伊藤薫「八甲田山消された真実」(山と溪谷社 2018.2)を読んだ。「八甲田雪中行軍遭難事件」の原因及び背景を論じたもので、この事件は“1902年(明治35年)1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件。訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという~世界最大級の山岳遭難事故である”(ウィキペディア)。
内容紹介から引用する:
≪1902(明治35)年1月、雪中訓練のため、青森の屯営を出発した歩兵第5連隊は、八甲田山中で遭難、将兵199名を失うという、歴史上未曾有の山岳遭難事故を引き起こした。
当時の日本陸軍は、この遭難を、大臣報告、顛末書などで猛烈な寒波と猛吹雪による不慮の事故として葬り去ろうとした。~~著者は、~~新田次郎の小説とのあまりの乖離に驚き、調査を始めた。
~~準備不足と指導力の欠如、たかりの構造、そして遭難事故を矮小化しようとした報告など疑問点はふくらむばかりだった。~≫
~~準備不足と指導力の欠如、たかりの構造、そして遭難事故を矮小化しようとした報告など疑問点はふくらむばかりだった。~≫
返却期限に追われての飛ばし読みだったが、概ねは理解したつもりだ。要するに、遭難原因は、準備不足、装備貧弱、知識・情報欠如、誤判断などの複合であるが、そもそも(遭難隊の)雪中行軍訓練の企画が、他連隊の訓練計画の報に接して、俄かに対抗心から発したものであったと指摘されている。
上官の面子、功名心からの思い付きで無謀な雪中訓練に駆り出されたものとすると、命を落とした約200名の将兵の霊は浮かばれない。大惨事を招いた張本人は一時的な処分を受けたものの、その後は順調に出世したそうである。陸軍全体の失態として指弾されることを避けるために、事故の真実が隠蔽され、歪曲されたことを著者は詳細に論じている。
事故に関する通説との余りの乖離に驚くとともに、本書の信憑性についても他者による検証が為されることを期待したい。
地元青森の日刊新聞が、事故の発生後、数回にわたり欠番となっていることが、本書の中で複数回記述されている。文脈からして、報道内容が陸軍の検閲に触れ、発行禁止になったものと理解される。つまり、事故の真相を隠蔽したい陸軍にとって都合の悪い記事が載っていたということらしい。
しかし、如何に明治時代とは言え、戦時でもなく、非常事態が宣言されている訳でもない平時において、陸軍(それも地方駐屯部隊)に、そのような権限があっただろうか。権限は無かったけれども暴力的に圧殺したのだろうか。