「真白き富士の根」の作詞者・三角錫子が雑誌≪音楽界≫の奨めで提供した歌詞1~6番と作詞の経緯略述とが同誌1915(大正4)年1月号に掲載されていることをひと月半ほど前に取り上げた(真白き富士の根~三角錫子~不出来の憾み 2016/6/15(水))。
三角は楽譜共々編集部に送ったらしいが、印刷の都合上、楽譜は次号に回されたと付記されていた。次号、すなわち同年2月号を収録している復刻版の借用を図書館ネットに申し込んでいたのだが、かなり日が経ってから“所蔵図書館の改修工事が始まったので貸し出しは出来ない”との連絡があった。
そこで、少しばかり脚を伸ばして、資料の借用は出来ないが、閲覧は許容される別の図書館を利用することにした。≪音楽界≫1915(大正4)年2月号には、予告通り「真白き富士の根」こと「哀悼の歌」歌詞及び楽譜が掲載されている。曲名の下に(逗子開成中学生ボート沈没に居合せて)と添え書きがある。編集部の勇み足で、“三角錫子作曲”と記されている。
メロディーは、現行曲とかなり差異がある。歌詞には誤植が数か所あるようだ。これら諸点につき、翌3月号に編集部宛て三角の書翰が掲載された。自分は作曲者ではなく、日頃愛唱する、誰のものとも知らぬ曲に合わせて作詞したものであると言明している。彼女の歌唱を旧師奥好義に採譜して貰ったものが「哀悼の歌」であるとのことだ。その旨編集部にはよく説明したと困惑の態である。
掲載された「哀悼の歌」はヘ長調6/8拍子弱起で、原曲と判明している明治唱歌「夢の外」と同じである(When I Grow Too Old to Dream~七里ヶ浜の哀歌~夢の外 2012/1/16(月))。後者の方が現行「真白き富士の根」に整合する。三角の歌唱を譜に起こしたものを後人が“原曲”に合せたものか。
ただ、奥好義は大和田建樹と共に≪明治唱歌≫の編纂者とされているから、常識的には「夢の外」を先刻承知の筈だから、その旨三角に知らしめても良さそうなものだが。些か腑に落ちない所だ。