「首相談話」が大ニュース扱いで賑々しい。何日も前から「首相談話」の文言がどうなるか、どうあるべきかと侃侃諤諤、様々の意見が飛び交っていた。世拗ね人たる当管理人には、騒ぎのネタを欲しがるマスコミが作り出した状況のように思われる。
「首相談話」に何ほどの価値があるのか。それによって何か新しいことが始まるのか、何かが変わるのか、一向に思い当たらない。首相が己の個人的思想、信条を「首相」の肩書で世間に聴かせて、従わせようとの魂胆は見え見えで、露骨過ぎる。
日本が仕掛けた先の戦争とその結末をどのように理解し、受け止めるかというのは、人それぞれ、様々であり得る。それを日本国として統一的に、公式に表明するものが「首相談話」であるとすれば、その内容は、時の首相の個人的な趣味、好みで随意に書き変えてよいものではない。
今の首相は、民主的な手続きによって最高権力者になったからには、何でも己の意のままに動かしてよい筈だというような誤った選良意識があるのではないか。改正がまゝならなければ、“解釈”を変えればよいとまで言わせる“憲法改正”の熱意もこの線上にある。
昨日取り上げたバランス政治家・大平正芳さんの爪の垢を煎じて飲ませたい。残っている筈も無いが。
敢えて新たな談話を発表する必要性の認められない時期に、それを強行するからには、そのメリットが無ければならない。国民にではなく、首相個人には十分なメリットがあったのではないか。マスコミが彼の思想傾向を大々的に、世界中に宣伝してくれたのだから。
「談話」のから騒ぎを横目に「仰げば尊し 幻の原曲発見と『小学唱歌集』全軌跡」を拾い読みしていたら、興味深い論述に出会った。≪第11章 『小学唱歌集』の起源はプロイセンの教育用民謡か≫で、筆者はヘルマン・ゴチェフスキーである。
明治維新に遅れること3(~4)年でドイツ統一、ドイツ帝国建設が成った。その中心であったプロイセン王国の国民的統一に資する唱歌教育政策に沿った推薦教材から(L.W.メーソンを通して)『小学唱歌集』に採用された曲が少なからずあるという。
帰属意識の強固な国民を育てる教育政策の一環としての教科≪唱歌≫のお手本はドイツにあったのか。