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五つ子~東京都歌~浅・朝

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旧聞に属するが、次のような話題に接した:
 
東京都広報[平成2511月号]  《懐かしの一枚》11月 昭和59
東京都歌からの命名が縁で、五つ子ちゃん一家が渋谷区松濤の知事公館に都知事を訪問、七五三の報告を行った。鈴木知事夫妻は、初来日で話題沸騰中のコアラのぬいぐるみをプレゼント。(昭和59116日撮影)
 
都歌の歌詞は2011/3/29()  に記載している。歌の性格上、明るいイメージの単語が散りばめられているから、命名のソースには格好である。気の利く人がいるものだ。具体的にどんな名前が採用されたのか興味が湧き、検索してみた。
 
某サイトに“1981年の今日は、東京都で初めて生まれた五つ子、山下朝(はじめ)、翼(つばさ)、緑(みどり)、光(ひかる)、都(みやこ)...”とあった。
 
歌詞に当たってみると、翼(つばさ)、緑(みどり)、都(みやこ)はずばり該当する単語がある。朝(はじめ)、光(ひかる)は、“あさみどり”“自由のひかり”の応用と思われた。“あさみどり”の“あさ”は朝ではなく、“浅”だと思うが、どうだろう。
 
この五つ子誕生には個人的に思い出すことがある。彼らの父親の友人だという我が同僚がお祝いの進呈役を務めたと言っていた。その同僚は、恵まれない人生を送ることになった。心が痛む。
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石川啄木~野村胡堂~石井露月

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正月明けに大ホールで高田三郎《啄木短歌集》から4曲ばかり演奏することを企んでいる所為か、近頃石川啄木に意識が傾いているようだ。今日も、古い雑誌(俳諧雑誌 大正87月号)に目を通して、以前の投稿(石川啄木~空を見上げて~石井露月 2013/7/11())を思い出した。時間を共有した啄木と露月との接点の有無に再び興味が湧いた。
 
ある資料に、“野村胡堂(18821015 - 1963414)は岩動孝久(俳号露子),菊地健次郎,猪狩見竜(俳号五山)らと~~~野村も董舟を俳号とし,優れた友人たちとともに句作を楽しむ。野村董舟は仲間の岩動露子,岩動炎天,猪狩五山,猪川箕人の五名で夏に秋田への吟行を試み,後年,その思い出を楽しそうに記してもいる”とある。
 
この吟行は明治33717日から始まり、露月を含む秋田の俳人の胸を借りての俳句修行であったことが知られている。
 
また別の資料によれば“ 岩動孝久は石川啄木・野村胡堂金田一京助などと知己であり、露子の俳名で俳句をものした。孝久の実弟・康治(道行の父)も兄の影響で炎天の俳名で句作に親しんで”いる。
 
つまり、啄木と親しかった野村胡堂、 岩動孝久らが露月と親しく俳句を吟じ合ったのだ。胡堂だけでなく、康治も露月も、このことを書き残している。
 
その時期、啄木は何をしていたか。ある資料によれば、啄木は“1900年(明33)7月18日,担任富田小一郎に引率され,阿部修一郎ら級友7人と岩手南海岸への丁二会修学旅行に出発。一関から気仙に出て,啄木ははじめてを見”た。
 
また、この頃(同年秋)から“翌年にかけて及川古志郎,金田一京助(花明),野村長一(胡堂)らの感化を受けて文学に目覚め,折から創刊された『明星』を金田一に借りて愛読”した。
 
というような状況だったとすると、夏休みにそれぞれ長期旅行をして盛岡に帰った胡堂、孝久らと啄木とが体験を語り合う中で、露月が話題に上ることは有り得ただろう。啄木が関心を示すとは限らないが。彼はまだ14歳だった(露月は27歳)。
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ア・カペラ②~有伴奏~電動補助歌

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区役所地下広場の月例ランチタイムコンサート、今日も若いグループのア・カペラだというので出掛けた。早い昼飯を慌ただしく掻き込んで会場に着くと、ほぼ満席状態だった。実は先週のレッドリボンコンサート(2013/11/19())と同じ会場、グループなのだが、開催が定例か単発かで、客の入りに大きな差ができるのだ。
 
空席を捜してウロウロしていたら、常連のMさん夫婦の後ろ姿が見えた。御主人の隣の席が空いているが、手提げ袋が置いてある。とにかくご挨拶すると、その袋を除けてくれた。小生が来るだろうからと席を確保しておいたとのことだ。ご厚意有難くお受けした。
 
1 Seasons of Loveジョナサン・ラーソン
2 Center of my joyリヤーズ・スモールウッド
3 いつまでも/若松
4 アベベルムコルプス/W.A. モーツアルト
5 上を向いて歩こう/中村八大
6 ふるさと/岡野貞一
7 花は咲く/菅野よう子
 
ア・カペラと銘打っているが、無伴奏は 4, 5, 6 3曲だった。マイクを沢山並べるのは前回と同じで、やはりア・カペラの魅力を発揮するには邪魔だと思われた。
 
アベベルムコルプスでは、音響装置を活用して低音を極端に強調していたが、これを使わない場合との差が歴然であった。音を楽しむのに文明の利器を活用しない手は無いとも言えるが、過ぎたるは及ばざるが如し。柔らかい肉声の良さを思い出して欲しい。日本語及び外国語の発音にも無頓着のようであった。これは今時の若い人たちの通弊か。
 
とは言え、完全暗譜、表情豊かに全身で表現する演奏ぶりは、前回と同じく、高く評価したい。
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昇曙夢②~ニコライ~歌上手

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以前(2012/6/5() )、昇曙夢・譯編「ろしあ民謡集」(大正9年1月 大倉書店)について書いた際に、“昇曙夢はどのような資料を基にしてこの訳業を遂げたのだろうか”と自問した。
 
近頃間歇的に読んでいる中村健之介/著「ニコライ 価値があるのは、他を憐れむ心だけだ」の中に“東京駿河台の正教神学校でニコライから七年間にわたって教えを受けたワシリイ昇直隆(曙夢)は~”との記述がある。
 
これは、昇がロシア正教の神学とロシア語を教わったことを意味するに過ぎないが、別に次の記述のあることがヒントになると思った。
 
“(ニコライは)晩年の談話で次のように語っている。「生来のん気な明るい性格なので~よく遊んだ。あるときなどは、親戚の者の婚礼で思いっきり踊ったりもした[ニコライは歌が好きで上手だった。ダンスも上手だったようだ]。」”
 
また、ニコライも学んだ中等神学校について、“「音楽教育」が過剰なまでに熱心に行われている”との批判があったことが述べられている。
 
つまり、過剰なまでに熱心な音楽教育を受けており、歌が好きで上手だったニコライの教えを七年間にわたって受けた昇は、ロシアの音楽書あるいは歌集を容易に手にする環境にあったのではないか、と推察する。
 
これで、それら原書が明らかになるわけではないが、疑問の半分は解けたような気分だ。
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天地~地天~ニコライ③ 

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石川啄木「一握の砂」に次の短歌がある。
 
あめつちに
わが悲しみと月光と
あまねき秋の夜となれりけり
 
あめつちとは、辞書には【天地】天と地、全世界、などとある。漢字で書けば、普通は“てんち”と読むだろう。これを前後逆に「地天」とかれたものを初めて目にした。「地天老人一代記」という本のタイトルにある。ふざけた造語かと思ったが、念のために検索すると、立派な名詞だった。“ちてん”ではなく“じてん”と発音するようだ。
 
()P thivの訳》もとは、大地をつかさどるインドの女神で、仏教の護教神となったもの。十二天の一。釈迦(しゃか)の成道(じょうどう)の時、地中から出現してその証人となったとされる。堅牢地神。
 
要するに大地の神なのだろう。とすると、「地天老人一代記」の主人公は、己を神に準えたのだろうか。本書の副題は「木村泰治自叙伝」(著者:遠藤正雄. 出版者:岳温泉㈱. 出版年: 1960)である。その辺の詮索はさて置き、本書に目を向けさせたのは、またまた中村健之介/著「ニコライ 価値があるのは、他を憐れむ心だけだ」である。
 
ロシア正教布教のために来日した青年ニコライに函館で日本語だけでなく広く日本文化の知識を授けた木村謙斎という人物がいた。
 
秋田・大館城の城代・佐竹氏の御側医師で、北方警備に駆り出された藩兵と共に軍医として蝦夷地に赴任した縁で、函館で開業し、傍ら私塾を開いて意欲のある者に漢学などを教えた。
 
そこへニコライが現れて日本語を教わることになった。謙斎は教養豊かな知識人だったようで、ニコライは後々まで彼を慕ったそうである。
 
因みに、謙斎が帰郷した後にニコライの日本語教師役を務めたのが、最近頓に関心を呼んでいる新島襄であった。謙斎と違って新島はニコライから見ると弟分となり、いろいろと面倒を見て貰ったらしい。
 
しかし、新島はアメリカへの密航と彼の地での勉学を果たし、十年後に帰国してからは、ニコライを避けていたらしいという。ロシア正教でなくプロテスタントの道に入ったため、気まずかったのかも知れない。表面的には、恩知らずの態度を取ったと思われても仕方が無い。
 
さて、本題の「地天老人」であるが、本名は副題にある通り「木村泰治」であり、謙斎の息子である。謙斎は地方名士で終わったが、泰治は大物に育った。
 
ジャーナリストから実業家に転進し、特に台湾と福島県に足跡を残したようである。台湾では多数の企業を興し、財界のまとめ役になり、台湾銀行の危機を救い、福島県では、これまた危機に瀕していた岳温泉に厖大な私財を投じて発展させるなどしたそうだ。
 
その泰治について、中村健之介氏は、“台湾銀行頭取”も務めたように書いているが、インタネット検索では確認できなかった。いずれ機会が有ったら「地天老人一代記」に当たってみよう。
 
なお、泰治の生没について、[1872年~1961年]と[明治三年~昭和三十八年]すなわち[1870年~1963年]との二通りの資料がある。
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赤熊(しゃぐま)~ヒグマ~あかぐま

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以前、“白熊・黒熊・赤熊”について書いた(白熊仔熊~ハグマ~コグマ 2013/7/28() )。発音は“ハグマ・コグマ・シャグマ”だった。意味は白・黒・赤各色の払子などだった。その“赤熊シャグマ”なる名詞に最近お目に掛かった。
 
東大出版会のPR誌「UP」11月号に木下直之氏が「クマを見る」と題して非常に興味深いエッセーを寄せている。その中の1項目に「上野公園内獣室」がある。この項目自体、どこで切れるのか不明だが、木下氏も“「上野公園内獣室」という不思議な図が『上野動物園百年史』に載っている。”と書き出している。
 
お話も面白いのだが、引用されている明治十一年(1878)三月十二日の読売新聞記事の要約にある“北海道のクマとも赤熊(しゃぐま)とも異なり”に目が釘付けされた。赤熊(しゃぐま)が猛獣のクマの一種をも意味することになる。
 
そこで、改めて検索したところ、“あか‐ぐま【赤熊】ヒグマの別名。”との記述があった(デジタル大辞泉)。“ひ‐ぐま【×羆】クマ科の哺乳類ヨーロッパからアジア北部、北アメリカにかけて分布多くの亜種があり、ふつう体長2メートル体重200キロ。体色も灰褐色・赤褐色黒褐色変化が多く、地方によりアカグマ・ハイイログマなどとよばれる。北海道にすむ亜種エゾヒグマは~”とも。
 
この説明によれば、猛獣のクマの場合は“アカグマ”であり、“シャグマ”は払子など飾り物を指すのが普通の用法である。百三十年余り前の読売新聞が用語(ルビ)を間違えたのか、或いは当時と近時とで日本語の用法が異なるのか、興味深いことだ。
 
蛇足で、エッセー中、“明治八年(一八六九)”との表記があり、どちらの数字が正しいのか迷わされる。実際は、文脈から“明治八年(一八七五)”が正しいと判るのだが。
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大正少年唱歌 第一輯~とんび~カナリヤ

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某古書目録に「大正少年唱歌 第一輯」(小松耕輔・葛原他編 大7 初)が載っていた。“”は本当はクサカンムリを頂くのだが、ワープロソフト(字典)に登録されていないので代用されたものだ。“他”と略されたのは梁田貞である。
 
結構なお値段が付いていたのでどんな歌が収載されているのか、調べたところ、次の10曲であった:
 
一 学校生徒     小松
*二 花と春風     梁田
三 お友達      梁田
*四 すゞめ      小松
五 まり       小松
六 カナリヤ     梁田
七 箱庭       小松
*八 とんび      梁田
*九 蓮の葉の露    梁田
*十 兵士       小松
(*印は文部省認定)
作詞はすべて葛原によるものと思われる。
 
このうち、「八 とんび」がお馴染みの唱歌であった。その歌詞は、覚えているものと微妙に違うので書き写しておこう(勿論、記憶の間違いだろう。):
     とべ とべ とんび、 空高く
     なけ なけ とんび、 青空に。
     ピンヨロー、ピンヨロー、
     ピンヨロー、ピンヨロー、
     たのしげに、輪をかいて。
 
     とぶ、とぶ、とんび、空高く、
     なく なく とんび 青空に。
     ピンヨロー、ピンヨロー、
     ピンヨロー、ピンヨロー、 
     たのしげに、輪をかいて。
 
小学校の教材としては、第5学年第1学期7月への配分が適当と記されている。
 
「六 カナリヤ」は、成田為三の同名の童謡を思い出させる。こちらは西條八十の作詞で、「かなりや」とひらがなだ。「赤い鳥」1918(大正7)年11月号に詩が、翌1919(大正8)年5月号に曲が発表されたそうだ。したがって、葛原・梁田版「カナリヤ」の方が先に世に出たことになる。
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大正少年唱歌② ~小松「雨だれ」~梁田「音楽講習会」

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昨日の「大正少年唱歌」については、以前も書いていた(雨だれ~葛原しげる/小松耕輔~知れず/シレソ 2011/10/25())。
 
梁田貞の私的唱歌教材(梁田貞~音楽講習会~山形県南村山郡教育会 2011/9/28())に収録されていた「雨だれ」(小松 曲)が、“大正少年唱歌(第1集)大正7”に掲載されているように書いた。
 
ネット情報を基にしたのだが、間違っていたことは昨日の投稿に照らして明らかである。「第一輯」ではなく、「第七輯」に載っている。教材としての適期は第五学年一学期五月とされている。
 
池田小百合氏の調査によれば、「第七集」は“大正十三年(1924)七月十五日初版”であり、梁田の音楽講習会が“大正十三年八月”から始まっているらしいことと時期的に整合する。
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木村泰治~台湾銀行救済~台湾銀行史

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先に、ロシア正教ニコライ大主教に日本語を教えた木村謙斎の息子・木村泰治の功績について書いた(天地~地天~ニコライ③ 2013/11/29())。その中に、“台湾銀行の危機を救った”ことがあるが、これは孫引きである。
 
その典拠は、「地天老人一代記木村泰治自叙伝」であると思われる。自叙伝とあるが、口述筆記によるもので、編集者は木村が発展させた会社の関係者のようだから、贔屓目に書かれていると考えるべきだろう。
 
 「台湾銀行史」(昭和39.8.20)という大部(凡そ1500頁)の資料にざっと目を通して見た。問題の“危機”について詳細に記述されているが、木村の名前は出て来ない。見落とした可能性はあるが、本書が同行出身者による記録であり、政府や監督庁との遣り取り中心に書かれているので、外部(財界など)からの応援は重視していない。
 
僅かに、“台湾主要企業・銀行から総理大臣や日銀総裁あて、台湾銀行救済の陳情書も有効だった”旨の記載がある。
 
重役異動表にも木村の名前は無い。
 
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カレンダー~専売制~宗教的権威

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昨日の某メルマガに次のような記事があった:
 
“本日123日は「カレンダーの日」
カレンダーとして自由に出版できるようになったのはいつか?と言いいますと、第二次世界大戦後から。それまでは、専売制で自由化されたのは1946年からだそうです。”
 
カレンダーが専売制だったとは知らなかった。専売と言えば塩・タバコが思い浮かぶ。その名も専売公社という国営企業があった。カレンダー専売の法的根拠を確認しようとしたが、ネット検索ではヒットしなかった。
 
易者の家元(?)が旧暦・陰陽五行を併記した暦を発行していたのは覚えているが、それが専売の一種だったのか。某サイトでは、神宮司庁の専売だったように記述しているが、神宮司庁とは何か、よく判らない。伊勢神宮を指すのだろうか。
 
今は、カレンダーの基となる暦に関しては、東京天文台が公的権威を与えられている。西暦では、ユリウス暦とか、グレゴリウス暦などと言うから、ローマ法王が制定権を持っていたのか。
 
権は、権力ではなく、権威の権。暦と宗教とに密接な繋がりがあるのは、ごく自然なことのようだ。
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合唱のつどい~啄木短歌~練習最終段階

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当「愛唱会」は、来春の合唱のつどいに向けて、いよいよ最終調整に入った。高田三郎作曲の「啄木短歌集」全8曲から、4曲を選んでいる。
 
今日歌ってみて、課題の多さに正直のところ驚いた。今まで自己満足のレベルでしか歌っていなかったことを痛感する。他人様に聴いて頂くには、改良の余地があり過ぎる。
 
演奏が、表情に乏しいというのが第一印象だ。楽譜に指示されている強弱などを忠実になぞっている積りでも、聴いてみると一本調子だ。緩急も、もっと思い切って付けないと単調に聞こえる。同じ歌詞で2回繰り返すときには、更に工夫が必要だ。
 
その他、いつもの反省事項になるが、歌詞の読み方が、一文字一文字置いて歩くようになったり、語頭の子音の発音が甘くなったりしている。
 
これらに加えて、望先生からは、曲のイメージが湧くような歌い方をするように注意されている。このご注文には一朝一夕には応えられそうにないが、少なくとも、啄木短歌の詠んでいる情景や状況を頭に描きながら歌うことで少しはマシになるだろうか。
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雪は旅人~夕日の笛~二部合唱に編曲

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昨日の練習例会では、啄木短歌4首の外に、新しく「雪は旅人」(詞・曲大山高輝)と「夕日の笛」(石本美由起/木下忠司)を歌った。
 
前者はこれからの季節に相応しいので採用した。一見、簡単そうだったが、歌ってみるとリズムに意外性があり、初めは戸惑った。NHKみんなの歌で17年前に紹介されたそうだ。癖の無い、親しみ易い歌詞に好感が持てる。単旋律なのが勿体なく、二部仕立てにしてみた。実際に歌うとどうなるのか、次回のお楽しみ。
 
後者は、奥ゆかしげな歌詞と落ち着いた曲調が気に入って採用した。さすがにプロの作詞家と作曲家だ。尤も、歌詞の素材が、人々の脳裏に刻みこまれた歴史物語であることも有利な条件だ。タイトルも、(年輩者には)有名な「青葉の笛」を連想させる。
 
この曲もほぼ単旋律、後ろ4小節だけ2部したてになっている。ついでに、全体にハモリなど入れてみた。最後のコーダが伴奏譜のみであるのが惜しい。これも声部に取り込もう。みんなの歌で47年前に紹介されたとある。
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「いざ歌え」~1816年~「きよしこの夜」

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キリスト教とは縁もゆかりも無い身で、今月は何回かのクリスマスコンサートに出演する。お客さんも殆ど仏教徒兼神道信者の筈だ。言わずもがな、我国のクリスマスは、宗教に関係の無い娯楽である。一方にクリスマス便乗商法があり、他方にキリスト教音楽趣味がある。
 
所謂讃美歌には、心に沁みるものが多いのは事実である。だからこそ、布教の有力な手段として活用されてきたのだろう。信じようが信じまいが、讃美歌を聴いたり、歌ったりして厳粛な気分に浸ったり、俄か善人になったりするのも悪くはない。
 
「笛の友だち 第三集 二部合奏曲」(音楽シンキャウ社 昭和30年11月)という古い楽譜集を見ていたら、聞き覚えのあるメロディーがあった。
 
「聖なるかな」(シシリア民謡)となっている。ネット検索で、
 
“賛美歌108 (O Sanctissima)
いざ歌え いざ祝え うれしきこの宵(よい)
神の御子(みこ) 現れぬ いざほめたたえよ
O du fröliche, o du selige,
gnadenbringende Weihnachtszeit!
Welt ging verloren,
Christ ward geboren:
Freue, freue dich o Christenheit!
”と判った。
 
宗派によっては“讃美歌21 260 いざ歌え、いざ祝え O du fröhliche  (ルカ2:10-11 マタ2:10)”などと表示したものもある。
 
面白いことに、ドイツ連邦共和国大使館・総領事館HPに次のような解説がある:
 
“「いざ歌え、いざ祝え・・・」1816年、ヨハネス・ダニエル・ファルク(1768-08261826の間違いと思われる。])は「いざ歌え、いざ祝え」の第1詩節を書きました。メロディーはシチリア島に伝わるマリア賛歌「いざ歌え」より受け継がれたものです。
 
ファルクはこの歌を自らが世話をしていた孤児たちに捧げ、彼らと共に歌いました。彼の助手ハインリッヒ・ホルツシューアー(1789-1847)が1829年に第2、第3詩節を書きました。”
 
同HPには、お馴染み「きよしこの夜」の簡潔な解説もある:
 
“歌詞は、助任司祭のヨーゼフ・モアーが1816年にオーストリアのザルツブルク郊外にあるルンガウ郡のマリアファーという村で書き上げ、アルンスドルフで学校の教師もしていたオルガニストのフランツ・クサヴア・グルーバーが1818年のクリスマス前にこの歌詞にメロディーを付けました。18181224、二人はザルツブルク郊外のオーバルンドルフという村にある聖ニコラウス教会でこの曲を初めて演奏しました。
しかし、この曲が有名になったのは、チロル地方のツィラータルという地域にあるフューゲンという村のオルガン造りのマイスター、マウラッハーが、チロルの音楽家たちとドイツのライプツィッヒでこのメロディーを演奏したことがきっかけでした。
「きよしこの夜」はドイツで大成功を収め、そのまま世界中に広まり、今日では、この曲は世界中で300を超える言語と方言に翻訳されています。”
 
「いざ歌え」の方が「きよしこの夜」よりも少し先輩なのだ。
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老人施設慰問~プサルター~突発的フーガ

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歌い手十数名、管弦6名、ピアニスト、指揮者から成るグループで介護老人保健施設の誕生日会の余興に出掛けた。昔は老人ホームと言う種類の施設しか無かったように思うが、近頃は制度の細分化で、覚えきれない様々な施設が乱立している。正式名称を呼ぶのが面倒な時は、“老人施設”で間に合わせる。
 
当施設の謳い文句は次の通り:
 
“山の手線環内初の都市型施設です。入所:100/通所:50
緑あふれる東京大学や上野公園に程近い文京区湯島に位置し、都会にありながら静かな環境で、各種のイベント企画に参加しながら生活そのものがリハビリテーションになるように配慮されています。”
 
今日の曲目:
 
冬景色
故郷の廃家
旅愁
星の界
アンダンテ・カンタービレ 第2楽章 弦楽
ジングルベル
荒野の果てに
諸人こぞりて
クリスマスおめでとう We wish you a merry Christmas 
ユモレスク    ヴァイオリン・ソロ
Amazing Grace   ソプラノ・ソロ
聖夜   ハンドベル+コーラス
Happy birthday to you
 
弦楽器として、懐かしい(2009/10/30())プサルターが1丁加わっていた。プサルタリーと紹介されていた。中型で二等辺三角形だったが、形や大きさはは色々あるそうだ。音域は4オクターブ。小ぶりの弓で擦ると、ヴァイオリンに似た音色を発する。音量は小さめだ。
 
荒野の果てに]は3番まで歌う手筈になっていたところ、ピアノが2番で終わりそうになった。当管理人は構わずに3番に入ったのだが、他のメンバーはピアノに釣られて一旦止まってしまった。
 
指揮者が急いで3番を催促したものの、当然ずれたまま歌い続ける羽目になった。歌いながら、ずれたままでも余り不自然には感じなかった。特に、メリスマの“Gloria in excelsis deo”の部分は、そういう風にずらした歌い方も悪くない。怪我の功名?
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「もみの木の小音楽」~ドイツ民謡~宗鳳悦/福居秀介

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一昨日紹介した「笛の友だち 第三集 二部合奏曲」に、もう一つ気になる曲が載っている。「もみの木の小音楽」で、ドイツ民謡と記されている。
 
直ぐに思い浮かぶのはクリスマス定番曲のような「もみの木」(O Tannenbaum)だ。実際、初めの2小節は“もみのき もみのき”のメロディーそのものだ。
 
しかし、続く14小節は全く異なる。このような別ヴァージョンの“O Tannenbaum”がドイツには伝わっているのか。それとも、編集者が原曲の冒頭部だけを借用し、後は新たに創作したものか。
 
編著者は、宗鳳悦(東京都中央区立明正中学校教諭)/福居秀介(東京リコーダークラブ)となっている。
 
参考サイト http://blog.goo.ne.jp/k_akasyobin/e/3925c4d909002a5bc8816879dfa1fc22(宋鳳悦と表記している。宗と宋、紛らわしい。
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ジョアン・コンサート~歳末特番~要改善

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月例“「介護老人福祉施設ジョアン宮地の里」(特養部門)訪問コンサート”に今日も行って来た。丁度出がけに雨が盛大に降っていたが、音合わせのカラオケ店に着く頃には止んでいた。
 
午前中に合わせをして、午後に本番と言ういつもの手順で、今日は難度の高い「ラ・ノヴィア」と中難度の「りんご村から」を先ず確認した。「ラ・ノヴィア」は、上手くいかなければ次回に回そうと決まっていたが、何とかやれそうな仕上がり具合だった。
 
会場(と言っても廊下の幅が少し広がった場所)に、大体いつも通りの約二十名のお客さんが集まってくれた。
 
フルート・デュエット
 おめでとうクリスマス
 ジングル・ベル
 いつくしみ深き
 もろびとこぞりて
 ひいらぎ飾ろう
 主よ人の望の喜びよ
三重唱
 ラ・ノヴィア
りんご村から
手のひらを太陽に
冬の星座
冬の夜
モミの木
きよしこの夜
お正月
お元気で
(アンコール)
荒野の果てに
 
今年最後の訪問であり、クリスマス・コンサートの意味合いもあるので、曲数は多くした。三人とも赤いサンタ帽を被っての演奏だ(余り気が進まなかったのだが)。
 
午前中の音合わせでは上手くいったものが、午後の本番ではかなり聴き劣りのする出来となった。これが普通かも知れない。反省するに、練習不足は別として、時間の制約を気にして、曲間を詰め過ぎたようだ。呼吸を整え、歌う準備を大切にしなければならない。
 
間合いを切り詰めても、曲数が多く、押し売り気味のアンコールも歌ったので、約四十分かかった。今後は、時間の短縮を心掛けて、質を高めて、お客さんに喜ばれるようにしたい。
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井上頼豊~堀内敬三~敵性音楽追放

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某古書目録で書名を見掛けた「聞き書き 井上頼豊 音楽・時代・ひと」(外山雄三,林光音楽之友社 1996.3)を図書館から借りて読み始めた。
 
先の戦争中の思い出として“(昭和)十八年一月に約一千曲の演奏禁止のリストができました”とある(p.74)。その欄外註が面白い:
 
“禁止曲には次のようなものが含まれている。 デキシーランド、ヤンキー・ドゥードゥル、アンニー・ローリー、ラプソディー・イン・ブルー、オールド・ブラック・ジョー、峠の我が家、アメリカン・パトロール、スワニー河、谷間の灯ともし頃、アロハ・オエ・・・。
 
「『蛍の光』も『埴生の宿』も『庭の千草』も『更けゆく秋の夜』も『夕空はれて』も、我々に永年親しまれたとはいへ敵の歌だ。そんなものに恋々として戦争はできない。家庭からも学校からも演奏会からも、有(ママ)らゆる米英の曲は追い出してしまう。それが音楽者としての戦争の手はじめだ。」(堀内敬三)=『音楽之友』昭和十八年新年号”
 
堀内敬三と言えば、永らくアメリカで勉学し、帰国してからは彼の国の音楽なども随分紹介し、米英の愛唱歌の訳詞を沢山手掛けていると記憶する。時局柄とは言え、実の処し方の巧みな人だったのだな。
 
井上頼豊は、(戦争遂行に音楽家として積極的に協力した)山田耕筰についても、“信念からと言うより、世の中に掉さすのが非常に早かった、それだけ”と評している(p.71)
 
因みに、上記『音楽之友』昭和十八年新年号の堀内の論説には、次のような前段がある:
 
~~~、いまもって軽音楽をやる人々の一部が米英の楽曲を平気で演奏していて憤慨に堪えない。ずるい人になると題名を時局的に変え(たとえば《南の風》など)、作曲者名を削除して自分の名を編曲者として入れてハワイ音楽やブルースをそのままやっている。
 
われわれは大正中期から昭和初期にかけて~~~アメリカ映画やアメリカ型レヴューを見、アメリカ音楽を聴いた。したがって~~~米英楽曲を一般大衆が好むことを必ずしも咎められない。
 
しかし、そうだからといって音楽家がその好みに媚びることは許されない。聴衆が好むものでも、有害なものは棄てなければならない。
 
米英文化は有害であり、反国民的である。米英音楽を捨て去るように聴衆を導かなければならない。小関康幸のホームページ
 
実に単純明快、その変わり身の鮮やかさには只々感心するのみ。小生もそんな器用さがあれば、今頃はもっとマシな境遇にあるかも。
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「大正少年唱歌」③~競作~短ハ調 

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「大正少年唱歌」で目に付いた幾つかの作品をメモしておこう。
 
小松耕輔「勝った亀の子」ニ調二拍子
 言わずと知れる“兎と亀”のお話だ。もともと“亀の子”だったのだろうか、よく覚えていない。兎は“兎の子”だったのかな。有名な童謡兎と亀」(石原和三郎/納所弁次郎)の歌詞は、兎と亀との対話形式になっている。明治時代にしては洒落た作品だと思う。こちら大正版は、説明、教訓調である。
 
梁田貞「赤とんぼ」ヘ調六拍子
 “あれあれ とんぼ とんぼ、つづいて来るよ。 きれいな羽をば、水にうつし、
いくつも いくつも、後から後へ、あれあれ つづいて、赤とんぼ来る。~”
有名な「赤とんぼ」(三木露風/山田耕筰)は大正10年(1921年)作詞、昭和2年(1927年)作曲というから、多分梁田版の方が先だろう。山田耕筰の歌曲風とは当然に印象が違って、唱歌風だが、悪くない。
 
小松耕輔「タンク」ト調二拍子 (文部省認定)
 タンクは戦車のことだ。今ではタンクと言えば、液体やガスの容器を思い浮かべるのが普通だろう。いつごろから戦車の意味が薄れたのだろう。日本が異例の長期平和(無戦争)を享受している間にガスタンク、ポリタンクなどが優勢になったのだろうか。
 “~ ドン、ドン、ドン、ドン、敵の弾丸、 パッ、パッ、パッ、パッ、當るとも、
    少しも恐れず、進むよ進む。 鉄条網も、塹壕も、 あれ、あれ、タンクが乗り越すよ。”
 武器、戦闘車両のイメージを催さない歌詞は、タンクがカッコいい先端技術(の乗り物)として受け止められていたことを反映するのだろうか。
 
梁田貞「養老」短ハ調二拍子
 題名から内容を推し量ることが出来なかった。“養老の滝”の話なのだ。そんな話のあることも知らなかったのだが、周知の物語なのか。酒好きの老父に孝行を尽くす貧しい樵に、神様が酒の瀧を賜ったというのだが。親孝行の奨めとは言え、さすがに文部省認定とはならなかったようだ。
 
ところで、“短ハ調”と表示されているのは、勿論“ハ短調”なのだが、昔はこのような呼称が普通だったのか。長調の場合は“長”を略している。
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井上頼豊②~思想・言論統制~四半世紀前の予言

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聞き書き 井上頼豊 音楽・時代・ひと」(井上頼豊~堀内敬三~敵性音楽追放 2013/12/11())には興味深い逸話が散りばめられている。最近の秘密保護法制定や共謀罪蒸し返しを髣髴させる(?前後関係が逆?)七十~八十年前の出来事などを抜き書きしておこう:
 
“治安維持法や国家総動員法でだれも文句が言えないような時代に、音楽家の意見を発表する自主的な運動「楽団プロメテ」をつくった。メンバーは安倍幸明、小倉朗、尾崎宗吉、原太郎、深井史朗、山田一雄、山根銀二、園部三郎、松本善三、桑沢雪子、喜安三郎、井上頼豊だった。創作、演奏、批評の三分野を統一した仕事をしようというものだったが、2回の演奏会しか出来なかった。運動よりも早く情報局の圧力があった。
 
 音楽団体に直接の統制が強まり、楽壇新体制推進同盟(山田耕筰、堀内敬三、吉本明光が指導)が発足し、ジャズが禁止され、ダンスホールが閉鎖された。
 
音楽批評家にもファシズムを掲げ、ユダヤ人排撃を唱える者が出てきた。演奏曲目(作曲家)にも規制が掛るようになった。これらに対して音楽家やファンの側から意見は出せなかった。どんな音楽会にも憲兵や警官が監視に来た。
 
大正リベラリズムからさほど時間の経たない時期に言論や演奏が効果的に抑圧されるようになったのには、マスコミが政府のちょうちん持ちで、真実の報道が無かったことが大きい。権力に対立する者に対する直接弾圧は容易であり、それを当然視する雰囲気があった。みんな黙ってしまった。最初に権力が介入して来た時にみんなが手を繋ぎ、守るべきものは守る覚悟で対処すれば、事態は変わっていたかもしれない。
 
 今(四半世紀前)はマシな状況だが、簡単に昔通りのやり方で抑圧して来るかも知れない。ほかに手は無いはずだ。要するに、数と力で問答無用にすること、組織をあらかじめがんじがらめにしておくでしょう。
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北朝鮮情勢~国会議員・猪木氏~交渉ごと

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我が意に沿わないご時世とあって、内心、愚痴の絶えない日々だ、時には吐き出さないと憤死しかねない、と言うのは誇張だが、最近の北朝鮮情勢に絡み、国会議員の猪木氏が近々同国を訪問するとの報道と共に、面白い記事を見た:
 
“猪木氏が、北朝鮮と太いパイプを持つワケ  東洋経済オンライン 118()80分配信
 ~猪木氏が盛んに語る「外交に一方的な勝利はない」という信念も、プロレスが相手の強さを引き立て、双方がウィンウィンの状況をつくることが最高の試合である、というその本質がよい意味で影響している~”
 
プロレスラーがいつの間にか国会議員になっていたのに驚いたのは、もう随分前のことだと思う。猪木氏が北朝鮮要人と交流できることも不思議に思っていた。
 
素朴な疑問が百パーセント解けたわけではないが、上に引用した猪木氏の「外交に一方的な勝利はない」という信念は、11年前の我が経験を思い出させる。
 
ある公的な会議の席上、“このような交渉ごと(訴訟)においては、折り合いを付けることが現実的である”旨の陳述をした。一方の当事者側の会議であったが、みなさん、要求貫徹の意気軒昂であった。
 
第三者の立場で見れば、相手側にも一理あることは明白であったが、面子や政治的な思惑などもあって、責任者は拳を振り上げたまま、降ろせなかったようだ。周囲の関係者たちは、無責任だから、威勢の良い声を張り上げていた。誰も冷静な意見を出さなかった。
 
結果は、訴訟で大損をした。誰も責任を取らなかった。追及もされなかった。みんなが声を揃えて要求貫徹を唱えていたから。我が国のいわゆる世論には、このような傾向が無いだろうか。無ければ幸いだ。
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