身辺整理も小さな一歩から、という訳で、眼前に積み上がって埃を被っている紙の山に手を付け始めた。整理とは基本的に捨てることと心得てはいるが、一応一つひとつ目で見て確認する。これからの短い余生において活用する可能性のあるものは残す。
『音楽の窓』という月刊誌二十冊ばかり紐綴じになっているのを捲っていたら、≪童謡「赤い靴」の女の子の妹さんの話・・・江間章子≫が目に入った(昭和56年7月1日発行通巻141号、pp.11-13)。江間(1913年3月13日 - 2005年3月12日)が著名な作詞家であり、「赤い靴」は先頃特養コンサートで歌ったばかりで余韻が残っていたこともあり、作業中断して読んだ:
≪数年前のある日、北海道の新聞に、ひとつの投書が載りました。
私は・・・気らくなおばあさんの身になりました~日夜思われるのは、まだ見たことも、会ったこともない姉のことです。もしや姉がアメリカで生きていれば―――と思うと~童謡「赤い靴」は私の姉を歌った詩なのです
この投書は大きな波紋をまきおこし~本も出版され~ドキュメンタリーとして、撮影も始まりました~私もある雑誌社の依頼をうけて、「赤い靴」の女の子の妹さん、岡そのさんに会ってくわしいお話を聞くために、千歳へ翔んだのです~≫
と、岡そのさんから聞いたお話を書いており、内容は一般に流布する通りで、アメリカ人宣教師に預けられた女の子きみちゃんはアメリカには渡らず、東京の孤児院で病死していたが、母親はそれを知らなかった、となっている。
宣教師云々は母親のつくりごとであると主張する論客もおり、真相は今となっては確かめようも無い状況だ。いずれにしても、「赤い靴」の歌が『本居長世 作曲 新作童謠 第十集(敬文館)大正十二年(1923年)一月十五日発行』に収録されてから半世紀後に問題の投書があり、壮大なドラマが作られていったようだ。それから更に半世紀近く経った。
“横浜の波止場から船に乗って 異人さんに連れられて 行っちゃった”女の子の物語は歌とともにこれからも生き続けるだろう。モデル捜しとは別次元のことだ。
「青い目の人形」も同じ作詞・作曲者コンビによるとは知らなかった。しかもほぼ同時期だったとは。ついでに「シャボン玉」も:
青い眼の人形 大正10年(1921年)12月『金の船』 詞曲同時
赤 い 靴 大正10年12月(1921年)『小学女生』
シャボン玉 大正11年(1922年)『金の塔』
作詞 野口雨情 作曲 中山晋平 『野口雨情民謡童謡選』(1962年)に収められた年譜によれば、雨情がこの歌(詞?)を最初に発表したのは大正9(1920)年だと記されている。雨情は明治41年3月に先妻(高塩ひろ)との間に長女をもうけた。しかし長女はわずか7日で亡くなってしまう。晋平は『金の塔』大正十一年十一月号を見て作曲して、楽譜を大正十二年一月発行の晋平作品集『童謠小曲』第三集で発表し、次第に広まって行った。”