百年以上前に東京市が制定した「東京唱歌」(明治40年)が不評で、別に「東京市歌」を作ることになり、大正15年に制定成ったことを先日記した(幻の東京市歌~東京唱歌~公定の東京市歌 2015/8/24(月))。
評判の悪かった官製「東京唱歌」とはどんな歌だったのか、ネット検索してもデータはヒットしない。捜し方が悪いのかもしれないが、諦めて現物を拝見することにした。手間暇は要したが、首尾よく画像に収める事が出来た。
作詞は誰の手になるものか不明だが、国の中心たる東京の特質を浮き立たせる、気の利いた内容に思われる。単なる地理案内でないところは評価できるのではないか。
一 忠勇無比の国民が 父母といただく大君の みやこはここぞ東京市
平和の気象あふれたり
二 太平洋を渡り来て 種おろしたる文明の 花は今しもうるはしく
東亜の空にさき匂ふ
三 草より出づる月のかげ 隅田川原に照りし頃 築きたてつる道灌の
威名ものこる千代田城
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二十 旭日のぼる東洋に 新文明の成らんとき 我等は東京市民ぞと
世界の大路をあゆむべし
作曲は有名な岡野貞一である。東京音楽学校助教授の肩書で、当時29歳の筈である。彼の作曲とされている一連の文部省唱歌(故郷、朧月夜など)とは似ても似つかない、「鉄道唱歌」風の、いわゆるピョンコ節である。
これに先立つ私製「東京唱歌」(武島又次郎(羽衣)・小山作之助、明治33年)はピョンコ色を薄めており、俗っぽさを感じさせない。歌詞は各区ごとの名所案内の趣である。
官製「東京唱歌」が不評だった理由は未だ確認できないが、現物を見た限りでは、曲が単調なピョンコ節であることによるのではないかと推察される。音楽教育に功績大なる岡野先生に対しては失礼な意見で、御免なさい。
この歌の制定が東京市の事業であるから、ひょっとして、有力者のご希望が影を落としたのかもしれない。いずれにしても、未だ要調査、最終的な結論は後日。