Quantcast
Channel: 愛唱会きらくジャーナル
Viewing all 1579 articles
Browse latest View live

シューベルトの「野ばら」~無前奏~二百周年

$
0
0
シューベルトFranz Peter Schubertの「野ばら」Heidenröslein(詩 ゲーテJohann Wolfgang von Goethe)は前奏が無く、正式には伴奏のピアノと同時に歌い出すのだと教わった。
 
何十年も聴き、かつ、歌って来ているのに気が付かなかった。実際の演奏では終部の2小節ばかりを前奏代わりに弾いて、絶対音感の無い歌い手に便宜を図っていることが多いのだとか。
 
改めて楽譜を見ると、歌い出しは移動ドでミの音だが、同時に鳴るピアノの音はドとなっている。絶対音感を有しなくても、演奏の直前にこっそり、カンニング“音取り”をしておけば作曲者の意図通り無前奏での歌い出しは可能だ。
 
或いは、同じ調の曲を先行させて、さりげなく「野ばら」に移るのも利口なプログラムの組み方だと思われる。理屈から言えば、前曲が同じ調である必要は無い。両曲の調の関係から、歌い出しの音を算出する事が出来る。事前に計算して置けば面倒が無い。
 
ただし、この方法は、曲間に余計なモノを挟まないよう、或いは邪魔が入らないよう、注意しなければならない。音を見失わないために。
 
この「野ばら」は1815年に作曲されたのだそうだ。つまり、来年は二百周年という大きな節目、これに便乗しない手は無い。今から練習しておこう。尤も、同じ年にシューベルトは大量の作品を生み出しているらしい。
イメージ 1イメージ 2

「野ばら」三人衆~老若対照~宮沢賢治

$
0
0
野ばらの歌は世に多数ある。我々日本の庶民が直ぐに思い浮かべるのは、昨日取り上げたシューベルト作曲と同じくゲーテの詩によるヴェルナ-作曲の両「野ばら」だろう。このゲーテの詩による歌曲群を具に調べた人の著作があるらしいから、解説まがいを書いて恥を掻く愚は避けたいが、数字マニアの観点から連想したことを記しておこう。
 
ゲーテJohann Wolfgang von Goethe    1749828-1832322
シューベルトFranz Peter Schubert    1797131-18281119
ハインリッヒ・ヴェルナー Heinrich Werner  1800102-183333
 
「野ばら」の作者3名の生没年月日を並べると上のようになる。詩人ゲーテは82年余の長寿だったが、シューベルトとヴェルナ-の両音楽家は31、32の若さで逝った。
 
シューベルト没からヴェルナ-没まで4年4か月弱の間にゲーテが没している。ここだけを見れば、野ばら三人衆は同時代人であった。
 
シューベルトがゲーテの詩に作曲して彼に献呈したけれどもほぼ無視されたとか、気付かれなかったとかいう話がある。三人衆は互いの作品で結びつき、あるいは影響を及ぼしたりする関係にあったが、直接の接触は無かったらしい。
 
ヴェルナ-の1833  33日没というデータも目立つ。単に同じ数字が偶然に並んだだけのことだが、日本人には殊更刺激的だ。桃の節句はさて置き、百年後の33年3月3日と言えば、昭和三陸地震の発生した日だ。
 
そして、その年の921日に(脈絡なく恐縮だが)宮沢賢治が没している。彼は37歳だから、野ばらの両音楽家に較べれば少し長命だったものの、若くして亡くなった芸術家の代表格の一人だ。
 
実は、賢治は地震には縁が深いと言える。かれの生まれは1896年(明治29年)827日で、その少し前、6月15日に明治三陸地震が発生している。没したその日に能登半島地震が発生し、死傷者60人と伝えられている。何れも何ら因果関係無い偶然の事象だから、拘るのはナンセンスではある。しかし、なぜか興味を惹かれる。
 
ところで、ヴェルナ-の「野ばら」は1829年に世に出ており、シューベルト作品に遅れること14年であるが、日本紹介されたのは1884年で、逆に28年も早かったらしい。(池田小百合氏のデータによる。)
イメージ 1イメージ 2

フェルマーの大定理~無理点~連続性

$
0
0
アマチュア数学愛好家でも楽しく遊べる深遠な「フェルマーの大定理」が最終的に証明されたのは約二十年前、当時一般マスコミでも話題になったと記憶する。
 
整数n3 以上のとき、xn + yn = znとなる正の整数 (x, y, z) の組合せは存在しない。
(n=2なら、3辺の長さが3,4,5の直角三角形の例で有名なピタゴラス数で、無数にある。)
 
証明の完成者たる栄誉を得たのは、イギリスのワイルズ A. Wiles (1953-)だが、先人たちの業績を踏まえた上での研究成果であった。特に、日本人数学者が提示した「谷山・志村予想」を部分的に証明したことで「フェルマーの大定理」の証明を完成させたそうだ。
 
この踏み台となった「谷山・志村予想」は、その後別の数学者たちによって、ワイルズの手法を応用することで、全体的な証明が為されたが、更なる理論的な拡張、発展があるという。つまり、「フェルマーの大定理」は証明の完成以後も、数学の発展を促進しているらしい。
 
大分前に、足立恒夫「フェルマーの大定理が解けた!」(講談社 1995)を買ってチビチビ読んでいた。著者も言うように、一般読者に証明の過程を概説する内容であって、証明を理解させようとする本ではないことが救いである。
 
という訳で、フェルマーの大定理とは一見無縁の、ある法則に興味が湧いた。本書の始めの方に
 
“一般に2次曲線上には有理点は全く存在しないか、無数に存在するかのどちらかである”
 
との趣旨で記述されている。有理点とは、x、y座標が共に有理数(分母、分子共に整数である分数で表せる数)の点である。無理点とは、有理点でない点だから、x、y座標の少なくとも一つが無理数である。
 
有理数でない数は無理数であり、数の全体を数直線でイメージすると、有理数は直線上に飛び飛びに存在し、無理数はその隙間を埋めている、というのが素人的な理解である。従って、有限の長さの線分上に有理数も無理数も無数に存在するが、その密度は異なると直観される。
 
この直観は、しかし、有理数も無限に存在すること、つまり、数直線上のどんな微小区間にも有理数は存在し得ることを思い浮かべると、ぐらつくのである。
 
さて、上記の法則の意味するところを少し掘り下げてみると、“二次曲線上には無理点しか存在しないケースがある”ということが解る。これは、素朴な脳にとっては、実に驚くべき事実だ。
 
文学的に表現すれば、“二次曲線上を、有理点を通らずに移動する”ことを意味するからだ。同義語反復ではあるが、“有理点は飛び飛び(離散的)だが、無理点は連続的に存在する。”
 
一次元の数直線の場合のイメージの二次元平面への拡張であると考えてもよいのだが、一次元では、無理数といえども連続性を有しない。それが、二次元では、無理点として、連続性を獲得することが面白い。x、y座標が共に無理数であるという制約の無いことを考慮しても、やはり神秘的だ。
イメージ 1イメージ 2

8.12日航機墜落~米軍誤射説~ともだち

$
0
0
ウェブニュースで、明日夕方某TV局が特番「8.12日航機墜落 30回目の夏 生存者が今明かす“32分間の闘い” ボイスレコーダーの“新たな声”」を放送すると伝えられている。事故後三十年近くも経っているのに何か新しい事実の発見があったのかと訝ったが、音声記録の解析技術が進歩したことで、当時は曖昧だった部分が解明できるようになったと聞くと、なるほどと思う。
 
一億総評論家と笑われそうだが、当時、当管理人は、米軍機による誤射が原因であると考え、仕事仲間に喋っていた。例えば、ミサイルを発射する練習で照準を日航機に合せて、空砲を撃つべきところ、手違いで実弾を発射してしまったなど。勿論、証拠は無い。報道情報を基に推測したに過ぎない。推測の根拠は、思い出す限り、次のような断片的な情報である:
 
米軍の行動が迅速であった―――彼らの情報収集能力から見て当然とも考えられる。
 
救助活動が翌朝回しにされるなど緩慢であった―――誤射の証拠を湮滅する時間稼ぎの可能性がある。
 
損傷後の機体や飛行の様子を撮影した映像資料が公表されていない―――ぼやけた影絵のような写真があるようだが、真贋の鑑定を経たものかどうか。しかし、当方の情報不足かも知れない。
 
事故原因と結論された圧力隔壁の破裂という現象の実証試験が行われたのか―――行われたけれども、当方が知らないだけかも。
 
(隔壁破裂による)急減圧は無かったとする証言に対する当局の反論が、急減圧を前提とした都合の良い理屈のつまみ食いでしかないこと―――つまり、実証的な反論ではないこと
 
航空管制始め関係当局の行動開始はいつだったのか―――墜落するまで交信していただけか―――これも情報不足の可能性がある。
 
以上は関係資料を渉猟しての推測ではないから、素人のたわごとに過ぎないとも言える。陰謀史観に毒されているかも知れない。しかし、今でも疑念を拭い去ることが出来ないでいる。上に列挙したような疑問が悉く解消されればすっきりする。TVを視なくなって十年ほどになるが、明夕の番組に興味津々だ。
 
この日航機墜落については3年前に一度書いている(上を向いて歩こう~九坊~半世紀2011/8/9())。その時は、以後新事実の発掘があるとは想像だにしなかった。また、その時、彼の持ち歌「ともだち」について触れたが、三日前の「さくらの会」例会後反省会でその歌が話題に上ったのも不思議な偶然だ。曲名は誰も思い出せなかった。
イメージ 1イメージ 2

日航機墜落特番~公式報告追認~消化不良

$
0
0
今夕の某TV局特番「8.12日航機墜落 30回目の夏 生存者が今明かす“32分間の闘い” ボイスレコーダーの“新たな声”」を全部視ることは出来なかった。
 
しかし、最も関心の高い問題、すなわち事故原因に関しては、政府の事故調査委員会報告の結論を追認していると思われる。番組を最後まで視ていないので、論評するのは不謹慎ではあるが、最新の音響解析技術とやらも、前宣伝の割には陳腐だったように思われる。
 
音波の伝播速度が金属と空気とで異なることに基づいて圧力隔壁の破壊が最初に起きたと断定している点については、是非とも計算過程を示して欲しかった。
 
机上計算だけなのか、実機での計測データに基づくのか。空気は連続体としていいが、機体材料には継ぎ目がある。一つの音源から発した音波が、伝播経路の異なる二つの音として単純に分離できるのかどうか。
 
機体材料内を伝わる音波も、途中でどんどん空気中に洩れる筈ではないか。とすれば、それらはひとかたまりの音としてマイクに拾われないだろうか。
こんなことは実験してみれば、あるいは経験のある人には直ぐに判るのだが。
 
番組を部分的に視ただけでの感想を敢えて言えば、音響解析の権威者の出した結論は、事故調報告を前提とした解説でしかないように思われる。視なかった部分に新事実でも紹介されていたのかな。
 
ところで、番組で使われたボイスレコーダーに近いカセットテープというのも微妙だ。事故機のボイスレコーダーはもう存在しないのだろうか。あるいは、そのディジタル化されたデータが保存されていないのだろうか。
イメージ 1イメージ 2
 

邂逅の妙~老後のお手本~頭の体操

$
0
0
今週は行事もアポイントメントも無く、スケジュール真っ白けで、普段行きつけの施設も休業中とあって、いつもと違う行動パターンとなった。
 
昨日、某食堂で食べ終えて立ち上がったところで、思いがけない旧知の人物に出会った。立ち話も出来ない通路でのことだったので、通り一遍のあいさつで別れた。
 
今日も同じ食堂に向かっている時、またもや彼に出会った。今度は彼が食べ終えて、外に出てきたたところである。
 
当方にとっては臨時の特別行動パターンであるが、考えてみると、彼は定常定時の行動中のようだ。それにしても、歩く経路は幾通りもあるのに、よくもまあ同じ時間に重なるものだ。
 
彼は、数年前までボランティアグループの主宰者だった。好人物で、チェロを弾いていた。お世辞にも上手とは言えなかったし、会話のピントが外れることもあったが、憎めなかった。
 
その後、ガンで手術をしたと聞いた。結果は良好のようで、血色よく、一人で出歩いているのだ。少し、歩きにくそうには見える。
 
今は音楽のボランティア活動をしていない訳だが、さほど親しくも無かった当方の顔を目敏く判別するところをみると、頭は冴えているようだ。趣味生活を楽しんでいるのだろうか。当方(一層)老後のお手本にしたいお一人だ。
 
彼のように冴えた頭を維持するため、という訳でもないが、お手軽なリーフレットなど目に入ると、読書代わりに、手に取って眺める癖がついている。
 
最近目を通したのが、化学系実験施設の安全管理をテーマとする勉強グループの会報で、その中に衝撃的な一言が書かれていた。
 
“ヒュームフードは
有害物質を吸引しな
いように囲い込んで
排気する設備です。
「ドラフトチャンバー」と
呼ぶのは日本だけな
んですよ。”
 
衝撃は後半部分から来る。いつぞや、現役の化学屋さんと話していて、彼が“有害物質を吸引しないように囲い込んで排気する設備”という趣旨の説明をするので、“ドラフトチェインバー”のことかと混ぜっ返したことがある。
 
当方に化け学の知識があるとは予想していなかった彼は案の定びっくりするのだが、それより、“チェインバー”と少し英語風に発音して得意になりたかったのだ。まさか、それが和製英語だったとは、半世紀以上も知らずに過ごしてきたのだ。
 
しかし、転んでも只は起きない?当方、“ヒュームフード”をチェックすることにした。発音が違うのではないかと疑ったのだ。“フュームフッド 
fume hood”ではないかと。人名ならばヒューム Hume もありだ。フードは食品にふさわしい。
 
と、こんな他愛の無い遊びをしていれば、脳の老化を少しは遅らせる事が出来るのだろうな。
イメージ 1イメージ 2

デジャヴュ~救いあり~柳沢竜郎

$
0
0
某大合唱団のHP掲示板を久し振りにチェックしたら、次のような文言が目についた。
 
“日本人が創った歌がどうして《ロシア民謡》になってしまったのか?”
 
「山のロザリア」の例もあり、和製ロシア民謡の話題とは面白い、と読み進んだ(実際には、投稿を新しいものから古いものへ遡る)。次のような文言が五月雨式に目に入った。
 
“《私の恋人》の作詞・作曲の《柳沢竜郎~現TATUROU》さん83歳”
4年前…この掲示板にロシアの歌《私の恋人》の原詩をご存じありませんか?と呼びかけ・・・”
“昨年、この歌が実はロシアの歌でないことが判明…”
“ご子息のチェロ演奏”
 
数分経過して、デジャヴュに襲われた。何かが頭の片隅で明滅しているようだった。やがて“柳沢竜郎”と“子息のチェロ”に焦点が合ってきた。当ブログに登場して貰ったことがあるのではないかという気がした。
 
検索して簡単に確認できた。もう3年も前のことだった(こんめえ馬~知らなかった~東大応援団 2011/11/1() )。
 
自分で作文し、入力した内容をこんなにも簡単に忘れてしまえるのかと落胆しつつも、思い出しただけ救いがあると自慰するか。今は“TATUROU”とローマ字名で、まだ現役で活躍中の柳沢竜郎さんに肖り、当管理人もあと十数年頑張るとするか。
 
ところで、《私の恋人》とはどんな歌か、初耳だ。上記掲示板の続きによれば、歌の素性は既に判明しているということだが。
イメージ 1イメージ 2

ミソハギ~雁首~オカトラノオ

$
0
0
機械翻訳(自動翻訳)サービスを無料提供するサイトが幾つかあり、日頃お世話になっている。無料だから、精確は期し難いが、ヒントを与えてくれることは間違いない。翻訳アウトプットの正誤を調べているうちに関連語も気になり、戦線が広がり、収拾つかなくなることもある。
 
夏の代表的な花樹の一つ、サルスベリ(百日紅)は英名Crape myrtle であると教わったついでに、その所属する科名の由来であるミソハギは何と言うのか翻訳して貰った。
 
あるサイト①では、ミソハギ → Loosestrife と出た。逆検索すると、
Loosestrife → エゾミソハギ となった。再逆検索では、エゾミソハギ→ 何も出て来なかった。
 
別の翻訳サイト②では、Loosestrife → オカトラノオ と出た。オカトラノオとミソハギとは勿論別種の植物だ。大雑把に見れば、姿が似ていると言えなくもない。
 
Loosestrife を《植物》1 オカトラノオ.2 ミソハギ と解説するサイトもあった。
 
花図鑑のサイトで見ると、オカトラノオ → Gooseneck であった。しかし、Gooseneck には、がんくび(文字通り!雁首)の意味しか無いようだ。
 
これは明らかに花穂の姿の形容であるから、gooseneck flowergooseneck
plant で検索すると、gooseneck loosestrife と出た。これがオカトラノオの英名と判明した。
 
途中で、gooseneck は“グースネック”という外来語で定着していると判った。ゴルフで遊ぶ人にも常識のようだ。“雁首”と言わない所が面白い。
イメージ 1イメージ 2イメージ 3

秋の月~滝廉太郎~ものをおもわする

$
0
0
訪問コンサート用に、秋の歌を物色したら、沢山あったのは予想通り。これらを9、10、11の各月に割り振ればよい。
 
歌のテーマとしては“月”も大変多く、これが秋の季語とされているから、“秋の月”に絡む歌が必然的に多くなる。代表格が、文字通り「秋の月」で、詞・曲とも滝廉太郎の作である。
 
原曲は無伴奏の混声四部合唱で、題は単に「月」であるようだ。組曲《四季》の秋の歌とされている。春の歌は“春のうららの隅田川~”の「花」で、4曲のうち、これが突出して有名だ。
 
             月
 
ひかりはいつも かはらぬものを
  ことさらあきの 月のかげは
  などか人に   ものを思はする
  などかひとに  ものを思はする
  あゝなくむしも おなじこゝろか
  あゝなく虫も  おなじこゝろか
    こゑのかなしき
 
この歌を覚えたのはかなり前のことで、3・4行目の“ものを思はする”は“物思わする”と歌っていた。実際、そのように表記した資料も有り、プロ歌手の模範歌唱でもそのように歌っているのがある。
 
ただし、独唱用に編曲しているから、それなりの理由があるのだろう。原譜通りのアカペラ四部合唱例を聴いたら、上記歌詞の通りに歌っていた。
 
ところで、この歌の出だし部分のメロディーが、スメタナの「モルダウ」に似ているとの見方がある。意識すると確かに似ていると感じられる。滝廉太郎はスメタナの交響詩《わが祖国》から霊感を得たのか。
イメージ 1イメージ 2

避雷の要領~4メートル以上離れ~45度線内に

$
0
0
このところ西日本辺りで天候不順のようである。関連ニュースの中に次のような親切な助言があった:
 

大気の状態不安定…落雷要注意、安全な場所に避難を 産経新聞 816()204分配信

、、、「高い物体の真下は平らな地面よりも危険」、、、、高い木や電柱からは4メートル以上離れた上で、てっぺんを45度以上の角度で見上げられる範囲に避難するよう呼びかけている。
http://rdsig.yahoo.co.jp/media/news/photo/article/pre_next_photo/RV=1/RU=aHR0cDovL2hlYWRsaW5lcy55YWhvby5jby5qcC9obD9hPTIwMTQwODE2LTAwMDAwNTM1LXNhbi1zb2NpLnZpZXctMDAwI2NvbnRlbnRzLWJvZHk-;_ylt=A7dPUxjsce9Tf1EAXuYSmuZ7
 
“高い木や電柱からは4メートル以上離れた上で”は解る。その後の“てっぺんを45度以上の角度で見上げられる範囲に避難するよう”には混乱させられる。
 
説明図では、“角度”は水平方向と視線との間の角度として示されている。この角度を“45度以上”に取るということは、定性的には“近づく”ことを意味する。
 
つまり、上記助言は、“高い木や電柱からは4メートル以上離れ、かつ、てっぺんを45度以上の角度で見上げられる範囲内に留まるように”との趣旨である。
 
換言すれば“高い木や電柱からは4メートル以上離れなさい。ただし、あまり遠くへ避難してはいけません。”ということだ。通常は、4メートルも離れれば、この条件は満たされるのだが。
 
何か、読み違いをしているのだろうか。
イメージ 1イメージ 2

「虫」三題~鳴く虫~鳴かぬ虫

$
0
0
瀧廉太郎の「月」の歌詞(2014/8/16() )を、繰り返しを省いて再掲すれば次の通り:
 
ひかりはいつも かはらぬものを
  ことさらあきの 月のかげは
  などか人に   ものを思はする
  あゝなく虫も  おなじこゝろか
    こゑのかなしき
 
ここに詠まれた虫は、童謡「虫の声」に列挙される“マツムシ、スズムシ、コオロギ、クツワムシ、ウマオイ、”など風雅な世界の虫だろう。しかし、身の回りで目に付きやすいのは、別世界の虫だ。
 
今朝、上階の若い衆が「虫だ!取ってくれ!」と騒ぐので、行って見ると、クモだった。益虫だから放っておけと言っておいた。実は、この小さな虫、すばしっこくて捕えにくい。乱暴に捕獲すると潰してしまう。扱いにくく、面倒なので今朝は放置したが、自分の部屋で見付けた時は窓の外へ放逐することにしている。
 
午後、小奇麗な某学食でソバを注文した。カウンターで待ちながら不図、足許を見遣ると、大きなゴキブリがあおむけになって手足をバタつかせていた。断末魔の足掻きらしい。カウンター内のお嬢さんに告げたが、特に驚いたようでも無かった。
 
帰り道、木蔭を歩いていたら、傍らに何かが落ちてきた。見ると、小さな甲虫で、これも仰向けだが、動く気配は無かった。木の枝で突くとモゾモゾ脚を動かしたが、移動する元気は無い。上方でカラスが頻りに鳴いていたから、食べられ損ねて落ちて来たものかと思われた。
 
鳴く虫で目にするのはセミぐらいか。夜うるさく合奏する虫たちの姿を見ることは難しいようだ。
イメージ 1イメージ 2イメージ 3イメージ 4
 

瀧廉太郎の「月」~混声四部~独唱

$
0
0
瀧廉太郎の作詞作曲になる「月」は、インタネットで公開されている“共益商社楽器店蔵版(190011)”楽譜によれば、ハ短調(3♭)無伴奏混声四部合唱曲である。
 
一方、一般に独唱で歌われている「秋の月」は、山田耕筰の編曲になるもので、ロ短調(2♯)、ピアノ伴奏付きである。全体に半音低くなっているほか、前に書いたように(2014/8/16(土) )言葉割り(譜割り?)が変わっている。その部分を対照すると、次のようになる:
 
ものー をおーもはーす るー(滝 原曲)
ミファーソラーラソーファミー(1回目)
ミファーソラーレドード シー(2回目)
ものー おもーわすーー るー(山田編曲)
 
原曲の終部では、リタルダンドやフェルマータの指示があるが、編曲では消えているのは、無伴奏とピアノ伴奏の違いと思われる。
 
山田耕筰は何故“ものをおもわする”を“ものおもわする”に変えたのか。MONO O OMOWASURU と三連Oになるのを嫌ったのか。
 
編曲版の原典を見てはいないが、一応権威のある音楽出版社の刊行物を見たところ、巻末の略説に付記された歌詞は、現代仮名遣いで、“ものをおもわする”となっていた。楽譜上は“ものおもわする”で“を”が取れており、整合していない。編集のミスか。
イメージ 1イメージ 2

興亜奉公の歌~野口米次郎~積極的平和貢献

$
0
0
いわゆる戦前の国民歌謡の一つに「興亜奉公の歌」というのがある。作詞野口米次郎/作曲信時潔、社團法人日本放送協會撰定で、1939年に放送されたという。歌詞は次の通り:
 
興亜奉公の歌 
 
天に二つの 太陽(ひ)は照らず、
理想の道は 一つなり。
築け東亜の 新天地、
勇者の歴史 君を待つ。

急げ我が友 道遠し、
されど朝日の 一つ道。
暗き荊棘(いばら)を きり開き、
据ゑよ文化の 支柱石。

神の與へし 進軍譜、
我が奉公の 腕ふとし。
新しき世の 烽火とて、
身を焼く霊火 空を往く。

断の一字を 肩にかけ、
腰に声あり 破邪の剣。
ああ聞け若人 君を呼ぶ、
興亜の喇叭(らっぱ) 音たかし。
 
若者を戦争に駆り立てる勇ましい文言の羅列だ。今どきの総理大臣が聞けば喜びそうな、積極的平和貢献の精神だと言えなくもない。
 
作詞の野口米次郎については殆ど知らないが、ウィキペディアによれば、生没1875128 - 1947713で、若くして独力で渡米し、働きながら文学を学び、英文詩集を出すなどして一流人士の知遇を得たという苦学力行で成功した人のようだ。更にヨーロッパやアジア各国でも活躍し、当時は国際的に知られた日本の知識人の一人であったと思われる。
 
世界各地を肌で知り、並みならぬ知性を有した筈の彼が、日本の若者を大東亜戦争に駆り立てるような詩を書いたのは何故か。国際経験豊かな人が戦争に反対するとは限らないとは言え、やはり気になる。戦争に協力せざるを得ない時代風潮の所為だけでもなさそうな気がする。彼の誕生日が128日というのも目を惹くが、真珠湾攻撃は「興亜奉公の歌」作詞の後の出来事だ。
 
曲は、変ロ長調 2/4拍子で、力強く ♩=96 と指示されている。普通の人が容易に歌えるような、歌詞に相応しいメロディーである。前奏、後奏の無い全16小節とすると、計算上は20秒/節、4節全部でも1分半で歌い終わることになる。
 
ネット検索すると、同名の歌が、“梅木 三郎[作詞] 中山 晋平[作曲]”でヒットする。楠木繁夫の独唱、日本ビクター合唱団の合唱でレコードが残っているようだ。他にもあって、発売はいずれも193911月となっているから、競作だったのか。
 
野口/信時の「興亜奉公の歌」は伊藤武雄/日本コロムビア管弦楽団の演奏で193910月にレコードが出ているようだ。
イメージ 1イメージ 2

リリー・ブーランジェ~滝廉太郎~藤山一郎

$
0
0
今日821日はフランスの天才女性作曲家リリー・ブーランジェの誕生日だそうだ。実はリリー・ブーランジェの名は初めて目にしたのだが、ウィキペディアなどによれば、音楽史上は有名な人らしい。
 
病弱で24歳で夭折したと聞くと、日本人としては、ごく自然に滝廉太郎を思い出す。改めて二人の生没データを並べてみると、次の通り:
 
廉太郎      1879824- 1903629 24歳弱
リリー・ブーランジェ 1893821- 1918315日 24歳強
 
誕生日は3日しか違わない。神秘的な偶然だ。リリーはローマ大賞(大変な栄誉らしい)を1913年に受賞しているが、かの有名なラベルは5度も挑戦してとうとう賞を貰えなかったそうだ。
 
本日は藤山一郎の命日でもあった。
イメージ 1
イメージ 2
 
 
追記 投稿が午前零時ちょうどとなったためか、エラーとなり、結局翌日に登録された。

痴漢男~痴女~痴漢女

$
0
0
今日見掛けた気になるニュース:
 
痴漢男が線路逃走 電車止める     2014822() 741分掲載
痴漢男が線路を逃走し、JR山手線が、およそ30分間にわたりストップした。(フジテレビ系(FNN)
 
先ずは、実に下らない出来事だという印象を持った。痴漢被害者にはお気の毒だが、先ずは加害内容の下らなさを思う。勿論、この種の犯罪行為一般に対する思いだ。
 
次いで、相当数の乗客が周りにいただろうに、なぜ犯人はまんまと逃げおおせたのか、気になる。居合わせても、己に累が及ばなければ傍観するという一般的な傾向と言ってしまえばそれまでだが。
 
第三に、犯人が線路伝いに逃げたからと言って、電車を三十分も止める必要があるのか気になる。犯人の身の安全を最優先に対処したとでも言うのだろうか。事件の起きた時間帯についての情報が無いが、大都会のこと、線路上に留まっているか、外に逃げたかぐらいはリアルタイムで把握できるのではないか。
 
第四に、記事の日本語について。“痴漢男”は正統な表現として認められるのだろうか。“痴漢”は男に決まっているではないか。“痴漢が線路逃走 電車止める”と聞いて、女が逃げる図を想像する人はいるだろうか。
 
尤も、言葉は時代とともに変化するから、“痴漢女”が既に市民権を得ていて、当管理人が時代遅れで知らないだけという可能性も無くは無い。“痴女”は前から使われている。
イメージ 1イメージ 2

いのちの歌~甘曲~意外な音程

$
0
0
ボランティア・グループで練習し始めた「いのちの歌」は、先生がお気に入りということで宛がわれたもののようだ。作詞 Miyabi、作曲村松崇継、編曲板垣敬子の混声三部合唱となっている。
 
歌詞は全体にさほど意味の無い甘い言葉の羅列という印象だ。メロディーも甘ったるい感じだが、音程は意外に取りにくい箇所が散りばめられている。跳躍が1オクターヴとか、6度とか。ファからシに上がるのも緊張を要する。
 
ハ長調だが、中間に短い変ホ長調(3♭)の間奏とヴォカリーズが挿入されている。転調もまた緊張を強いられる。
 
とは言うものの、3パートに共通のメロディーも多く、マスターするのにあまり苦労すると沽券に係わりそうな、嫌な予感もある。
 
インタネットで検索したら、数年前にNHKTVドラマで歌われたものと判った。TVを視る人にとってはお馴染みの歌だったのだ。音源も独唱、合唱各種 Youtube などにアップされていた。人気曲とあれば、真面目に練習して、ボランティアとしての務めを果たさなければならない。
イメージ 1イメージ 2

将軍 吉宗~享保日本図~和算家 建部賢弘

$
0
0
お堅い内容の講演会を聴きに行った。「和算」の響きに魅せられたのは確かだが、会場がお茶の水女子大学ということが決心させた。部外者立ち入り禁止の同大学構内におおっぴらに入れるチャンスだ。
 
一般公開講演会 「建部賢弘生誕350周年記念展示会―
           建部賢弘の和算における業績と享保日本図」
日時:8/24 1300-1500
講演プログラム(敬称略)
13
00-1310 開会挨拶  お茶の水女子大学歴史資料館館長鷹野景子
13
10-1350 「江戸時代初期の数学」 日本数学史学会会長・和算研究所理事長佐藤健一
14
00-1450 「建部賢弘の生き方から学んだもの」 小説家鳴海
15
00-1530 「享保日本図」解説  
              広島県立歴史博物館主任学芸員久下
総合司会:日本数学史学会副会長・お茶の水女子大学教授真島秀行
同時開催:大学資料常設展示(本学本館1121室)
   特別展示「建部賢弘生誕350周年記念展示会―
         建部賢弘の和算における業績と享保日本図」
 
講演内容はあまり面白くなかったが、将軍吉宗(16841751)が儒学などより測量、天文などの実学を重視したこと、そのために蕃書禁止をゆるめたことなどを教わった。
 
今回同時開催の特別展示「建部賢弘生誕350周年記念展示会―建部賢弘の和算における業績と享保日本図」の目玉である“享保日本図”は吉宗の命(1717)で作成されたそうだ。全国各藩の地図は相当正確なものが既に揃っているとの前提で、それらを繋ぎあわせる作業で間に合わせることとなった。
 
その要は、各藩の地図に隣接藩内の目立つ山が見える方角を表示、報告させることにあったが、ついでに既存の地図の正誤をも求めたため、作業が捗らなかった。そこで吉宗が建部賢弘(たけべかたひろ 16641739)を責任者にしてプロジェクト促進を図った。
 
建部は、各藩には目標物の方角だけを報告させることで足りるとし、作業を簡素化した。これにより、享保の日本総図作成プロジェクトは約8年後に完成した。建部が単なる和算家ではなく、実用技術に優れたセンスを持っていたことがうかがわれる話である。実学重視の吉宗とはウマが合ったことだろう。
 
この享保日本図は、偶然にも建部賢弘生誕350年に当たる今年5月に広島県立歴史博物館寄託資料より発見されたのだそうだ。
 
今日初めて観覧の機会を得たお茶大構内は、日曜日で閑散としていた所為か、樹影の濃さが印象的だった。本館建物の重厚かつ風雅な趣にも感心した。文化財に指定されているそうで、納得だ。桃の木が一本あり、小さな実が転がっていた。残念ながら虫たちに先を越されていた。
 
イメージ 1イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
イメージ 3

トロイカ~取り違え論~好いとこ取り論

$
0
0
“雪の白樺並木~”で親しまれている「トロイカ」については、その歌詞(日本語)が原歌詞(ロシア語)からかけ離れていて、長年議論されていた。
 
「トロイカ」と呼べるロシア民謡(歌曲)は複数あり(2014/2/27()  参照)、訳者が「ペテルブルグのトロイカ」の歌詞を訳したのに、メロディーを「ヴォルガのトロイカ」と取り違えたのではないかとの説が有力であったと記憶する。
 
合唱団白樺の主催したロシア民謡フェスティバル(2006.8)のシンポジュームでもそのような議論が交わされたことを思い出す。
 
最近図書館で取り寄せてもらった森ふみ/企画・編集「ロシア民謡を日本に広めた森おくじの世界  楽譜集」(2014.5)の中に、《トロイカの訳詞をめぐって》と題する一文が載っており、“取り違え論に終止符”と明確に断じていた。論拠は、この件について問われた森おくじの返書(2007.1.14)である。
 
それによると、「トロイカ」の歌詞は、当初(1952)楽団カチューシャ訳詞と表記され、後(1963)に楽団カチューシャ作詞と改められている。
 
楽団の中心的存在だった森おくじ(19252008)らは、日本の若者に新しく紹介する歌として、美しいメロディーの恋の悲しみの歌「トロイカ」を取り上げた。
 
しかし、そのままでは寂し過ぎるので、明るい喜びの歌とすべく、楽しい歌詞を作り、リズミカルに演奏するようにした。
 
その後、森おくじは「ペテルブルグのトロイカ」の歌詞を入手し、それが、かつて“作詞”した「トロイカ」によく似ていることが判った。こちらは1994年に「走るよトロイカ」と題して訳詞した。資料としては、19984月発行のものが掲載されている。
 
“取り違え論に終止符”が、本書の企画・編集者である森ふみ氏(森おくじの未亡人)の強い願望であることは明白だ。
 
長く大衆に歌い継がれている現実に鑑みれば、「トロイカ」のメロディーが出発点において取り違えられていたとしても、あまり重大な問題ではないだろう。
 
錯誤による取り違えではなく、二つの「トロイカ」の“好いとこ取り”であったとしても良いのではないか。その意味で、“取り違え論に終止符”に同感だ。
イメージ 1イメージ 2
 

デパート商法に学ぶ~十五夜~満月

$
0
0
節気先取りは商売の常法、という訳で、某デパートの新聞折り込みチラシに中秋の名月絡みの広告が出ている。
 
イメージ 1
 
月影を映して楽しむ陶磁製の球体、手揉み特別紅茶、マロン尽くし贅沢ロールケーキ、月待ち会席など魅力的な商品が美しい写真で紹介されている。その傍らにさり気無く名月前後の月齢イラストが挿入されている。
 
イメージ 2
 
これが好奇心を呼び覚ました。今年2014年の名月は98日で、満月は翌9日であるということは知っていたが、何故日が違うのだろうかと訝っていたところにこのイラストだ。あやふやな知識では気持ちが悪いので、権威ある東京天文台のサイトで確認した:
 
陰暦では月の満ち欠け周期の約半分にあたる15日が満月であると考えられていました
とくに太陰太陽暦815日の夕方に出る月は中秋の名月と呼ばれます。
(満月) の時刻=朔 (新月) の時刻+望 (満月) の月齢です。
(満月) の時刻の平均は0.529.5÷215.25166
単純に言えば16日になるが、十五夜月に近い。
 
ということで、陰暦上の概念である名月と天文学上の概念である満月との定義の違いから、両者は一致しないのは当然であると教えられた。
 
デパートのチラシとてバカに出来ない。十三夜の月は栗名月~として同じ広告に含めているのは少し疑問ではあるが。
イメージ 3イメージ 4

詩人のための量子力学~効用と解釈~素人の安堵

$
0
0
久し振りに通俗科学解説書を読んでいる:
 
レオン・レーダーマン/クリストファー・ヒル著 吉田三知世/訳 
詩人のための量子力学Quantum Physics for Poets) レーダーマンが語る不確定性原理から弦理論まで  白揚社 2014.6
 
主著者レーダーマン,レオン・M. は、1922年生まれのアメリカの実験物理学者で、ボトムクォークの発見で知られ、1988年にミューニュートリノの発見によるレプトンの二重構造の実証でノーベル物理学賞を受賞したという。
 
ご存命ならば92歳のご高齢、執筆当時(原著出版1911年)でも89歳ということを考えると、実際には共著者ヒル,クリストファー・T. が主に執筆したのかも知れない。多分レーダーマンよりは若いだろうから。
 
訳書出版社の謳い文句は:
教育に力を入れる実験物理学者が、物質を根底から支配する不思議な量子の世界を案内する。基本概念から量子コンピューターなどの応用まで、数式をほとんど使わずにやさしい言葉で説明した、だれもが深く理解できる量子論。
 
目次
1章 これがショックじゃないなら、君はわかっていないのだ
2章 量子以前
3章 隠れていた光の性質
4章 反抗者たち、オフィスに押しかける
5章 ハイゼンベルクの不確定性原理
6章 世界を動かす量子科学
7章 論争アインシュタインvs.ボーアそしてベル
8章 現代量子物理学
9章 重力と量子論弦理論
10章 第三千年紀のための量子物理学
補遺 スピン
 
全体に読み易い。著者の言う通り、数式をあまり使わないで、文章で説明するように工夫していることが確かに効果的だ。しかし、その点は数ある類書にも共通なのだ。
 
思うに、本書の特徴は、一般に理解し難い量子論を言葉で説明するに当たり、奇妙な量子的現象を著者自身も奇妙だと正直に述べていることが読者を引き込むのではないか。
 
これが本当の世界なのだよと上から教えるだけの書き方では無い処が親しみを感じさせるのだ。特に、量子論の導き出す(日常のマクロ世界の常識的感覚からすれば)奇妙な結論の哲学的な解釈については、依然として疑問の余地があるような書き振りであるところが面白い。
 
量子論の威力は偉大であり、現実社会において欠くべからざる成果を生んでいる事実は否定のしようも無い。ただし、それは量子論の道具としての効用であり、世界の根源をどのようなものとして理解するかを一義的に決めるものではない。そのことを専門家によって保証された如く、安心するのである。
 
ユーモアにも溢れていて楽しい。例えば:
 
私(レオン・レーダーマン)の母が夜間のコミュニティ・カレッジで一般物理学講座を受講したとき、彼女は高校を卒業していなかったが、二つの難問でやすやすと満点をとっていた。
 
ある日、講師が母を呼び止め、「ニューヨーク・タイムズ紙で、ノーベル賞をとった物理学者のレオン・レーダーマンのことを読んだんですが。あなたは、彼と親戚なのですか?」と尋ねた。
 
「レオンは私の息子です。」と母は誇らしげに答えた。
「へえ。だからあなたはそんなに物理学がお得意なんですね!」
「いいえ、違います。だから彼はそんなに優秀なんですよ。」
イメージ 1
Viewing all 1579 articles
Browse latest View live