いだろう。
 
慣熟した職業的な喋り方には独特のリズムや抑揚の付くことがあり、こちらも慣熟しないと聞き取れないことがあるのだ。
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再開豪華コンサート~景品~収穫

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月が替わったので、何気なくコンサート情報をチェックしたところ、後1時間強で素敵なランチタイムコンサートが始まると判った。休演二か月後の再開がビルの40周年と重なって、豪華なプログラムとなっている。
 
急いで支度をし、あたふたと会場に駆けつけると、晴天ならば屋外の広場で催すはずだったが雨模様のため、ビルのロビーに椅子を並べて準備中であった。椅子が少なく、立ち見客の方が多くなりそうだった。急遽椅子を増やしてくれたので、幸運にも着席できた。
 
「55癒しの指定席」ランチタイムコンサート 2014 10 1日(水)
 
《出演》今状華乃子(S)、末千紘(S)、鈴木美和子(S)、中川越百(S)、藤村佐和子(S)、安保克則(T)、杉浦隆大(Br)、喜嶋麻実(Pf) 5人の女性声楽家から構成されるディヴィエッタと2人の男性声楽家が様々な編成で名曲の数々を歌い上げる。
フィナーレでは7人のヴォーカリスト全員による迫力のパフォーマンスをお届けします
 
Aプログラム12:0512:25
イントロクイズ
Bプログラム12:3512:55
 
杉浦隆大(Br)は初めて聴いた。堂々たる体格に相応しい豊かな声量が頼もしい。高音の響きも良い。演技も堂に入っていて、これからが楽しみなバリトンだ。
 
安保克則(T)は既に何回も聴いたベテランだ。安心して聴ける貫禄が付いた。杉浦の大声量と釣り合った二重唱は見事だった。男声二重唱は久し振りに聴いた。
 
ソプラノ陣はいずれも文句ない美声揃いだが、特にコロラトゥーラの鈴木が司会者の誘導で、High C の上のEまで披露したのが受けていた。
 
イントロクイズは、「赤とんぼ」「のばら」「アヽ人生に涙あり」の3曲だった。正解者には景品(食事券)が出るとあって、慌てて誤答する人がいて面白かった。
 
雨に洗われたナツハゼの実を収穫して帰った。
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時間量子~お墨付き~量子の泡

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一月余り前に時間の最小単位をプランク長さ10-35メートルと真空中の光速30万km/秒から(1/3)*10-43秒と計算して時間量子と考えてよいのかと自問した(詩人のための量子力学③~距離の量子~時間量子? 2014/8/29())。
 
読み終わらないうちに今日返却期限の来たケネス・フォード/著量子的世界像101の新知識」に、“光がプランク長さを通過するのにかかる所要時間”として「プランク時間」を定義し、およそ10-43秒であると書いてあった(p.69)。
 
愚考にお墨付きを頂いたようなものだ。しかし、“この時間スケールでは重力と量子が混ざりあって、完全に量子の泡の世界になる”と宣言されてしまうと、幼稚な頭脳でも首を傾げたくなる。折角まじめに計算して意味のありそうな数値に辿り着いたところで、突然、文学の世界に放り出されたようなものだ。
 
“本当にまじめに”考えると、プランク時間とは、時間の最小単位ではなく、“意味のある最小時間”ではないだろうか。もっと短い時間はあっても、その時間内には意味のある物理的な現象は生起しない(できない)というように理解すればよいのではないか。
 
これも同義語反復かな。
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半減期~平均寿命~人間

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ケネス・フォード/著量子的世界像101の新知識」には、幾つか面白い記述があった。例えば、放射性原子核の残存数が指数関数に従うことについて、出発点と比べると、平均寿命での残存率は37%であり、半減期は平均寿命の0.693だという(p.108)。半減期は、勿論、残存率が50%となる期間である。
 
対比として、人間の場合を取り上げている。人間の場合、残存率(残存数)は指数関数に従わない。アメリカでは、人口の半減期は81年であり、平均寿命は77年であるという。
 
注意しなければならない。同じ「半減期」という表現だが、放射能と人間とでは、定義が違う。放射能では、半減期は(同じ核種では)普遍的な定数であるが、人口について言う場合は、出生数が半減するまでの期間の意味で使われている。出発点を出生時と限らなければ、半減期は変化する。
 
しかし、この計算、意外に難しそうだな。
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沙羅の木~小松耕輔~ハミング譜

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森鷗外の詩に曲を付けた「沙羅の木」は、今のところ信時潔、小松耕輔、下総皖一の3人の作品が知られている。我々合唱マニアにとって残念なのは、小松版が独唱譜しか無いことだ。独唱譜でも、ピアノ伴奏譜が付いていれば、そこから二部、三部合唱譜をでっち上げることは常々実行している。
 
しかし、小松版「沙羅の木」には、この安直な手は通用しなかった。歌詞及びメロディーと歩調を合わせた伴奏ではないのだ。その伴奏譜に強引に歌詞を載せても、とても歌えるものではない。
 
そこで、メロディーとハモるように単純に低声部を敷設し、伴奏の主たる音と極端な不協和を来さないように調整して、ハミング譜を作ってみた。
 
音取りには苦労しなくて済む簡単なハミングだが、実際に独唱と合せて、聴くに堪えるものか、頭の中で鳴らしてみる芸当はできない。理屈では上手く行く筈だが、実際に歌ってみないことには実用性の程は判らない。
 
今度の例会で皆さんにお願いして試演しよう。
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宮崎滋~ソフィア・フィル~夕部奈穂

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例年春と秋の施設訪問コンサートに参加させて貰っているグループ《そのりて》の今秋のプログラムが送られてきた。ほぼ判っていたことだが、11月に2回、12月に1回行われる予定だ。
 
問題は、その練習に参加できる回数が最近は極端に少ないということだ。幸い、11,12各月のコンサートの前の練習に2回ずつ参加できそうな見込みなので、老躯、老脳に鞭打って何とかお役に立ちたい。
 
楽譜をざっと通覧したところ、特別に難しそうなものは見当たらなかったので先ずは一安心だ。実際に歌ってみると予想外に手強いと言う場合も過去にはあったので、油断はできないが。
 
《そのりて》を主宰する宮崎滋氏は、今ブルガリアに遠征しているらしい。“口笛奏者夕部奈穂さんがソフィア・フィルとの共演で自作を演奏してくださる”ということらしい。“自作”とは、勿論宮崎氏の作曲であるが、彼の器楽作品は未だ聴く機会を得ない。
 
ソフィア・フィルハーモニー管弦楽団に対しては、十年ほど前に、日本政府の文化無償協力が行われている。約五千万円で楽器や録音機材が供与されたらしい(資金供与か)。その楽器と夕部奈穂さんの口笛とで、宮崎さんの作品が鳴るのだな。ブルガリアのソフィアで。
 
植物観察で巣鴨から白山方面へ歩いてきたら、火事の現場に遭遇した。地上は消防や警察の緊急車両がけたたましく動き回り、空には取材のヘリコプターが飛び回り、実に賑やかだった。建物の内部が燃えただけで、人的被害も無かったようで、不幸中の幸いだった。
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「つどい」練習始動~電子ピアノ低音~トランスポーズ

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明2015年の全区的合唱のつどい参加に向けて、特別会員を含めた練習の第1回目を実施した。本格的な練習は来月からの予定で、今日は、言わば予備的な練習とした。また、小松耕輔の「沙羅の木」ハミング付きはお預けとした。皆さんに楽譜を予習して貰ってからの方が練習の効率が上がると思われた。
 
演奏を7分以内に収めることが必要条件となっており、全体のテンポを上げることを考えなければならない。あるいは、曲の一部を更に削るか。ちょっと欲張り過ぎたかな。とにかく、もっと本番に近い形で歌えるようになってから、もう一度所要時間を確認しなければならない。
 
きょうはピアノ付きの部屋を取れなかったので、ほぼ3年ぶりに電子ピアノの音楽室での練習となったのだが、第1曲目、信時潔の「沙羅の木」を望先生が弾き始めた時、音が低いと感じられた。一応ワンコーラス通したのだが、先生も“ピアノのピッチが低い”と仰る。
 
念のため、ヴォイスレコーダーの音源と比較したところ、やはり低いことが判った。まさか、電子ピアノの音が狂うとは思わなかった。どうしたものかと迷ったが、先生が“トランスポーズ”の表示が出ていると気が付いた。
 
“トランスポーズ”とは何かとみんなで首を捻った。“置き換える”と言う意味のようだが、としか言えなかった。とにかく、その表示を OFF にしてみたら、との思いつきで、試して貰ったのが正解だった。
 
電子ピアノが本来のピッチで鳴るようになって、めでたしめでたし、という訳で、“トランスポーズ”が何かとの疑問もどこかに消えた。
 
帰宅してから突然疑問が蘇った。“置き換える”という一般的な表現しか思いつかなかったのだが、問題解決の結果からして、また、音楽用語として考えれば、“移調”の意味ではないか。やはり、頭の働きは鈍っている。
 
遅きに失しても、気付かないよりはマシか。
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イギリス~海藻料理~ハヤイビス

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日経新聞の夕刊に《島原のイギリス、英国とは無縁》という面白そうな記事が載ったのは十日ほど前だった。「イギリス」とは、島原半島の郷土料理の名前だと言う。記事によれば、海藻のイギスを煮て融かし、魚肉や野菜などの具材を混ぜ、味付けの後、冷やして固めた食べ物だ。イギスがイギリスに転訛したことは容易に納得できる。
 
イギスは時々新聞などに登場する。初めてお目に掛かったのは十数年前だったと思う。瀬戸内海地方特産の海藻のように覚えていたが、その後、全国各地にあるものと判り、北国でも食され、販売されていることを知った。
 
今回の「イギリス」でふと気が付いたのだが、我が古里で「はやえびす」ないし「はやいびす」と呼ばれた素朴な郷土料理も、イギスに由来するのではないか。「はや」は速成を意味するのではなかろうか。記憶では、海藻から作った寒天を溶かして、イギリスと同じような食べ物を作る。正月料理の一部だったと思う。古里ではイギスよりもテングサあるいはその加工品である寒天の方がありふれた食材だったのだろうか。
 
イギスがイビスないしエビスに転訛する過程も容易に想像できる。昔の地方の人にとっては、ギよりもビの方が発音し易かっただろう。イよりはエの方が言い易かっただろう。
 
記憶では、「ハヤイビス」又は「エビスさん(エビッサン)」と呼ぶのが普通だった。「エビス」は言い易いが、「イビス」だと「速(ハヤ)」との複合で「ハヤイビス」の方が楽に発音できたのではないか。(ハが低く、ヤイビスが高く発音される。)
 
なお、最近北国で見付けた商品には「いげし」と表示されていた。
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季節外れのヤマボウシ

カリン異変~桜にキノコ~ナギの実

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ボランティア・グループの合唱練習1300~1500の後、仲間二人を伴って植物園を散策した。冷涼な風の吹く散歩日和だったが、園内は閑散としていた。世間の人は三連休とあって、遠出をするのかな。
 
カリン林の外れの一本だけが見事な実を鈴なりに着けていた。これはどうしたことか。例年とは様子が違うようだが、偶々そういう時季の光景なのか。その見事な一本のカリンを写生している人が居た。
 
園内で見付けたオニグルミが熟していたようだが、食べようとすれば手間が大変だろう。サンシュユの赤い実も美味しそうだったが、持ち出し厳禁だ。ケンポナシの甘い果柄は未だ落ちてこない。ナギの実らしいものも初見で、珍しかった。
 
サクラの古木にキノコが族生していた。サクラタケとでも言うのかなと思ったが、ネットの画像を見た限りでは、カワウソタケというものらしい。木は間もなく枯れるのだろうか。
 
売店の近くを通ったら一人が軽食メニュウに引っ掛かった。甘言に乗せられてキノコウドンを食べたくなったようで、お付き合いをした。食べ終りに、少し不快な風味を感じた。大丈夫かな。店の人は味や品質を盛んに自慢していたが。
 
閉園430PM間際に退出した。
 
肝腎の合唱練習だが、今日の収穫は、「いのちの歌」の中間部で、今まで省略していたヴォカリーズに取り組み、三部で歌えるようになった事だ。歌い出しのタイミングや音取りで少し緊張を要する。これは、やはりやった方が良い。
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イベント併催コンサート~毀誉褒貶~オールドファン

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昨日は日帰りで北国のイベント併催ステージに参加して来た。普段なら前泊して、余裕を以って臨むところだが、今、あちらでは国民文化祭という、余り馴染みは無いが一応全国区行事が行われていて、ホテルが満杯なのだ。地方都市では、ちょっとしたイベントがあると、客室が足りなくなる。
 
朝4時起き、始発電車で到着すると直ぐに直前リハーサルで、一息ついたら本番だ。僅か30分の持ち枠だが、特色あり、かつ、何がしかの意義のあるプログラムをと組んだのが次のようなもの:
 
どじょっこふなっこ   青森・秋田民謡、補作 豊口清志・岡本敏明
から松         作詞 北原白秋、作曲 後藤惣一郎    
山は夕焼け       作詞 海野厚、作曲 小田島樹人
参考として同名の歌謡曲(作詞:岡田千秋作曲:田村しげる歌唱:東海林太郎)を紹介。
子を頌う        作詞 城左門、作曲 深井史朗
  参考として「父母の声」(作詞与田準一作曲草川信)を紹介。
赤い羽根の歌      作詞:サトウハチロー、作曲:万城目正
文化の日の歌      作詞  松井 和子、作曲  柴田 源太郎
世界の平和       詞・曲  成田為三
 
大過無くステージをこなしたとは言うものの、反省点は多々ある。
 
いつものことだが、演奏が単調になりがちだ。練習ではメリハリを付けるよう、何回も確認していても、本番では心に余裕が無いのか、歌詞を拾い読みするような印象の歌い方になる。緩急、強弱などの基本的約束事さえも疎かになる。暗譜が根本的な解決だが、無い物ねだりか。
 
強力ソプラノが出過ぎだとの辛口批評も受けた。一般のお客様の好みの傾向との折り合いの付け方はなかなか難しいが、何とかしなければならない。
 
終演後、客席背後のイベントスペースで休憩していると、何人かのお客さんが声を掛けて来た。当然好意的なコメントを下さる。ある高齢(かつ元気一杯)のご婦人は、我々の演奏曲すべて歌った覚えがあるとのことだった。比較的珍しい歌を含めていたのだが、昔は珍しくもなかったのだから、当たり前かもしれない。
 
なお、「子を頌う」は「子をウタウ」だとの証言を得た。これだけで断定はできないが、「頌(うた)う」に一票だ。「文化の日の歌」を本当に歌ったことがあるのか、重ねての確認は失念した。
 
ある男性は、われわれの演奏がとてもよかったと褒めて下さった。独唱でしか知らなかった歌を重唱で聴いて強い印象を受けたのかも知れない。
 
地元放送局が生放送していたらしいが、事前情報が無かったので、残念ながら録音の手配はできなかった。
 
帰着1040PM
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岩崎邸コンサート~ドイツ歌曲~財閥庭園

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昨夜から今未明にかけて、台風で騒々しかったが、天気が荒れ始める前に岩崎邸(台東区)でのミニコンサートを聴いてきた。洋風豪邸の客間で、いっとき貴顕淑女の仲間入りをした気分だった。
 
《ドイツ歌曲》  メゾソプラノ 吉成文乃、ピアノ 畠山正成
 
1 シューベルト     「菩提樹」
2 シューベルト/リスト 「糸を紡ぐグレートヒェン」(ピアノ・ソロ)
3 シューマン      《女の愛と生涯》から
1 彼にあって以来
3 分らない、信じられない
5 手伝って、妹達
6 愛しい人、貴方は私を見る
8 今、貴方は初めて
4 シューベルト     「野ばら」
 
元々ドイツ語を専攻し、ウィーン大学で音楽を修め、更に藝大で声楽を専攻しているとあって、吉成のドイツ語発音は参考になった。彼女は勿論発音に自信があるから、「野ばら」を歌う前に1節を朗読して聴かせた。
 
その吉成でも、Röslein の発音にはかなりの揺れがあった。時には“ルースライン”と聞こえた。先日のランチタイムコンサートでは終始モロに“ルースライン”だったのに比べれば遥かに立派が。それほど“ ö ”は難しいのだろう。
 
彼女自身が作成した歌詞対訳が配付され、自宅でしっかり味わうようにと、主催者である公園協会職員からの親切な御指示もあった。しかし、ミスプリなどが散見されるので、対訳ではなく、日本語訳を参考にしてドイツ歌曲をじっくり味わうようにとのご趣旨と取りたい。
 
終演後、庭園内を見て回った。広い芝庭は圧巻だ。天気が良ければ、ここでコンサートを開く予定だったのだ。小雨模様で、残念だった。周辺に散りばめられた銘石群も迫力十分だ。さすが、M財閥総帥の居宅だけのことは有る。もっとも、他の億万長者の豪邸がどの程度のものか、見たことも無いので、あまり知ったかぶりをしては、恥を掻く。
 
庭木も当然見事に繁っており、大木が多い中に、中木のモッコクが結構存在感を示して居た。職員の言によれば、岩崎庭園で最も本数の多いのはモッコクだそうだ。
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キンモクセイ再び~二番咲き~花期様々

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二日ばかり前だったと思うが、路上でキンモクセイの香りがしてふと立ち止まった。香りをじっくり鑑賞したいという雅な心ではない。この花の時期は過ぎた筈だが、と怪訝に思ったのだ。
 
確か、月初めの頃に街じゅう至る所にこの花の香りが漂っていた。そして花は散った筈だった。一週間ないし十日ほど経って再びキンモクセイの季節が巡って来たのか。
 
幾つかのウェブサイトをチェックしたところ、この花には、二番咲きの現象があるらしいと判った。多くの花が次々と連続的に咲き続ける場合には、花期が長いのだなあということで不思議にも思わないのだが、間隔を置いて離散的に咲くと、今回のように少々驚くのだろう。
 
その間隔が数か月の長きに及べば、狂い咲き、返り咲き、戻り咲きとか表現するのだろう。春秋の二度咲きというのもあるだろう。四季咲き、通年咲きもあるかな。グループ内での交代咲きか、同一株(同一個体)でか、どちらもあり得るのだろうな。
 
長らく生きて来ても、植物に興味を持ち始めて未だ十年ほどだから、いろいろな現象に遭遇して、子供のようにハッとするのも当然か。幼稚とも言えるが、精神年齢が若いのだと自讃しておこう。
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ポッポー~汽車の汽笛~チューチュー

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岩波書店の月刊誌《科学》201410月号(Vol.84 No.10)に載っている“科学エッセイの楽しみ 汽車の汽笛は本当にポッポーか?――オノマトペと「世界を知覚する網」……下條信輔”で汽車を主題にした童謡群を思い出した。
 
正に“群”と呼ぶに相応しい数だ。歌謡曲まで含めたら厚冊の「汽車歌集」が出来るだろう。
 
偶々、アンサンブル《そのりて》で今度、汽車3曲を歌うことになっている。
 
作詞作曲本居長世     「汽車ポッポ」
  お山の中ゆく 汽車ポッポ 
  ポッポ ポッポ 黒いけむを出し      
  シュシュシュシュ 白いゆげ吹いて ~

作詞富原作曲草川信 「汽車ぽっぽ」
  汽車 汽車 ポッポ ポッポ シュッポ シュッポ 
  シュッポッポ 僕らをのせて ~
 
作詞者不明作曲大和田愛羅「汽車」
  今は山中 今は(はま)今は鐵橋 ( てつけう )渡るぞと、
   思ふ ( ま )も無く、  トンネルの 闇を通つて
  廣野原 ( ひろのはら )  
 
小学校の教科書で教わったのは「汽車」で、他の二つは後年聞き覚えた。汽車と言えば“シュッ シュッ ポッ ポッ”と反射的にオノマトペが浮かぶ。特に汽笛に限れば、“ポー”となる。
 
頭記のエッセイでは、アメリカ人にとっては、汽車は“チューチュー”であることを話題にしている。寡聞にして初耳だ。
 
昨年歌った“I've been working on the railroad(線路の仕事、線路は続くよどこまでも)”の中では、オノマトペは“fee, fie, fiddly-i-o フィー ファーイ フィドゥリアイオーウ”だった。これは恐らく汽笛を表している。“ピー”や“ポー”に近い。
 
一方、著者が伝える“チューチュー”は、我等の“シュッ シュッ”に近い。これは汽笛ではなく、単に蒸気を排出する音だろう。
 
本居の詞“ポッポ ポッポ 黒いけむを出し シュシュシュシュ 白いゆげ吹いて”が的確に区別しているのではないか。
 
しかし、著者が後年(在米15年)、実際に汽車の汽笛を聞いたら、“チューチュー”と聞こえたのだそうだ。愚考するに、著者のいう「世界を知覚する網」の作用であると仄めかしている。つまり、人は、言葉を通して世界を知覚するということを。
 
英語の中で生きていれば、汽車の汽笛は“チューチュー”であるという知識が知覚を支配するのだろう。
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