アクゼル著『「無限」に魅入られた天才数学者たち』(2017/10/23(月))の標題中“魅入られた”の表現には“魅せられた”に加えて“気が触れた”の意味合いが込められていた。原題は“TheMystery of the Aleph: Mathematics, the Kabbalah,and the Search for Infinity”で、そのニュアンスを良く滲ませる邦題だ。![イメージ 1]()
無限を探究して気の触れた数学者はカントールやゲーデルだけに留まらず、また、気が触れずとも災厄を招いたガリレオやボルツァーノら中世の研究者もいたことが紹介されている。
無限にもいろいろある中で、取っ付き易いのは自然数が1,2,3、、、、∞と無限に続くという考え方だろう。最大の自然数は存在せず、どの自然数にもそれより大きい数があることは自明のように感じられる。このことで気の触れる心配は無さそうだ。
別の無限として、連続体の切断がある。物体を半分に切り分ける操作は、現代物理学の知識によれば、限界がある。分割できない最小単位(量子)に突き当たると、そこで切断は不可能となる。つまり、無限ではなく、有限だ。
しかし、数学(哲学や神学でも)では、抽象的に連続体を想定して、如何に小さいもの(線分、面分、、、)も際限なく分割可能であると想定する。拡大鏡で大きく見ることを想像するだけでよい。この際限の無い分割は、無限遠に伸びる自然数のイメージほど単純でなく、思い詰めるとノイローゼになりそうな予感がする。
異株類があるというだけでなく、「無限」には階層もあるという考え方にも危険な匂いを嗅ぎ取ることが出来る。自然数(及び有理数)の無限よりも実数の無限が濃いという辺りまでは抵抗なく受け入れられる。線分(例えば1センチ)に含まれる点と立体(例えば1立米)に含まれる点とは同数である、となるとやや心配だ。
無限の程度(濃度)の階層が二つだけでなく、これまた無限にあり得る、となると、天才数学者ならざる当方でも、想像するだに気が触れそうだ。この辺りで“超限数”なる概念が登場するが、殆どイメージできない。