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Channel: 愛唱会きらくジャーナル
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夜の惑星直列 ~ 昼の太陽系弧列 ~ 夜の惑星弧列

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昔話で、かれこれ二十年ほど前のこと、ラオスのビエンチャンで宵空高く斜め直線状に輝く数個の惑星を眺めた。“惑星直列”と呼ばれる天文ショーだった。その時はどの惑星が行儀よく並んだのか覚えていないが、弱視の肉眼でも見える範囲とすれば、金星、火星、木星、土星ぐらいだろうか。
 
夜空に月と惑星とが接近してよく見えることはしばしばある。見え易いのは金星、火星、木星だろう。これら4天体が接近して見えるのは珍しいことかどうか知らないが、見栄えするのは確かだ。
 
最近では早朝の南東中天に金星、その右上方に木星が見えていた。月と火星が宵の西空にあった。国立天文台の素人向け≪今日のほしぞら≫を少し動かして見たら、一昨々7日(木)午前11時頃には、太陽がほぼ真南の中天にあり、右方南西に向けて土星、金星、木星が順次高度を下げて並び、左方東に向けて水星、月、火星が同様に並んでいた。

20190207() 110000
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真昼間だから惑星が肉眼に見える訳ではないが、右から弧状に木、金、土、日、水、月、火と、七曜の天体が勢揃いしていたことになる。≪太陽系弧列≫とでも呼ぶか。
 
夜空に(太陽を除き)このような≪惑星弧列≫が見られることは十分に考えられるが、珍しいことなのかどうか、≪今日のほしぞら≫を動かしてみよう。明20200802() 午前2時頃、南西低空に月、木、土が左上方に向けて近接して並び、南東中天に火、東低空に金があることが判った。しかし、土、火、金の間隔が広過ぎて、月、木、土の近接ぶりとは釣り合いが悪い。
 
ともあれ、≪惑星弧列≫は要件を緩めればかなり頻繁にみられる天文ショーのようだ。

近い将来では、: 
20190310() 90000

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生涯学習フェア出演 ~ 用務輻輳 ~ 家族葬

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去る12日(火)は来る20日(水)の生涯学習フェア本番に備えての3回目の練習日であった。
 
その23日前から高齢の義母が体調不良(入居中の老人ホームでインフルエンザに感染したようだ)で病院に収容されていたが、危篤との連絡が入っていた。昨日夕方、帰宅した妻から「母は今朝息を引き取った。臨終には間に合わなかった」と聞かされた。
 
特に苦しむ様子もなく、静かに身罷った様だ。葬儀の手配は既に整っていたが、いざとなると、自らは汗を流さないのに嘴だけは突っ込む人たちが気軽に注文を付けるらしい。気の弱い妻は勢いに流されて、式次第変更の連絡に追われ、疲労困憊の体であった。当方、八つ当たりをかわす。
 
近頃は、火葬場とか式場が業務繁多で、予約を取りにくいという。結局、死後8日の家族葬と決まった。それまでは別の遺体安置施設を利用するらしい。家族葬とは言え、交流のあった親戚には声をかけるから、参列者は十五、六名になるのではないか。
 
式は、各人が主体的に参加したことを記憶にとどめられるよう、それぞれになにがしかの役を果たす形で進行させることになった。最低でもスピーチを期待される。九十年余の長い人生を送った故人は、スピーチの材料をふんだんに残してくれた。誰もがそれぞれ取って置きの思い出を語ることだろう。
 
歌が好きだったとのことなので、当方はみんなで歌う唱歌などのリード役を務めることになりそうだ。そうすると、予め歌詞カードなどを用意したくなる。コントラバスを弾く青年も参加するが、大きな楽器を持参するとは思えないから、楽譜を用意する必要はないだろう。音源CDぐらいはあった方がよいだろうか、思案している。
 
選曲は難しい。個人の十八番だった歌、季節の歌、人を偲ぶ雰囲気の歌、などなど。と言っても、そうそう沢山歌えるわけでもない。何といっても葬式には違いない。酒宴ではないのだ。
 
その前に生涯学習フェアを、後には向ヶ丘祭りを無事にこなさなければならない。

素数遊び ~ 確実擬周期? ~ 最大素数捜し

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今日は素数日なので、関連のメモを記しておきたい。
 
20192月の素数日付≫ 
西暦8桁 20190221, 20190227,

西暦7 2019211, 2019217, 2019223,

西暦6桁 201923,
皇紀8桁 26790221, 26790223,
皇紀7桁 2679211,
皇紀6桁 267929
和暦6桁 310223,
和暦5桁 31219, 31223,
和暦4桁 3121,
 

月日だけの2177×31と因数分解される。月と日との間に「0」累桁法を適用して素数を探索すると

 

(4)2017,(6)200017,,,,, と現れる。

 
素数とならず因数分解される桁においては何がしかの擬周期性らしきパタンも見え隠れする。その検証は後日の楽しみとするが、次のような面白い例を見付けた:
 
因数分解(13)2000000000017 = 181×11049723757 に現れる素数「181」に「8」の累桁法を適用すると
 
(3)181, (9)188888881, (15)188888888888881 の素数列が得られる。桁数列 3 9 15 は擬周期「6」を示唆する。中間の桁においては因数分解のパタンが見受けられるので、素数が現れるとすれば、擬周期「6」で3 9 15 の延長上にあると推定された。
 
この推定に基づいて検算した結果、(93-6), (129-6), (885-6)で素数を得た (-6」は擬周期「6」の適用を示す)。当方の利用できる検算具では1000桁が限界である。
 
単純に作業を続ければ、いくらでも大きな素数が得られるのではないかと想定される。ただし、何桁目でヒットするかは予測できないから、アホみたいな作業になる。それでも、メルセンヌ素数で巨大素数を探索する高級な作業と本質的には差は無いように思う、と言うか、思いたい。
 
この屁理屈は、「181」に限らず、他のいずれの(素数候補)原数にも当てはまる。

音楽ホール出演 ~ 後期高齢者コーラス ~ 存続合意

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今や当会の、“ちゃんとした”音楽ホールでの唯一の演奏機会である文京区生涯学習フェアの今年の本番を昨20日無事に終えた。メンバー全員がいわゆる後期高齢者となり、歌唱力の衰え覆うべくも無く、いつまで続けられるか危ぶみながらここまで来た。
 
そろそろ潮時ではないかと皆さんの顔色を窺うと、不思議に継続の希望が帰ってくる。来月以降、新たな方針の下、月2回の例会を持つことに合意が成った。何もかも当方に一任と言う従来の方式は廃し、常に合議により計画を進めることとした。上手く行くかもしれない。
 
今回の演奏プログラムは次の通り:
 
弘田龍太郎の四季
 
小諸なる古城のほとり
鯉のぼり
お盆が来るから
雲に寄せる
秋の山
浜千鳥
春よ来い
文京区歌
 
幾つかの曲には改変を施した。
 
練習は4回しか行えなかったため、当初計画した合唱形式を仕上げられず、諦めて斉唱方式にした曲が多い。その穴を埋めるように、当方の勝手なハモリなどを盛り込んだものもある。綱渡りの気分でもあった。
 
「小諸なる古城のほとり」が途轍もない難曲であることを思い知った。それでも何とか歌うことが出来たのは、メロディーを聴き覚えていたことに拠る。白紙の状態でピアノ伴奏で練習していたら、歌えるようになるまでに何か月を要しただろうか。
 
本番斉唱では、やはり、4名のタイミングのずれが目立った。素人衆には、当初方針通り節目節目での受け渡しによる“分唱”方式が良いのかも知れない。常識はずれのアイディアに対する拒絶反応を呈する向きの多いことは覚悟の上で。
 
パッとしなかった今回の発表であるが、「浜千鳥」四重唱には盛大な拍手を頂いた。予想通りだ。と言っても、功績はソプラノで特別参加してくれたピアニストさんのものである。当方のテノールも結構いい線を行ったと自己満足している。「文京区歌」で急遽試みたオブリガートも録音を聴く限り、悪くない。単調な斉唱に終わらなかっただけでも成功だった。
 

ピアニストさんは「秋の山」を気に入った曲だと言う。昔風の素朴な唱歌だと思うが、美しい曲だとのことである。発掘して紹介した甲斐がある。



天国でまた会おう ~ 難解小説 ~ 映画化に秘策?

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図書館から借りたピエール・ルメートル/著「天国でまた会おう」(平岡敦/訳早川書房2015.10)を読み終わったタイミングで、その原作(Au revoir la-haut)の映画化の話題が今日の朝日新聞夕刊に載っていた(p.3)。
 
どんな書評に誘われて新刊でもない本書を読もうと思ったのか全く思い出せない。売り手側の内容紹介は次の通り:
 

膨大な犠牲者を出して、大戦は終わった。
真面目な青年アルベールは、戦争で職も恋人も失ってしまう。画才に恵まれた若きエドゥアールは顔に大怪我を負い、家族とのつながりを断つ。戦死者は称揚するのに、生き延びた兵士たちには冷淡な世間。支え合いながら生きる青年たちは、やがて国家を揺るがす前代未聞の詐欺を企てる!
第一次世界大戦後のフランスを舞台に、おそるべき犯罪の顛末を鮮やかに描き上げた一気読み必至の傑作長篇。ゴンクール賞受賞作

 
191811月、休戦が近いと噂される西部戦線。上官プラデルの悪事に気づいたアルベールは、戦場に生き埋めにされてしまう!そのとき彼を助けに現われたのは、年下の青年エドゥアールだった。しかし、アルベールを救った代償はあまりに大きかった。何もかも失った若者たちを戦後のパリで待つものとは―?『その女アレックス』の著者が書き上げた、サスペンスあふれる傑作長篇≫ 
 
カタカナ人名の氾濫で読みづらいのは我慢するとしても、決してわくわく、どきどきしながら貪り読むような面白い内容ではなかった。我が性癖で、随所飛ばし読みであった。それによって本書のエッセンスを汲み取り損なったとも思われない。
 
しかし、結局本書が読者に訴えたかったのは何か、さっぱり解らなかった。戦争の非人間性などという単純な問題意識ではない筈だ。むしろ、人の心の不条理を描いた小説なのかも知れない。当方のような唯物論者には向かないということか。
 
印象に残ったのは、情景描写に“匂い”あるいは“臭気”が頻出することだ。香しさではなく、不潔な体や衣服などから発する悪臭への言及が非常に多い。戦地で消耗品のように朽ちて行く兵士の遺体や貧困の極みに這いずり回る下層民が重要な役割を持たされる筋書きとあっては、致し方ないとは言えるが。
 
国家から報われることの無かった帰還兵二人が政府や社会への復習として仕組んだ詐欺は、二人に大金をもたらしたが、一人は復習相手の一翼である実父の車に撥ねられる事故で死に、もう一人は愛人を伴って外国に逃避を遂げるという結末にはどんな意味が込められているのか。
 

映画化とは、必ずしも原作の忠実な視覚化ではないだろうが、それにしても、砲弾で砕け散る人体、下顎を吹き飛ばされて奇跡的に生き延びた兵士の顔など、画面でどのように扱うのだろうか。特に、顎無し帰還兵は主役の一人であり、その容貌が話のアクセントになっているから、処理が難しそうだが。


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例外的繁忙週間 ~ 憩室炎 ~ 幻の音楽葬

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先週は慌ただしい一週間だった。生涯学習フェアの直前リハと本番、義母の告別式、施設訪問コンサートが続き、その間に憩室炎を発症して医者に駆け込んだりした。
 
憩室炎は初めてだったが、家人が何回か経験していて、ほぼどんな病気か承知していたから不安は無かった。深夜の発症で、医院の開店まで痛みをこらえるのは一苦労だった。薬剤を服用して1時間も経たないうちに痛みが消えて楽になったのはちょっとした驚きだった。
 
もっとも、憩室炎の自己申告及び診断が当たりかどうかは、血液検査の結果を見ないと解らないそうだが。
 
告別式は、当初は無宗教での家族葬ということで、極めて簡素なものを想定していたところ、実際には、規模は小さいものの、形式としては通常の仏式葬儀とほとんど変わらないものになった。汗を流さずに口先介入する親戚筋の声に押されたためだ。
 
当方の想定された役割は音楽葬としての仕切り役だったが、会葬者が親密な仲間で集まって内輪の思い出話に興じたため、殆ど出番は無かった。出棺の際に個人の好んだ「千の風」と「涙そうそう」の斉唱の音頭取りを務めただけであった。
 
用意した音源CDと式場のプレーヤの相性が悪かったのか、「千の風」は無伴奏となった。歌い出しのピッチを出まかせに取ったところ、やや高過ぎたようで、皆さんには迷惑を掛けたようだ。「涙そうそう」は余り馴染みが無かったので、皆さんによる成り行きに任せた。
 
万全とは行かなかったが、歌による見送りは評判が良かった。読経の僧の声も見事で、単に職業柄という以上の聴き応えがあった。その僧が、当方の歌いっぷりにも“プロの方ですか?”と賛辞を呈してくれたのは意外であり、社交辞令と判っていても、嬉しくもあった。
 
“いやいや、お坊さんの美声には遠く及びませんよ”との返礼を計算して水を向けたのかも知れない、とは勘ぐり過ぎか。
 
音源CDと歌詞カードには約十曲収録していたので、不謹慎ながら、音楽葬のつもりで臨んだ当方には、些か消化不良の憾みが残った。BGMに用意した故人ご贔屓のヴァイオリニストの演奏も特に皆さんの耳には響かなかったようだ。
 
月例コンサートで訪問していた老人ホームの担当者から、三月以降のコンサート再開のスケジュールについて問い合わせを受けたが、全く見通しが立たない。ピアニスト確保の問題など依然解決できていないのだから。燃え尽き症候群の観もある。なし崩しに足を洗うことになりそうだ。
 
今週以降暫くは花粉症と確定申告で憂鬱な日々が続きそうだ。ささやかな年金収入が殆どの身にも確定申告などという面倒を押し付ける税制は抜本的に改善するべきだ。基本的には、複雑になり過ぎた観の有る税制の簡素化が必要だろう。ごまめの歯ぎしりかな。

素数日和 ~ 227 ~ 切断累桁遊び

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今日は西暦8桁表示の日付「20190227」が素数の“由緒正しい”素数日で、しかも月日だけの「227」も素数とあって、素数遊び日和だ。
 
月と日の間に「0」累桁を施して素数の出現状況を見ると、50桁までの範囲で
 
(4)2027, (15)200000000000027, (27)200000000000000000000000027  
( )内は桁数
 
の通り、3個と少なめであった。
 
月・日の分け目を無視して「22」と「7」の間に「0」累桁を施してみると、同じ範囲で
 
 (4)2207, (11)22000000007, (15)220000000000007, 
  (16)2200000000000007, (17)22000000000000007, 
  (24)220000000000000000000007, (25)2200000000000000000000007
 
の通り、7個と多産であった。
 
数字の区切り方で素数出現状況に何らかの傾向があり得るのか、気になるところだ。たまたま目に
いた199」の事例と比べてみた:
 
(5)10099,  (7)1000099,  (14)10000000000099,  (15)100000000000099, 
(17)10000000000000099,  (18)100000000000000099, 
(20)10000000000000000099
 
(5)19009,  (7)1900009,  (19)1900000000000000009, 
(28)1900000000000000000000000009
 
227」の場合と同じような傾向が見られる。これが一般的傾向であるなどとは到底言えないが、別の事例「1223」を出してみよう:
 
(5)10223,  (8)10000223,  (9)100000223,  (10)1000000223, 
(12)100000000223,  (16)1000000000000223, 
(26)10000000000000000000000223
 
(5)12203,  (9)122000003,  (15)122000000000003, 
(22)1220000000000000000003
 
やはり同じ傾向だ。
 
面白そうだが、経験によれば、これは全く偶然の結果であって、事例数を増
やせばどうなるか分かったものではない。兎に角もう少し調べてみよう。

春のやよいの厄日 ~ 出演予定者脱落 ~ 開き直り構え

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“春のやよいの このよき日”とは、童謡「うれしいひなまつり」の歌詞4番の終節前半の文句だが、今日は好天に恵まれた、そんな“よき日”だった。
 
しかし、当方にとっては、気の滅入る厄日だった。
 
某ボランティア・コーラスグループの春季プログラム稽古始めに顔を見せたヴァイオリニストMさんに明日のアカデミー向丘まつりへの参加を改めて確認したところ、体よく断られてしまった。昨年は引き受けてくれたのだがなあ。楽譜は渡してあったし、試奏済みとも聞いていたのだが、どうも虫の居所が悪かったようだ。
 
そうなるとヴォーカル3名が特製CDの伴奏で歌うしかないと覚悟を決めていたところ、メゾソプラノのHさんから、明日は参加できないとCメールが届いた。別の行事との時間調整がうまくいかないからとのことだ。
 
弱り目に祟り目と相成ったわけで、意気の阻喪感は覆うべくもないが、テノールのTさんと二人で何とか遣り遂げなければならない。やけくその開き直りでストレス発散するしかない。来場されるお客さんには申し訳ないことだ。
 
出し物のうち厄介なのは四重唱曲「浜千鳥」だ。前回、生涯学習フェアでは5名で歌っており、一応は4パートをカバーしていた。それを二人で演奏するとなると、どのパートのどの部分を拾っていくか検討しなければならない。

終始主旋律担当のTさんは特に変更を要することも無いので、問題は当方に降りかかるだけだ。尤も、誰に指図されるわけでもないので、好きなように歌えばよいと思えば気楽なものだ。
 

明日は偶々上巳の節句であるので、プログラムの最後は、前回の「文京区歌」に替えて≪ひなまつり三題≫とした。


ところで、このブログサービスが今年12月に打ち切られるとの告示が最近表示されるようになったが、その後は、これまでの蓄積はどのようにして保存すればよいのか、これまた厄介な問題だ。

三月三日 ~ 向丘まつり ~ 第三十三回

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春雨の 201933日に第33回の向丘まつりが挙行された。当≪愛唱会≫の演し物は次の通り: 
 
弘田龍太郎の四季
 
小諸なる古城のほとり   作曲1925年 詩:島崎藤村
鯉のぼり           1913年 文部省唱歌
雨               1921年 詞:北原白秋
お盆が来るから        1940年 詞:権藤はな子
雲に寄せる           1942年 詞:安藤一郎
秋の山             1937年 詞:斎藤一正
浜千鳥             1919年 詞:鹿島鳴秋
春よ来い            1923年 詞:相馬御風
 
  ひなまつり三題
 
       うれしいひなまつり   サトウハチロー/河村光陽 1936
       雛 祭 り        永井花水藤井清水 1932年?
       ひ な 祭        林柳波/平井康三郎 1941
 
昨日愚痴ったように、楽器伴奏者を得られなかったため、練習録音を編集した特製CDを鳴らして男声2名で歌った。開き直りのリラックス気分はお客さんにも伝わって、会場の雰囲気は良かったのだが、相応にドジの多い出来となった。
 
演後にコーヒー販売カウンターで、年輩の御夫婦から声を掛けられた。最前列の席で聴いて下さっていたお客さんと判った。かなり興味を持たれたことは確かだが、ご主人は団員二十名ばかりの合唱団に参加していらっしゃるとのことなので、こちらに新規加入の御意志は無い。一頻り高齢合唱団の先細りを語り合って別れた。
 
相棒のTさんは直ぐにお帰りになった。当方は本日最後の出演団体である学生合唱団の演奏を聴いた。総勢四十余名、男1・女2ほどの割合の混声、今時の作品を力強く、あるいは軽快に、アクションたっぷりに歌い上げていた。学生仲間の応援もあり、大変な盛況であった。彼らには会場後片付けも担って貰っているようで、その点でも人気抜群の若者たちであった。
 
ひなまつり当日の降雨は普通なのか、珍しいのか気になり、過去三十年の記録を見たところ、降雨確率三十%程度であった。晴れの特異日で知られる11月3日の降雨確率も過去三十年は同程度であった。晴れ神話は消えつつあるのかな。

焦土の刑事 ~ 東京大空襲 ~ 継体天皇

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図書館に予約していた本を順次読破しているのだが、今日は昨日借りた伊藤朱里緑の花と赤い芝生」(中央公論新社2018.9)を殆ど読まずに返した。この本が何故新聞の書評欄に取り上げられたのか、全く覚えておらず、初めの部分を読んでみても、読む価値があるようには思われなかった。一体何を伝えようとした本なのだろう。
 
替わりに借りたのは堂場瞬一「焦土の刑事」(講談社2018.7)である。これは読み出すと直ぐに普通の小説であると解った。奇しくも、1945年日深夜の米軍B29爆撃機襲来の場面から始まっていた。いわゆる“3.10東京大空襲”の幕開け場面である。
 
明3月10日は、慰霊や平和祈念の様々な行事が計画されていることだろう。戦争の悲惨さ、愚かさを訴える人々がいるかと思えば、世界各国で軍備の増強が行われているという現実もある。実際に局地戦争は絶え間なく続けられている。不思議なことだ。
 
脈絡無く「3月10日」繋がりだけのことだが、継体天皇という歴上の人物が面白そうだ。ウィキペディアによれば、
 
継体天皇(けいたいてんのう、允恭天皇39年(450?)―継体天皇2527日(531310?))は、日本の第26代天皇。在位は継体天皇元年24日(50733? - 2527日(531310?
 
である。
 
531年に皇子の勾大兄(安閑天皇)に譲位(記録上最初の譲位例)≫ともある。譲位即日に崩御とも書かれており、曰く有りげだ。
 
ウィキペディアの別項目では≪日本において最初の譲位は645年に行われた皇極天皇から孝徳天皇への譲位とされており≫とあり、継体天皇は譲位したとは見做されていない。
 
現今話題の皇位継承については≪201951日に今上天皇が退位することが決定し、退位特例法の施行日を定めた政令が公布された≫そうであり、同時に改元も行われるらしいから、我々はまた一つ西暦・和暦換算式を覚えなければならない。
 
明治改元のように、元日に遡って改元するという合理的な処理になれば、一抹の救いを味わうことが出来るかもしれない。

合唱例会再起動 ~ リハビリ三曲 ~ 同想三人

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生涯学習フェアという名の発表会が終わってちょうどひと月、次回フェアへ向けての練習が始まった。今日の曲目は、「すみれ色のありがとう」、「フィンランディア」、「モルダウの流れ」の三つ。いずれも三部合唱曲。音程もリズムも特別難しい点は無く、言わばリハビリ気分だった。
 
いつもは発声練習などやらないのだが、メンバーのFさんが、そのままでは全く声が出ないと仰るので、ピアニストさんにお願いして指導して頂いた。御推奨の方式で5分ほど、レガートとスタッカートで昇音、降音を辿ると、気の所為か、声の調子が良くなった。
 
三曲とも一応ハモリが聞こえる程度には仕上がったから、2時間弱の練習の成果としては上々だろう。次回からはお楽しみ曲も取り入れながら、テーマに沿った候補曲を少しずつ片付けて行こう。一年かけて十曲程度でよいだろう。施設訪問コンサートは廃業だ。
 
どこかのプロ合唱団が世界の国歌めぐり事業を手掛けているとの新聞記事を見掛けた。来年がオリンピックの年であることに引っ掛けての企画だそうで、≪世の中に同じことを考える奴が三人はいる≫というのは真理だと思った。
 
Hさんが御自庭から“貝母”を数株掘り出して持って来て下さった。“バイモ”なる草花は初耳だった。早速、鉢植えと地植えにした。面倒見が良いとは言えない当管理人の下で無事育つかどうか、心配なことだ。

円周率31.4兆桁 ~ 3月14日発表 ~ 31兆4159億2653万5897桁

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花粉症に苦しんでいる間に、関心分野の話題に後れを取った:
 
≪円周率31.4兆桁新記録グーグル計算リーダーは日本人
2019/3/15日本経済新聞 夕刊
米グーグルは14日、一般には「3.14」で知られる円周率を小数点以下約314000億桁まで計算し世界記録を更新したと発表した。これまでは2016年に計算された約224000億桁が最高だった。最新のクラウドコンピューター技術を駆使して実現した~
 
この記事を目にしたのは17日で、二日遅れを少し悔しいような気分だったが、直ぐに諦観に取って代わられた。記事に即日接したとしても、数字マニアにとっては遅きに失することに気が付いたのだ。
 
それは「14日」でなければ面白くないのだ。グーグル社は当然その日を選んで発表している。遊び心は「31000億」という桁数にも現れている。
 
ここで少し疑問に思ったのは、「31000億」桁で計算を止めたのかということだ。実際の計算方法を知る由もないが、能力の限界を極めようとする狙いがあるのに、切りの良い桁数指定で計算を実行するとは考えにくい。
 
そこでもっと詳しい情報が無いかと検索したところ、≪31415926535897桁。つまり、円周率の最初の14桁に合わせ≫たものだと判った(https://japanese.engadget.com/2019/03/15/google-31-4-25/)。やはり、遊び心も中途半端ではないと合点が行った。
 

円周率の値の先頭部分の数は3.141592653、、、とよく知られていて珍しくないから、桁数更新の際には、最後尾の十桁ぐらいを発表してくれるとインパクトが強いと思うが、如何か。

 
計算が終わったのは1月21日9時40分50秒(UTC)だそうだ。日本時間(JST)は9時間先に進んでいる。

十 五 夜 ~ 春 分 ~ 満 月

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春分は3月21日であることが多いと思っていたが、天文学上の定義からすれば、全世界共通のある瞬間を含む時点が春分点であるらしいから、地点ごとの時制によって春分の日が前後にずれることがあり得る。日本では21日と20日がほぼ平等に春分の日となるが、世界協定時(UTC)では20日が多くなるようだ(ウィキペディアによる)。
 
今日は春分であるとともに、旧暦に基づく十五夜であり、天文学上の満月でもあるから、言わば≪三冠祝日≫だ。この意味での≪三冠≫の頻度はどのくらいなのか、珍しくもないのか、直ぐには解らない。
 

数字遊びの上からは、今日の西暦8桁日付け20190321 は、素数ではないが、素因数分解では少し面白さがある:

 
20190321 = 3 × 3 × 163 × 13763
 

各素因数の末尾がいずれも3 であり、全体としても3 が多い。年・月・日の三つの数がいずれも3 の倍数であることと関係が有るのかどうかと気になったが、特段の関係は無く、偶然のようだ。

 
201903月素数日
 
西暦8桁 20190301 20190319 20190323 
  6桁 201937 
皇紀8桁 26790311 26790319 
  7桁 2679301 2679307 2679331
和暦6桁 310313 
  5桁 31307 31319 31321 31327 
  4桁 3137

今野紀雄「数はふしぎ」 ~ 素な素数 ~ 最大の玉ねぎ素数

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23日は西暦8桁日付の20190323が素数であった。月3と日23も素数で、月日323 も一見素数風だが、(3)323=17×19 と因数分解される半素数だ。双子素数から成る半素数として何か面白みがあるだろうか。
 
今野紀雄数はふしぎ 読んだら人に話したくなる数の神秘」(SBクリエイティブ 2018.10)を図書館から借りた。
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版元のPRは《~ひと口に「数」といっても、その性質によって「素数」「自然数」「整数(ゼロは整数)」「有理数」「無理数」などと分類できます。そのほかにも「数」にまつわるテーマとして「図形数」「魔方陣」といったものもあります~本書では、「数」そのもの――特にふしぎな性質――に注目して「数」の本質に迫ります~》と誘惑する。
 
目次に《第3章 ふしぎな性質や予想がたくさんある「素数」》があるので、覗いてみると「素な素数」なる不思議な用語が目についた。“右から順々に桁数字を落としていくと、残る数がいずれも素数となる”素数のこととある。桁数字を左側から順々に落としていっても残る数がいずれも素数となるものを以前“玉ねぎ素数”と名付けて当欄で話題にしたところであるが(素数遊び玉ねぎ素数頻度逓など)、これも「素な素数」と言うらしい。
 
問題は、「素な素数」が有限であると述べられていることだ。具体的には、右側から落とす「素な素数」の母数(本書での呼称は「生成数」)は「73939133」を最大として27個しかないとのこと。そして、左側から落とす場合、つまり玉ねぎ素数の母数は「357686312646216567629137」が最大であると述べている。
 
玉ねぎ素数の出現頻度は桁数の増大とともに逓減することは先に述べたところだが、最大のものが存在するとは想像できなかった。素数の無限性からすると意外である。

素な素数(続) ~ 生成数 ~ 逆転桁増し

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「数はふしぎ 読んだら人に話したくなる数の神秘」の図書館蔵書コードは「211177447」とあり、素数風だが、そうではなかった。先頭の「2」を削った「11177447」は素数となる。せっかくだからもうひと数字削って「1177447」としてみると、やはり素数になった。これを続けると、「77447」、「47」、「7」という風に素数を生ずる。よくもまあ、相性の良い番号が割り振られたものだ。
 
同書に引用されている「生成数」、「73939133」(右端から数字を順次落として残る数がいずれも素数である)と「357686312646216567629137」(左端から同様)について、それ以上桁数が伸びないことを確認した。
 
ナンセンスだが、両数に逆の桁落としを施してところ、次のような素数を得た:
 

(8)73939133             (5)39133,(4)9133, (1)3

(24)357686312646216567629137    (7)3576863, (1)3
 
また、それぞれに逆向きの桁増しを施して次の結果を得た:
 

(8)73939133        (9)573939133,(10)6573939133, (11)76573939133,                                                    (12)676573939133,

(24)357686312646216567629137 無し
 
この遊びはもっと先まで続けられそうだ。

強行練習 ~ 七曲 ~ 無伴奏・無音源

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前回、2週間前の練習(2019/3/19(火))では、「すみれ色のありがとう」、「フィンランディア」、「モルダウの流れ」の3曲を粗仕上げ出来たと悦に入ったところ、今日は更に欲張って「われら愛す」(四部)、吉田ちあき「ひつじぐさ」(四部)、“ America, the  Beautiful”、“Va, pensiero sull’ali dorate”、中田喜直「さくら」(二部)に手を出した。

 
ただし、ピアニスト不在、代替音源無しと些か無謀の観があり、各自の音感を頼りの音合わせは度々の中断を免れなかった。当然の如く、どれもこれも、仕上げどころか、手を付けただけのお粗末な結果に終わった。
 

それでも、めげることなく、今日の新曲については各自インタネットなど活用で自習することを約し、「フィンランディア」、「モルダウの流れ」のお浚いもして、何とか格好を付けた。次回23日は、これまた無謀の謗りを受けるかも知れないが、“ Pomp  and Circumsatance”、“Waltzing Matilda”、「カチューシャ」の3曲に手を出すつもりだ。

 
ピアニストさん不在が続いて大混乱を来すような羽目にならないよう、僥倖を当てにしよう。

平成最後の4月 ~ 素数日 ~ 三つ子素数

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世間では冠詞“平成最後の~”が大流行だ。何ほども意味は無くとも、区切りとして大変に解り易いから、当方も流行に肖って≪平成最後の4月≫の素数日に戯れよう。
 
何と言っても、三つ子素数日で始まる稀有の月であることを特筆するべきだろう。
 
  皇紀7桁  2679401, 2679403, 2679407
 
今日はその三つ子素数の中日だ。
 
面白いことに、西暦7桁表示でも、一昨日と今日が双子素数の関係にある。
 
  西暦7桁  2019401, 2019403
 

因みに、401は素数だが、40313×31 407  11×37 と因数分解され、いずれも素数ではない。

 

「令和」改元で脚光を浴びる形の和暦による日付の素数が6桁表示の310423 のひとつだけというのは意外だ。西暦、皇紀より2桁小さい数であればむしろ素数に当たり易いと思われるところだが。

 
20194月 素数日
 
西暦8桁 20190421,

7桁 2019401, 2019403,2019419,

6桁 201947,
 
皇紀8桁 26790427

7桁 2679401, 2679403,2679407, 2679427,

6桁 267941,
 
和暦6桁 310423

宮城県涌谷町 ~ 万葉集北限 ~ 秋田県八郎潟

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心の痛むニュースがあった:
 

4/6() 5:53配信 テレ朝ニュース

新しい元号「令和」の出典の万葉集の歌に詠まれた北限の地として脚光を浴びた宮城県涌谷町の町長が山林で死亡しているのが見つかりました。自殺とみられています~
 
第一報では“万葉集の歌に詠まれた北限の地”とは記していなかったので気が付かなかったのだが、涌谷町を当ブログで取り上げていたことを思い出した:
 
《万葉集中最北の歌は大伴家持が「陸奥の小田なる山」「みちのく山」を詠んだ歌とされているようだ。それは、現在の宮城県遠田郡涌谷町涌谷字黄金山だという。(わくや万葉の里 天平ろまん館公式ホームページに拠る。)》(薩摩隼人の歌~万葉集~陸奥山の歌 2010/12/13(月)
 

当時の問題意識は、《「我妹子を外 ( よそ )のみや見む越の海の子難 (こかた )の海の島ならなくに」(万葉 3166)の「子難 ( こかた )の海」を吉田教授は、八郎潟であり、万葉集中最北の歌であるとも述べている》ことにあった(大伴家持~秋田城木簡~終焉の地 2010/6/14(月))。吉田教授とは、国語学者の吉田金彦氏である。

 
吉田説は依然として異端視されているようだ。学問的には決着がついているのかな。

山本周五郎 ~ 寝ぼけ署長 ~「街(ちまた)の子」の歌

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山本周五郎「寝ぼけ署長」(新潮社 2014.11)を読んだ。戦後間も無くの頃、雑誌に連載された一連の警察小説をまとめたものというから、発表後七十年余の古典で、時代設定は更に二十年ほど遡ると思われる。

その第1話「中央銀行三十万円紛失事件」というタイトルには惑わされた。“中央銀行”とは日本銀行を暗示しているとばかり思ったのが勘違いだと解ったのはかなりのページ読み進んでからだった。民間の一市中銀行の設定だった。“国の中央銀行”という概念は著者の頭には無かったようだ。

その現金紛失は内部犯行であり、銀行は被害者であるとして犯人捜ししか念頭に無い捜査員たちに対して“寝ぼけ署長”は、≪金は銀行にある筈だ≫と断言する。それは、現金は行内に隠されただけで、未だ持ち出されてはいないという推理を述べたもののようだが、当方は、ここでも勘違いをした。

銀行が何らかの裏金作りのために紛失すなわち盗難を装ったのが事件の真相であると喝破したものと受け取ったのだ。さすが一流の作家は時代に先駆けた発想をするものだと感心した。そういう読み方が出来るような記述だったのだろうが、本は図書館に返してしまったので確認できない。単なる早とちりでなかったことを信じたい。

第4話「新生座事件」は地方公演の劇団を舞台として、殺人事件が起きるのではないかと思わせるスリラーの趣がある。その中に≪~みんなでシュミットボンの「街(ちまた)の子」の歌を合唱してから~≫という件があった。

「ちまたの子」と聞けば、“わたしは まちのこ ちまたのこ”という歌の文句を思い出す。子供の頃聞き覚えた流行歌の一節だ。検索したところ、美空ひばりの歌った「私は街の子」(1951)と判った。

「街(ちまた)の子」の歌とはどんな歌か。みんなで合唱したというからには、これも流行した歌のひとつだろう。ただし、シュミットボンの「街(ちまた)の子」という劇か映画の主題歌あるいは劇中歌であると思われる。ネット検索では手懸り無し。

次のような項目が一つ:
≪サウンド・オン・フィルム特別上映会|『路上の霊魂』生演奏上映会|公式 ...
www.ccosaka.org/sof08_2.html Cached

本作は、シュミットボン『街の子』(森鴎外訳)、ゴーリキー『夜の宿(どん底)』(小山内訳)を元に、牛原虚彦が自由に翻案した。人間の悩みを主題に、二つの対照的な例が並行して描かれる手法にはD・W・グリフィスの「イントレランス」の影響が見られる。1921 ...≫
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20081019日(日)
開場:午後130
開演:午後2

大阪歴史博物館4F講堂

NPOコミュニティシネマ
大阪事務局 
06-6373-1211
e-mail.
mail@ccosaka.org

サウンド・オン・フィルム
公式サイト


強化ガラス破裂 ~ 些細な刺激 ~ 劣化の目安

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今朝がた、快眠に浸っていた所を家人にたたき起こされた。“大変なことが起きた。見てくれ。”と。台所に連れていかれ、ガラスのボウルが破裂して破片が飛び散った有様が目に入った。

冷やしておいたポテトサラダを掬っていたら破裂したとのことだ。ボウルは腕に抱えていたらしい。したがって、衝撃は全く与えていないと思われる。内底をなぞるヘラによる圧力程度のストレスはボウルに掛かっていただろう。
 
ガラスの破片は3~4メートルの範囲に散乱していた。家人は指を切る怪我をしたが、その程度で済んだのは不幸中の幸いだ。
 
強化ガラスは突然破裂することがあることを久しぶりに認識した。直ぐに電子レンジ扉の破裂事故を思い出した:
 
《オーヴン・レンジの扉ガラスの外側強化ガラス板が予熱中に割れて飛び散った》
 
考えてみると、強化ガラスの危険性は一般常識と言えるくらいによく知られている。それでも普段は気にすることもなく平気で使っているのが実情だ。破裂することは非常に珍しいから、自分が被害を被ることはあるまいと思うのは人情だ。交通事故が毎日起こるといっても、自分がまきこまれる確率は低いから、平気で出歩くのと同じことか。
 
まじめな話、強化ガラスの劣化、破裂の危険性の逼迫度は目視で判断できるのかどうか、あるいは、安全な耐用年数の目安について、情報が欲しいところだ。そうでなければ、不発弾を弄繰り回すようなものではないかと恐ろしくなる。
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