山本淳子「枕草子のたくらみ」は、≪「枕草子」は、清少納言が、その仕える皇后定子が存命中は彼女を慰め、死後はその魂を鎮めようと優しい嘘で綴った≫との見方で著わされている。
綿密な調査及び考察により、説得力は十分であるが、個々の記述については、色眼鏡を通した「枕草子」観に基づくことを頭に置いて読む必要があるだろう。
枝葉末節の話題になるが、清少納言の父、清原元輔が任地・肥後で亡くなった正暦元(990)年は、後に紫式部が結婚することになる藤原宣孝が筑前守に任ぜられた年でもあるそうだ。宣孝の任命は、前任者である藤原知章はその年の春に赴任したばかりなのに、一族郎党三十余人が病死したために辞任した穴埋めの急な人事であった。
元輔の任地・肥後は、筑前にある大宰府の管轄下にある。肥後守たる元輔は筑前に出張する用務が度々あっただろう。その頃、筑前で疫病が猛威を振るっており、知章の係累や従者に途轍もない人的損耗をもたらしたとすると、元輔も同じ病魔に斃されたのではないかと、山本氏は推測する。
元輔を襲った不幸が疫病であったとすると、筑前全体では大規模な疫病蔓延、多数の犠牲者が記録されているだろうと想像される。しかるに、ネット検索した限りでは、990年当時の筑前での疫病蔓延の事実は確認できず、知章の一族郎党三十余人病死については、フグの食中毒説が有力であるとの記述があった。
本当の死因は何だったのだろうか。異常な多数病死事件について、経緯や原因の記録が無いというのも不思議なことだ。