齋藤桂「1933年を聴く 戦前日本の音風景」の内容は、版元のPRによると次の通り:
≪近代化=西洋化から、近代化=国粋化への転換点で
ひずむ音に狂わせられる人々を、私たちは笑うことができるのか?
世界がファシズムに傾斜していく境ともいえる1933年。日本において1933年は、それまで近代化が西洋化とほぼ同義であったのに対して、国粋化という形の近代化を目指すという方向へ転換していく年に当たる~~~音と音楽においても多様なかたちでその転換期のひずみが現れている。1933年の音と音楽に関連するユニークな出来事を通して、〈戦前〉の日本社会の空気を浮かび上がらせ、それ以前/それ以後の連続と断絶を描く≫
抽象的な表現も混在するが、結構具体的なイメージも湧く。その本の書き出しが、≪第1章尺八奏者・野村景久による殺人――音楽の合理化と精神論≫と、何とも刺激的である。当方のような野次馬には、「音楽の合理化と精神論」よりは「尺八奏者・野村景久による殺人」が圧倒的に訴えてくる。
尺八奏者に留まらず、邦楽全般の近代化を唱える実践家として、出版や放送でも名を知られた野村景久が、名声あれども収入伴わぬ生活苦から殺人を犯して金銭を盗んだという事件(1933)から説き起こして読者を引き込む手法は見事だ。
この野村景久は古賀正夫とも共演しており、そのレコードが国会図書館などに所蔵されている、一流の芸術家でもある。その関連で偶然に、「影を慕いて」のオリジナリティに論及した資料を発見した:
≪《影を慕いて》の歌詞が古賀のオリジナルかどうかという問題にここでは立ち入ることは避けるが、鳥取春陽の《君を慕いて》や賛美歌などに詩想が類似しているものが存在することは確かなのである。ここで、賛美歌510番《その他・神の招き》の一節を引用してみよう。
まぼろしの影を追いて
うき世にさまよい
うつろ(う)花にさそわれてゆく
汝が身のはかなさ 〈以下省略〉≫(古賀政男と明治大学マンドリン倶楽部(2)-菊池清麿)
当ブログ(讃美歌~まぼろしのかげを~古賀メロディー 2018/2/11(日))で話題にしたことがここにも述べられている。関係者には周知の問題だったのだ。古賀の確立された名声もあり、否定的な論調は聞かれない。