ジェラルド・ムーア「お耳ざわりですか」の原著≪AmI Too Loud?≫は1962年に出版された。彼は多忙な演奏活動の合間をその著述に当て、結局4年の歳月を要したと記している。伴奏ピアニストとして頂点に上り詰めたその人生は、成功物語として十分に読む価値があるが、厖大な経験談の一つ一つを取ってみても、なかなかに興味深い。
我が日本では先の大戦中、英語が敵性語として排斥される風潮があったそうだが、ムーアによれば、第一次大戦中、イギリスではドイツ語が禁じられたとのことである。その書き振りからすると、法的強制力のある禁止であったように受け取れる:
≪イギリスでは、1914年から18年まで、ドイツ語は禁じられていた。リートはすべて英語の翻訳で歌わなくてはならなかった。しかし、~では、~シューベルトやブラームスの曲が、書かれたままの言葉で歌われるのを聴いた。~エレナ・ゲルハルトは~事実上、敵国人~ステージに上がったとき~(聴衆の反応は)熱狂と愛情に満ちあふれ≫ていた(p.185)。
ということで、芸術の世界にまではドイツ語禁止の効力は及ばなかったようで、やはりこのような文化的規制措置には無理があることを裏付けるエピソードではある。ここでムーアが言いたかったのは、イギリスの一般大衆が、形式的には敵国人であるエレナ・ゲルハルト個人に対しては全く敵意を見せず、彼女の芸術家としての価値に正当な敬意を払ったという事実である:
≪誠実で分別があり、物事を正しく判断することのできるすばらしい一般大衆にも、拍手を送りたい~≫と述べている。我が日本にもこれに匹敵する美談があるだろうか。当方が無知なだけであれば、不幸中の幸いである。
エレナ・ゲルハルト ElenaGerhardt, 1883年11月11日- 1961年1月11日は ドイツのメゾソプラノ歌手 1933年からロンドンを拠点に活動